史記 / 秦始皇本紀
使御府視璧,乃二十八年行渡江所沈璧也。於是始皇卜之,卦得游徙吉。遷北河榆中三萬家。拜爵一級。三十七年十月癸丑,始皇出游。左丞相斯從,右丞相去疾守。少子胡亥愛慕請從,上許之。十一月,行至雲夢,望祀虞舜於九疑山。浮江下,觀籍柯,渡海渚。過丹陽,至錢唐。臨浙江,水波惡,乃西百二十里從狹中渡。上會稽,祭大禹,望于南海,而立石刻頌秦德。其文曰:皇帝休烈,平一宇內,德惠修長。三十有七年,親巡天下,周覽遠方。遂登會稽,宣省習俗,黔首齋莊。群臣誦功,本原事跡,追首高明。秦聖臨國,始定刑名,顯陳舊章。初平法式,審別職任,以立恒常。六王專倍,貪戾傲猛,率眾自彊。暴虐恣行,負力而驕,數動甲兵。陰通閒使,以事合從,行為辟方。內飾詐謀,外來侵邊,遂起禍殃。義威誅之,殄熄暴悖,亂賊滅亡。聖德廣密,六合之中,被澤無疆。皇帝并宇,兼聽萬事,遠近畢清。運理群物,考驗事實,各載其名。貴賤并通,善否陳前,靡有隱情。飾省宣義,有子而嫁,倍死不貞。防隔內外,禁止淫泆,男女絜誠。夫為寄豭,殺之無罪,男秉義程。妻為逃嫁,子不得母,咸化廉清。大治濯俗,天下承風,蒙被休經。皆遵度軌,和安敦勉,莫不順令。
新字:使御府視璧,乃二十八年行渡江所沈璧也。於是始皇卜之,卦得游徙吉。遷北河榆中三万家。拝爵一級。三十七年十月癸丑,始皇出游。左丞相斯従,右丞相去疾守。少子胡亥愛慕請従,上許之。十一月,行至雲夢,望祀虞舜於九疑山。浮江下,観籍柯,渡海渚。過丹陽,至銭唐。臨浙江,水波悪,乃西百二十里従狭中渡。上会稽,祭大禹,望于南海,而立石刻頌秦徳。其文曰:皇帝休烈,平一宇内,徳恵修長。三十有七年,親巡天下,周覧遠方。遂登会稽,宣省習俗,黔首斎荘。群臣誦功,本原事跡,追首高明。秦聖臨国,始定刑名,顕陳旧章。初平法式,審別職任,以立恒常。六王専倍,貪戻傲猛,率衆自彊。暴虐恣行,負力而驕,数動甲兵。陰通閒使,以事合従,行為辟方。内飾詐謀,外来侵辺,遂起禍殃。義威誅之,殄熄暴悖,乱賊滅亡。聖徳広密,六合之中,被沢無疆。皇帝并宇,兼聴万事,遠近畢清。運理群物,考験事実,各載其名。貴賤并通,善否陳前,靡有隠情。飾省宣義,有子而嫁,倍死不貞。防隔内外,禁止淫泆,男女絜誠。夫為寄豭,殺之無罪,男秉義程。妻為逃嫁,子不得母,咸化廉清。大治濯俗,天下承風,蒙被休経。皆遵度軌,和安敦勉,莫不順令。
書き下し
御府をして璧を視しむるに、乃ち二十八年に行きて江を渡りしときに沈めし所の璧なり。是に於て始皇之を卜するに、卦游徙に吉なるを得たり。北河・楡中に三万家を遷す。爵一級を拝す。三十七年十月癸丑、始皇出游す。左丞相斯従ひ、右丞相去疾守る。少子胡亥愛慕して従はんことを請ひ、上之を許す。十一月、行きて雲夢に至り、虞舜を九疑山に望祀す。江に浮かびて下り、籍柯を観、海渚を渡る。丹陽を過ぎ、銭唐に至る。浙江に臨むに、水波悪し。乃ち西のかた百二十里、狭中より渡る。会稽に上り、大禹を祭り、南海を望み、而して石を立てて秦の徳を刻頌す。其の文に曰く、皇帝の休烈、宇内を平一し、徳恵修長なり。三十有七年、親しく天下を巡り、周く遠方を覧る。遂に会稽に登り、習俗を宣省し、黔首斎荘す。群臣功を誦し、事跡を本原し、高明を追首す。秦の聖国に臨み、始めて刑名を定め、旧章を顕陳す。初めて法式を平らかにし、職任を審別し、以て恒常を立つ。六王専倍し、貪戻傲猛にして、衆を率ゐて自ら彊しとす。暴虐恣に行ひ、力を負みて驕り、数甲兵を動かす。陰かに間使を通じ、以て合従を事とし、行ひは辟方を為す。内は詐謀を飾り、外は来たりて辺を侵し、遂に禍殃を起こす。義威もて之を誅し、暴悖を殄熄し、乱賊滅亡す。聖徳広密にして、六合の中、沢を被ること疆り無し。皇帝宇を并せ、兼ねて万事を聴き、遠近畢く清し。群物を運理し、事実を考験し、各其の名を載す。貴賤并び通じ、善否前に陳なり、隠情有る靡し。飾省して義を宣べ、子有りて嫁するは、死に倍きて貞ならず。内外を防隔し、淫泆を禁止し、男女絜誠なり。夫の寄豭を為すは、之を殺すも罪無く、男は義程を秉る。妻の逃嫁を為すは、子母を得ず、咸廉清に化す。大いに治めて俗を濯ひ、天下風を承け、休経を蒙被す。皆度軌に遵ひ、和安敦勉にして、令に順はざる莫し。
現代語訳
御府(宮中の宝物庫)の役人にその璧を調べさせたところ、二十八年に巡遊して長江を渡ったとき、川に沈めて祭った璧であった。そこで始皇帝は占いを立て、旅に出て移ることが吉という卦を得た。北河・楡中に三万家を移住させた。民に爵位一級を与えた。三十七年十月癸丑の日、始皇帝は巡遊に出た。左丞相の李斯が随行し、右丞相の馮去疾が都を守った。末子の胡亥は父を慕って随行を願い出て、皇帝はこれを許した。十一月、雲夢に至り、九疑山に向かって虞舜を望み祭った。長江を舟で下り、籍柯を見て、海辺の中州を渡った。丹陽を過ぎ、銭唐に至った。浙江(銭塘江)に臨んだが、波が荒かった。そこで西へ百二十里行き、川幅の狭い所から渡った。会稽山に登り、禹を祭り、南海を望み、石碑を立てて秦の徳をたたえる文を刻んだ。その文にいう。皇帝の輝かしい功業は、天下を平定して一つにし、徳と恵みは長く続く。三十七年、自ら天下を巡り、遠方をあまねく見渡す。ついに会稽山に登り、風俗を明らかに視察すると、民は慎み深く厳かである。群臣は功績をたたえ、事跡の根本をたずね、その高く明らかな徳を振り返る。秦の聖王は国に臨み、はじめて刑罰と名目を定め、古い法をはっきりと示した。はじめて法と規範を公平にし、職責を詳しく区別して、変わらぬ基準を立てた。六国の王は勝手に背き、むさぼり道にもとり、傲慢で乱暴で、民衆を率いて自ら強いとした。暴虐をほしいままにし、力を頼んで驕り、たびたび兵を動かした。ひそかに間者を通わせて合従を企て、その行いはよこしまであった。内には偽りの謀をめぐらし、外からは辺境を侵して、ついに災いを引き起こした。正義の威光によってこれを討ち、暴虐と反逆を絶やし、乱をなす賊は滅びた。聖なる徳は広く行き届き、天地四方の中で、その恩沢を受けることは果てしない。皇帝は天下を併せ、あらゆる事をすべて聞き、遠くも近くもすべて清らかである。万物を治め整え、事実を調べ確かめ、それぞれにその名を記す。貴い者も賤しい者もともに通じ合い、善も悪も目の前に並べられ、隠された実情はない。過ちを戒めて正義を広め、子がありながら再婚するのは、死んだ夫に背く不貞である。家の内と外をへだて、淫らな行いを禁じ、男女は清く誠実である。夫が他人の家に通って(雄豚のように)姦通すれば、殺しても罪にならず、男は正しい規範を守る。妻が逃げて他に嫁げば、子はその母を母とできず、みな清廉に教化される。大いに治めて風俗を洗い清め、天下はその風を受け、立派な規範の恩恵を受ける。みな法度に従い、和やかで安らかに、篤く励み、命令に従わない者はない。
解説
関連する章句
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史記 秦始皇本紀秦諸侯を破る毎に、其の宮室を写放し、之を咸陽の北阪の上に作る。南は渭に臨み、雍門より以東涇・渭に至るまで、殿屋・複道・周閣相属す。得る所の諸侯の美人・鐘鼓、以て之に充入す。二十七年、始皇隴西・北地を巡り、雞頭山に出で、回中を過ぐ。焉に信宮を渭南に作り、已にして更めて信宮を命じて極廟と為し、天極に象る。極廟より道酈山に通じ、甘泉の前殿を作る。甬道を築き、咸陽より之に属す。是の歳、爵一級を賜ふ。馳道を治む。二十八年、始皇東のかた郡県を行り、鄒の嶧山に上る。石を立て、魯の諸儒生と議し、石に刻して秦の徳を頌し、封禅・望祭山川の事を議す。乃ち遂に泰山に上り、石を立て、封じ、祠祀す。下るとき、風雨暴かに至り、樹下に休む。因りて其の樹を封じて五大夫と為す。梁父に禅す。立つる所の石に刻す。其の辞に曰く、皇帝位に臨み、制を作り法を明らかにし、臣下修飭す。二十有六年、初めて天下を并せ、賓服せざる罔し。親しく遠方の黎民を巡り、茲の泰山に登り、周く東極を覧る。従臣跡を思ひ、事業を本原し、祗みて功徳を誦す。治道運行し、諸産宜しきを得、皆法式有り。大義休明にして、後世に垂れ、順承して革むる勿かれ。皇帝躬ら聖にして、既に天下を平らげ、治に懈らず。夙に興き夜に寐ね、長利を建設し、専ら教誨を隆くす。訓経宣達し、遠近畢く理まり、咸聖志を承く。貴賤分明にして、男女礼順し、慎みて職事に遵ふ。内外を昭隔し、清浄ならざる靡く、後嗣に施す。化は無窮に及び、遺詔を遵奉し、永く重戒を承けよ。是に於て乃ち勃海に并ひて以東し、黄・腄を過ぎ、成山を窮め、之罘に登り、石を立てて秦の徳を頌して去る。南のかた瑯邪に登り、大いに之を楽しみ、留まること三月。乃ち黔首三万戸を瑯邪台の下に徙し、復すること十二歳。瑯邪台を作り、石刻を立て、秦の徳を頌し、意を得たるを明らかにす。
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史記 秦始皇本紀曰く、「古の帝者は、地千里に過ぎず、諸侯各其の封域を守り、或いは朝し或いは否ず、相侵して暴乱し、残伐止まず。猶ほ金石に刻して、以て自ら紀と為す。古の五帝三王は、知教同じからず、法度明らかならず、威を鬼神に仮りて、以て遠方を欺く。実名に称はず、故に久長ならず。其の身未だ歿せずして、諸侯倍叛し、法令行はれず。今皇帝海内を并一し、以て郡県と為し、天下和平なり。宗廟を昭明にし、道を体し徳を行ひ、尊号大いに成る。群臣相与に皇帝の功徳を誦し、金石に刻して、以て表経と為す」と。既に已はり、斉人徐巿等上書して言ふ、海中に三神山有り、名を蓬萊・方丈・瀛洲と曰ふ、僊人之に居る。請ふ斎戒して、童男女と之を求むることを得んと。是に於て徐巿を遣はして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ。始皇還り、彭城を過ぎ、斎戒禱祠して、周の鼎を泗水より出ださんと欲す。千人をして水に没して之を求めしむるも、得ず。乃ち西南のかた淮水を渡り、衡山・南郡に之く。江に浮かび、湘山祠に至る。大風に逢ひ、幾ど渡るを得ず。上博士に問ひて曰く、「湘君は何の神ぞ」と。博士対へて曰く、「之を聞く、堯の女、舜の妻にして、此に葬ると」と。是に於て始皇大いに怒り、刑徒三千人をして皆湘山の樹を伐り、其の山を赭くせしむ。上南郡より武関に由りて帰る。二十九年、始皇東游す。陽武の博狼沙中に至り、盗の驚かす所と為る。求むるも得ず、乃ち天下に令して大いに索むること十日。之罘に登り、石に刻す。其の辞に曰く、維れ二十九年、時は中春に在り、陽和方に起こる。皇帝東游し、巡りて之罘に登り、海に臨照す。従臣嘉観し、休烈を原念し、本始を追誦す。大聖治を作し、法度を建定し、綱紀を顕著す。外は諸侯を教へ、光かに文恵を施し、明らかにするに義理を以てす。六国回辟にして、貪戻厭く無く、虐殺已まず。皇帝衆を哀れみ、遂に討師を発し、武徳を奮揚す。
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史記 秦始皇本紀恵は諸産に被び、久しく并せて来たりて田し、所に安んぜざる莫し。群臣烈を誦し、此の石に刻さんことを請ひ、儀矩を垂著す。因りて韓終・侯公・石生をして僊人不死の薬を求めしむ。始皇北辺を巡り、上郡より入る。燕人盧生使ひして海に入りて還り、鬼神の事を以て、因りて録図書を奏す。曰く「秦を亡ぼす者は胡なり」と。始皇乃ち将軍蒙恬をして兵三十万人を発して北のかた胡を撃たしめ、河南の地を略取す。三十三年、諸の嘗て逋亡せし人・贅婿・賈人を発して陸梁の地を略取し、桂林・象郡・南海と為し、以て適遣して戍らしむ。西北のかた匈奴を斥逐す。楡中より河に并ひて以東、之を陰山に属し、以て三十四県と為し、河上に城きて塞と為す。又蒙恬をして河を渡りて高闕・陽山・北仮の中を取り、亭障を築きて以て戎人を逐はしむ。謫を徙して、之を初県に実たす。禁じて祠るを得ざらしむ。明星西方に出づ。三十四年、獄吏の直ならざる者を適して、長城及び南越の地を築かしむ。始皇酒を咸陽宮に置き、博士七十人前みて寿を為す。僕射周青臣進みて頌して曰く、「他時秦の地千里に過ぎず。陛下の神霊明聖に頼り、海内を平定し、蛮夷を放逐し、日月の照らす所、賓服せざる莫し。諸侯を以て郡県と為し、人人自ら安楽にして、戦争の患ひ無く、之を万世に伝ふ。上古より陛下の威徳に及ばず」と。始皇悦ぶ。博士の斉人淳于越進みて曰く、「臣聞く、殷・周の王たること千余歳、子弟功臣を封じ、自ら枝輔と為すと。今陛下海内を有つも、而も子弟匹夫と為る。卒に田常・六卿の臣有らば、輔拂無くして、何を以て相救はんや。事古を師とせずして能く長久なる者は、聞く所に非ざるなり。今青臣又面諛して以て陛下の過ちを重ぬ、忠臣に非ず」と。始皇其の議を下す。
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史記 秦始皇本紀義もて誅し信もて行ひ、威は旁く達し、賓服せざる莫し。彊暴を烹滅し、黔首を振救し、周く四極を定む。普く明法を施し、天下を経緯し、永く儀則と為す。大なるかな、宇県の中、聖意に承順す。群臣功を誦し、石に刻さんことを請ひ、常式に表垂す。其の東観に曰く、二十九年、皇帝春に游び、遠方を覧省す。海隅に逮び、遂に之罘に登り、朝陽に昭臨す。広麗を観望し、従臣咸念ひ、道を原ぬること至明なり。聖法初めて興り、疆内を清理し、外は暴彊を誅す。武威旁く暢び、四極を振動し、六王を禽滅す。天下を闡并し、甾害絶息し、永く戎兵を偃す。皇帝の明徳、宇内を経理し、視聴怠らず。大義を作立し、備器を昭設し、咸章旗有り。職臣分に遵ひ、各行ふ所を知り、事に嫌疑無し。黔首化を改め、遠邇度を同じくし、古に臨みて絶尤なり。常職既に定まり、後嗣業に循ひ、長く聖治を承けん。群臣徳を嘉し、祗みて聖烈を誦し、之罘に刻さんことを請ふ。旋りて、遂に瑯邪に之き、上党に道して入る。三十年、事無し。三十一年十二月、臘を更名して「嘉平」と曰ふ。黔首に里ごとに米六石、羊二を賜ふ。始皇咸陽に微行を為し、武士四人と倶にし、夜出でて盗に蘭池に逢ひ、窘めらる。武士盗を撃ち殺す。関中大いに索むること二十日。米石千六百。三十二年、始皇碣石に之き、燕人盧生をして羨門・高誓を求めしむ。碣石の門に刻す。城郭を壊ち、隄防を決通す。其の辞に曰く、遂に師旅を興し、無道を誅戮し、逆を為す滅息す。武は暴逆を殄し、文は無罪を復し、庶心咸服す。恵みて功労を論じ、賞は牛馬に及び、恩は土域を肥やす。皇帝威を奮ひ、徳は諸侯を并せ、初めて一に泰平なり。城郭を墮壊し、川防を決通し、険阻を夷去す。地勢既に定まり、黎庶繇無く、天下咸撫す。男は其の疇を楽しみ、女は其の業を修め、事各序有り。
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史記 秦始皇本紀黔首修絜にして、人同則を楽しみ、嘉して太平を保つ。後敬みて法を奉ぜば、常治極まり無く、輿舟傾かず。従臣烈を誦し、此の石に刻さんことを請ひ、休銘を光垂す。還りて呉を過ぎ、江乗より渡る。海上に并ひ、北のかた瑯邪に至る。方士徐巿等海に入りて神薬を求むるも、数歳にして得ず、費多く、譴めらるるを恐れ、乃ち詐りて曰く、「蓬萊の薬得可し。然れども常に大鮫魚の苦しむる所と為る、故に至るを得ず。願はくは善く射る者を請ひて与に倶にし、見れば則ち連弩を以て之を射ん」と。始皇夢に海神と戦ふ、人の状の如し。占夢に問ふ。博士曰く、「水神は見る可からず、大魚蛟龍を以て候と為す。今上禱祠備はり謹めるに、此の悪神有り。当に除去すべし、而して善神致す可し」と。乃ち海に入る者をして巨魚を捕ふる具を齎さしめ、而して自ら連弩を以て大魚の出づるを候ひて之を射んとす。瑯邪より北して栄成山に至るも、見ず。之罘に至り、巨魚を見、一魚を射殺す。遂に海に并ひて西す。平原津に至りて病む。始皇死を言ふを悪む。群臣敢へて死の事を言ふ莫し。上の病益甚だし。乃ち璽書を為りて公子扶蘇に賜ひて曰く、「喪と咸陽に会して葬れ」と。書已に封じ、中車府令趙高の符璽の事を行ふ所に在りて、未だ使者に授けず。七月丙寅、始皇沙丘の平台に崩ず。丞相斯上の外に崩じたるが為に、諸公子及び天下の変有らんことを恐れ、乃ち之を秘して、喪を発せず。棺は轀涼車の中に載せ、故の幸宦者参乗し、至る所上食す。百官奏事すること故の如く、宦者輒ち轀涼車の中より其の奏事を可とす。独り子胡亥・趙高及び幸する所の宦者五六人のみ上の死せるを知る。趙高故嘗て胡亥に書及び獄律令法の事を教ふ。胡亥私かに之を幸す。
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史記 封禅書秦の始皇天下を并するに至るに及び、海上に至れば、則ち方士之を言ふこと勝げて数ふ可からず。始皇自ら以為へらく海上に至りて及ばざらんことを恐ると、人をして乃ち童男女を齎して海に入りて之を求めしむ。船交々海中にあるも、皆風を以て解と為し、曰く未だ至る能はざるも、之を望見すと。其の明年、始皇復た海上に游び、瑯邪に至り、恒山を過ぎ、上党より帰る。後三年、碣石に游び、海に入る方士を考へ、上郡より帰る。後五年、始皇南のかた湘山に至り、遂に会稽に登り、海上に并ひ、海中の三神山の奇薬に遇はんことを冀ふ。得ず、還りて沙丘に至りて崩ず。二世元年、東のかた碣石を巡り、海に并ひて南し、泰山を歴て会稽に至り、皆之を礼祠し、而して始皇の立つる所の石書の旁に刻勒し、以て始皇の功徳を章らかにす。其の秋、諸侯秦に畔く。三年にして二世弑されて死す。始皇封禅の後十二歳にして秦亡ぶ。諸儒生、秦の詩書を焚き、文学を誅僇するを疾み、百姓は其の法を怨み、天下之に畔き、皆訛りて曰く、「始皇泰山に上り、暴風雨の撃つ所と為り、封禅するを得ず」と。此れ豈に所謂其の徳無くして事を用ふる者か。昔、三代の君は皆河・洛の間に在り、故に嵩高を中岳と為し、而して四岳各々其の方の如く、四瀆咸な山東に在り。秦の帝と称し、咸陽に都するに至りて、則ち五岳・四瀆皆并せて東方に在り。五帝より以て秦に至るまで、軼いに興り軼いに衰へ、名山大川或いは諸侯に在り、或いは天子に在り、其の礼の損益は世々殊にして、勝げて記す可からず。秦の天下を并するに及びて、祠官をして常に奉ずる所の天地・名山大川・鬼神を得て序づ可からしむ。是に於て殽より以東、名山五、大川の祠二。曰く太室、太室は嵩高なり。恒山、泰山、会稽、湘山。水は済と曰ひ、淮と曰ふ。春は脯酒を以て歳祠と為し、因りて凍を泮き、秋は凍を涸し、冬は塞禱して祠る。
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