史記 / 秦始皇本紀
貪於權勢至如此,未可為求僊藥。」於是乃亡去。始皇聞亡,乃大怒曰:「吾前收天下書不中用者盡去之。悉召文學方術士甚眾,欲以興太平,方士欲練以求奇藥。今聞韓眾去不報,徐巿等費以巨萬計,終不得藥,徒姦利相告日聞。盧生等吾尊賜之甚厚,今乃誹謗我,以重吾不德也。諸生在咸陽者,吾使人廉問,或為訞言以亂黔首。」於是使御史悉案問諸生,諸生傳相告引,乃自除犯禁者四百六十餘人,皆阬之咸陽,使天下知之,以懲後。益發謫徙邊。始皇長子扶蘇諫曰:「天下初定,遠方黔首未集,諸生皆誦法孔子,今上皆重法繩之,臣恐天下不安。唯上察之。」始皇怒,使扶蘇北監蒙恬於上郡。三十六年,熒惑守心。有墜星下東郡,至地為石,黔首或刻其石曰「始皇帝死而地分」。始皇聞之,遣御史逐問,莫服,盡取石旁居人誅之,因燔銷其石。始皇不樂,使博士為僊真人詩,及行所游天下,傳令樂人歌弦之。秋,使者從關東夜過華陰平舒道,有人持璧遮使者曰:「為吾遺滈池君。」因言曰:「今年祖龍死。」使者問其故,因忽不見,置其璧去。使者奉璧具以聞。始皇默然良久,曰:「山鬼固不過知一歲事也。」退言曰:「祖龍者,人之先也。」
新字:貪於権勢至如此,未可為求僊薬。」於是乃亡去。始皇聞亡,乃大怒曰:「吾前収天下書不中用者尽去之。悉召文学方術士甚衆,欲以興太平,方士欲練以求奇薬。今聞韓衆去不報,徐巿等費以巨万計,終不得薬,徒姦利相告日聞。盧生等吾尊賜之甚厚,今乃誹謗我,以重吾不徳也。諸生在咸陽者,吾使人廉問,或為訞言以乱黔首。」於是使御史悉案問諸生,諸生伝相告引,乃自除犯禁者四百六十余人,皆阬之咸陽,使天下知之,以懲後。益発謫徙辺。始皇長子扶蘇諫曰:「天下初定,遠方黔首未集,諸生皆誦法孔子,今上皆重法縄之,臣恐天下不安。唯上察之。」始皇怒,使扶蘇北監蒙恬於上郡。三十六年,熒惑守心。有墜星下東郡,至地為石,黔首或刻其石曰「始皇帝死而地分」。始皇聞之,遣御史逐問,莫服,尽取石旁居人誅之,因燔銷其石。始皇不楽,使博士為僊真人詩,及行所游天下,伝令楽人歌弦之。秋,使者従関東夜過華陰平舒道,有人持璧遮使者曰:「為吾遺滈池君。」因言曰:「今年祖竜死。」使者問其故,因忽不見,置其璧去。使者奉璧具以聞。始皇黙然良久,曰:「山鬼固不過知一歳事也。」退言曰:「祖竜者,人之先也。」
書き下し
権勢を貪ること此の如きに至る。未だ為に僊薬を求む可からず」と。是に於て乃ち亡げ去る。始皇亡ぐるを聞き、乃ち大いに怒りて曰く、「吾前に天下の書の用に中らざる者を収めて尽く之を去る。悉く文学方術の士を召すこと甚だ衆く、以て太平を興さんと欲し、方士は練りて以て奇薬を求めんと欲す。今聞く、韓衆去りて報ぜず、徐巿等費すこと巨万を以て計ふるも、終に薬を得ず、徒だ姦利もて相告ぐること日に聞こゆと。盧生等は吾之を尊び賜ふこと甚だ厚し。今乃ち我を誹謗し、以て吾が不徳を重ぬ。諸生の咸陽に在る者、吾人をして廉問せしむるに、或いは訞言を為して以て黔首を乱す」と。是に於て御史をして悉く諸生を案問せしむ。諸生伝へて相告引し、乃ち自ら禁を犯す者四百六十余人を除き、皆之を咸陽に阬にし、天下をして之を知らしめ、以て後を懲らす。益謫を発して辺に徙す。始皇の長子扶蘇諫めて曰く、「天下初めて定まり、遠方の黔首未だ集まらず。諸生皆孔子を誦法す。今上皆法を重くして之を縄す。臣天下の安からざることを恐る。唯だ上之を察せよ」と。始皇怒り、扶蘇をして北のかた蒙恬を上郡に監せしむ。三十六年、熒惑心を守る。墜星有りて東郡に下り、地に至りて石と為る。黔首或いは其の石に刻して曰く「始皇帝死して地分かれん」と。始皇之を聞き、御史を遣はして逐問せしむるも、服する莫し。尽く石の旁らの居人を取りて之を誅し、因りて其の石を燔銷す。始皇楽しまず、博士をして僊真人の詩を為らしめ、及び行きて天下に游ぶ所、伝へて楽人に令して之を歌弦せしむ。秋、使者関東より夜華陰の平舒の道を過ぐ。人有りて璧を持ちて使者を遮りて曰く、「吾が為に滈池君に遺れ」と。因りて言ひて曰く、「今年祖龍死せん」と。使者其の故を問ふ。因りて忽ち見えず、其の璧を置きて去る。使者璧を奉じて具に以て聞す。始皇默然たること良久しくして、曰く、「山鬼は固より一歳の事を知るに過ぎざるなり」と。退きて言ひて曰く、「祖龍とは、人の先なり」と。
現代語訳
(侯生と盧生は言った。)「(始皇帝が)権勢をむさぼることはこれほどである。この人のために仙薬を探してやるわけにはいかない。」そこで二人は逃げ去った。始皇帝は二人が逃げたと聞くと、大いに怒って言った。「私は以前、天下の書物のうち役に立たないものを集めてすべて処分した。そして学者や方術の士を大勢呼び集め、太平の世を興そうとし、方士には薬を練って珍しい薬を探させようとした。ところが今聞けば、韓衆は去って報告もせず、徐巿らは莫大な費用を使いながら、ついに薬を得られず、ただ不正な利益をめぐって互いに告発し合う話ばかりが毎日耳に入る。盧生らは私が尊重して、非常に手厚く褒美を与えていた。それなのに今、私を誹謗し、私の不徳を重ねて言いふらしている。咸陽にいる学者たちについて、私は人を遣わして調べさせたが、中には妖しい言葉を広めて民を惑わせている者もいる。」そこで御史にすべての学者を取り調べさせた。学者たちは互いに告発し合って他人を巻き込み、禁令を犯したとされた者は四百六十余人に及んだ。その全員を咸陽で生き埋めにし、天下に知らせて後の見せしめとした。さらに多くの罪人を徴発して辺境に移住させた。始皇帝の長子の扶蘇が諫めて言った。「天下は定まったばかりで、遠方の民はまだ心服していない。学者たちはみな孔子の教えを学び、手本としている。今、陛下はみな重い法で罰しておられる。私は天下が安定しなくなるのではと恐れる。どうか陛下、よくお考えいただきたい。」始皇帝は怒り、扶蘇を北の上郡へ送って蒙恬の軍を監督させた。三十六年、火星が心宿(さそり座の一部)にとどまった(不吉な天象である)。流れ星が東郡に落ち、地上で石となった。民のある者がその石に「始皇帝が死んで天下は分裂する」と刻んだ。始皇帝はこれを聞き、御史を遣わして追及させたが、誰も罪を認めなかった。そこで石の近くに住む者をすべて捕らえて殺し、その石を焼いて溶かした。始皇帝は楽しまず、博士に仙人や真人をうたう詩を作らせ、巡遊した天下の各地で、楽人に命じてこれを歌わせ演奏させた。秋、使者が関東から夜に華陰の平舒の道を通りかかると、ある人が璧(玉の輪)を持って使者の前に立ちふさがり、「私のためにこれを滈池君に届けてくれ」と言い、さらに「今年、祖龍が死ぬ」と言った。使者がその訳を尋ねると、その人はたちまち姿を消し、璧を置いて去った。使者は璧を捧げて詳しく報告した。始皇帝は長い間黙り込んでいたが、やがて「山の鬼はもともと一年先のことしか知らないものだ」と言った。退出してから「祖龍とは人の祖先のことだ(私のことではない)」と言った。
解説
関連する章句
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説苑・反質秦の始皇既に天下を兼ねて、大いに侈靡し、位に即くこと三十五年猶お息まず、大馳道を治め、九原自り雲陽に抵り、山を塹り谷を堙めて直に之に通ず。先王の宮室の小なるを厭い、乃ち豐鎬の間、文武の處に於て、朝宮を營作す、渭南の山林苑中に前殿を作る、阿房東西五百步、南北五十丈、上は萬人を坐すべく、下は五丈の旗を建つべし、周りに閣道を為す。殿自り直ちに南山の嶺に抵りて以て闕と為し、複道を為し、阿房自り渭水を渡りて咸陽に屬し、以て天極に象り、閣道漢を絕ち、營室に抵るなり。又驪山の役を興し、三泉の底を錮め、關中の離宮三百所、關外四百所、皆鐘磐帷帳、婦女倡優有り。石闕を東海上朐山の界中に立て、以て秦の東門と為す。是に於て方士韓客侯生、齊客盧生有り、相與に謀りて曰く、「當今の時は以て居るべからず、上は刑殺を以て威と為すを樂しみ、天下罪を畏る。祿を持して敢えて盡忠せず、上は過を聞かずして日に驕り、下は懾伏して以て慢欺して容を取り、諫者用いられずして道を失うこと滋よ甚し。吾が黨久しく居らば、且に害せらる所と為らんとす。」乃ち相與に亡げ去る。始皇之を聞きて大いに怒り、曰く、「吾異日盧生を厚くし、爵を尊びて之に事えしむ、今乃ち我を誹謗す、吾諸生多く妖言を為して以て黔首を亂すと聞く。」乃ち御史をして悉く諸生を上げしむ、諸生傳えて相い告げ、法を犯す者四百六十餘人、皆之を坑にす。盧生は得ず、而して侯生後に得らる、始皇之を聞きて、召して之に見え、阿東の臺に升り、四通の街に臨み、將に數えて之を車裂かんとす。始皇侯生を望見して、大いに怒りて曰く、「老虜不良、而が主を誹謗し、迺ち敢えて復た我に見ゆるか!」侯生至りて、臺を仰ぎて言いて曰く、「臣聞く、死を知れば必ず勇なりと、陛下臣の一言を聽くを肯んぜんか?」始皇曰く、「若何をか言わんと欲する?之を言え!」侯生曰く、「臣聞く、禹誹謗の木を立つるは、以て過を知らんと欲すればなり。今陛下奢侈にして本を失い、淫泆にして末に趨き、宮室臺閣、連屬增累し、珠玉重寶、積襲して山を成し、錦繡文采、府に滿ちて餘り有り、婦女倡優、數巨萬人、鍾鼓の樂、流漫窮まり無く、酒食珍味、盤錯して前に有り、衣服輕暖、輿馬文飾、以て自ら奉ずる所、麗靡爛熳、勝げて極むべからず。黔首匱竭し、民力單盡し、尚お自ら知らず、又誹謗を急にし、嚴威もて下を克ち、下喑上聾、臣等故に去れり。臣等は臣が身を惜しまず、陛下の國の亡ぶるを惜しむのみ。聞く古の明王は、食は以て飽くに足り、衣は以て暖なるに足り、宮室は以て處るに足り、輿馬は以て行くに足る、故に上は天に棄てられず、下は黔首に棄てられず。堯は茅茨剪らず、采椽斲らず、土階三等にして、身を終うるまで樂しみし者は、俗其の文采の少なくして、質素の多きを以てなり。丹朱傲虐にして慢淫を好み、理化を修めず、遂に以て升らず。今陛下の淫、丹朱に萬し昆吾桀紂に十す、臣陛下の十亡を恐る、而して曾て一存だにせず。」始皇默然として之を久しくし、曰く、「汝何ぞ早く言わざる?」侯生曰く、「陛下の意、方に青雲に乘りて文章の觀に飄搖し、自ら賢とし自ら健とし、上五帝を侮り、下三王を凌ぎ、素樸を棄て、末技に就く、陛下の亡徵見えて久し。臣等言うも益無きを恐れ、而して自ら死を取る、故に逃れて敢えて言わず。今臣必ず死す、故に陛下の為に之を陳ぶ、陛下をして亡びざらしむる能わずと雖も、陛下自ら知らしめんと欲す。」始皇曰く、「吾以て變ずべきか?」侯生曰く、「形已に成れり、陛下坐して亡を待つのみ!若し陛下之を更めんと欲せば、能く堯と禹との如くならんか?然らずんば冀む無し。陛下の佐も又非なり、臣陛下の之を變ずるも存する能わざるを恐る。」始皇喟然として歎じ、遂に釋きて誅せず。後三年始皇崩ず、二世位に即き、三年にして秦亡ぶ。
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史記 秦始皇本紀恵は諸産に被び、久しく并せて来たりて田し、所に安んぜざる莫し。群臣烈を誦し、此の石に刻さんことを請ひ、儀矩を垂著す。因りて韓終・侯公・石生をして僊人不死の薬を求めしむ。始皇北辺を巡り、上郡より入る。燕人盧生使ひして海に入りて還り、鬼神の事を以て、因りて録図書を奏す。曰く「秦を亡ぼす者は胡なり」と。始皇乃ち将軍蒙恬をして兵三十万人を発して北のかた胡を撃たしめ、河南の地を略取す。三十三年、諸の嘗て逋亡せし人・贅婿・賈人を発して陸梁の地を略取し、桂林・象郡・南海と為し、以て適遣して戍らしむ。西北のかた匈奴を斥逐す。楡中より河に并ひて以東、之を陰山に属し、以て三十四県と為し、河上に城きて塞と為す。又蒙恬をして河を渡りて高闕・陽山・北仮の中を取り、亭障を築きて以て戎人を逐はしむ。謫を徙して、之を初県に実たす。禁じて祠るを得ざらしむ。明星西方に出づ。三十四年、獄吏の直ならざる者を適して、長城及び南越の地を築かしむ。始皇酒を咸陽宮に置き、博士七十人前みて寿を為す。僕射周青臣進みて頌して曰く、「他時秦の地千里に過ぎず。陛下の神霊明聖に頼り、海内を平定し、蛮夷を放逐し、日月の照らす所、賓服せざる莫し。諸侯を以て郡県と為し、人人自ら安楽にして、戦争の患ひ無く、之を万世に伝ふ。上古より陛下の威徳に及ばず」と。始皇悦ぶ。博士の斉人淳于越進みて曰く、「臣聞く、殷・周の王たること千余歳、子弟功臣を封じ、自ら枝輔と為すと。今陛下海内を有つも、而も子弟匹夫と為る。卒に田常・六卿の臣有らば、輔拂無くして、何を以て相救はんや。事古を師とせずして能く長久なる者は、聞く所に非ざるなり。今青臣又面諛して以て陛下の過ちを重ぬ、忠臣に非ず」と。始皇其の議を下す。
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史記 秦始皇本紀黔首修絜にして、人同則を楽しみ、嘉して太平を保つ。後敬みて法を奉ぜば、常治極まり無く、輿舟傾かず。従臣烈を誦し、此の石に刻さんことを請ひ、休銘を光垂す。還りて呉を過ぎ、江乗より渡る。海上に并ひ、北のかた瑯邪に至る。方士徐巿等海に入りて神薬を求むるも、数歳にして得ず、費多く、譴めらるるを恐れ、乃ち詐りて曰く、「蓬萊の薬得可し。然れども常に大鮫魚の苦しむる所と為る、故に至るを得ず。願はくは善く射る者を請ひて与に倶にし、見れば則ち連弩を以て之を射ん」と。始皇夢に海神と戦ふ、人の状の如し。占夢に問ふ。博士曰く、「水神は見る可からず、大魚蛟龍を以て候と為す。今上禱祠備はり謹めるに、此の悪神有り。当に除去すべし、而して善神致す可し」と。乃ち海に入る者をして巨魚を捕ふる具を齎さしめ、而して自ら連弩を以て大魚の出づるを候ひて之を射んとす。瑯邪より北して栄成山に至るも、見ず。之罘に至り、巨魚を見、一魚を射殺す。遂に海に并ひて西す。平原津に至りて病む。始皇死を言ふを悪む。群臣敢へて死の事を言ふ莫し。上の病益甚だし。乃ち璽書を為りて公子扶蘇に賜ひて曰く、「喪と咸陽に会して葬れ」と。書已に封じ、中車府令趙高の符璽の事を行ふ所に在りて、未だ使者に授けず。七月丙寅、始皇沙丘の平台に崩ず。丞相斯上の外に崩じたるが為に、諸公子及び天下の変有らんことを恐れ、乃ち之を秘して、喪を発せず。棺は轀涼車の中に載せ、故の幸宦者参乗し、至る所上食す。百官奏事すること故の如く、宦者輒ち轀涼車の中より其の奏事を可とす。独り子胡亥・趙高及び幸する所の宦者五六人のみ上の死せるを知る。趙高故嘗て胡亥に書及び獄律令法の事を教ふ。胡亥私かに之を幸す。
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史記 秦始皇本紀御府をして璧を視しむるに、乃ち二十八年に行きて江を渡りしときに沈めし所の璧なり。是に於て始皇之を卜するに、卦游徙に吉なるを得たり。北河・楡中に三万家を遷す。爵一級を拝す。三十七年十月癸丑、始皇出游す。左丞相斯従ひ、右丞相去疾守る。少子胡亥愛慕して従はんことを請ひ、上之を許す。十一月、行きて雲夢に至り、虞舜を九疑山に望祀す。江に浮かびて下り、籍柯を観、海渚を渡る。丹陽を過ぎ、銭唐に至る。浙江に臨むに、水波悪し。乃ち西のかた百二十里、狭中より渡る。会稽に上り、大禹を祭り、南海を望み、而して石を立てて秦の徳を刻頌す。其の文に曰く、皇帝の休烈、宇内を平一し、徳恵修長なり。三十有七年、親しく天下を巡り、周く遠方を覧る。遂に会稽に登り、習俗を宣省し、黔首斎荘す。群臣功を誦し、事跡を本原し、高明を追首す。秦の聖国に臨み、始めて刑名を定め、旧章を顕陳す。初めて法式を平らかにし、職任を審別し、以て恒常を立つ。六王専倍し、貪戻傲猛にして、衆を率ゐて自ら彊しとす。暴虐恣に行ひ、力を負みて驕り、数甲兵を動かす。陰かに間使を通じ、以て合従を事とし、行ひは辟方を為す。内は詐謀を飾り、外は来たりて辺を侵し、遂に禍殃を起こす。義威もて之を誅し、暴悖を殄熄し、乱賊滅亡す。聖徳広密にして、六合の中、沢を被ること疆り無し。皇帝宇を并せ、兼ねて万事を聴き、遠近畢く清し。群物を運理し、事実を考験し、各其の名を載す。貴賤并び通じ、善否前に陳なり、隠情有る靡し。飾省して義を宣べ、子有りて嫁するは、死に倍きて貞ならず。内外を防隔し、淫泆を禁止し、男女絜誠なり。夫の寄豭を為すは、之を殺すも罪無く、男は義程を秉る。妻の逃嫁を為すは、子母を得ず、咸廉清に化す。大いに治めて俗を濯ひ、天下風を承け、休経を蒙被す。皆度軌に遵ひ、和安敦勉にして、令に順はざる莫し。
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