師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 秦本紀

乃拜鞅為左庶長。其事在商君語中。七年,與魏惠王會杜平。八年,與魏戰元裏,有功。十年,衛鞅為大良造,將兵圍魏安邑,降之。十二年,作為咸陽,筑冀闕,秦徙都之。并諸小鄉聚,集為大縣,縣一令,四十一縣。為田開阡陌。東地渡洛。十四年,初為賦。十九年,天子致伯。二十年,諸侯畢賀。秦使公子少官率師會諸侯逢澤,朝天子。二十一年,齊敗魏馬陵。二十二年,衛鞅擊魏,虜魏公子卬。封鞅為列侯,號商君。二十四年,與晉戰雁門,虜其將魏錯。孝公卒,子惠文君立。是歲,誅衛鞅。鞅之初為秦施法,法不行,太子犯禁。鞅曰:「法之不行,自於貴戚。君必欲行法,先於太子。太子不可黥,黥其傅師。」於是法大用,秦人治。及孝公卒,太子立,宗室多怨鞅,鞅亡,因以為反,而卒車裂以徇秦國。惠文君元年,楚、韓、趙、蜀人來朝。二年,天子賀。三年,王冠。四年,天子致文武胙。齊、魏為王。五年,陰晉人犀首為大良造。六年,魏納陰晉,陰晉更名寧秦。七年,公子卬與魏戰,虜其將龍賈,斬首八萬。八年,魏納河西地。九年,渡河,取汾陰、皮氏。與魏王會應。圍焦,降之。十年,張儀相秦。魏納上郡十五縣。十一年,縣義渠。歸魏焦、曲沃。義渠君為臣。更名少梁曰夏陽。十二年,初臘。

新字:乃拝鞅為左庶長。其事在商君語中。七年,与魏恵王会杜平。八年,与魏戦元裏,有功。十年,衛鞅為大良造,将兵囲魏安邑,降之。十二年,作為咸陽,筑冀闕,秦徙都之。并諸小郷聚,集為大県,県一令,四十一県。為田開阡陌。東地渡洛。十四年,初為賦。十九年,天子致伯。二十年,諸侯畢賀。秦使公子少官率師会諸侯逢沢,朝天子。二十一年,斉敗魏馬陵。二十二年,衛鞅撃魏,虜魏公子卬。封鞅為列侯,号商君。二十四年,与晋戦雁門,虜其将魏錯。孝公卒,子恵文君立。是歳,誅衛鞅。鞅之初為秦施法,法不行,太子犯禁。鞅曰:「法之不行,自於貴戚。君必欲行法,先於太子。太子不可黥,黥其傅師。」於是法大用,秦人治。及孝公卒,太子立,宗室多怨鞅,鞅亡,因以為反,而卒車裂以徇秦国。恵文君元年,楚、韓、趙、蜀人来朝。二年,天子賀。三年,王冠。四年,天子致文武胙。斉、魏為王。五年,陰晋人犀首為大良造。六年,魏納陰晋,陰晋更名寧秦。七年,公子卬与魏戦,虜其将竜賈,斬首八万。八年,魏納河西地。九年,渡河,取汾陰、皮氏。与魏王会応。囲焦,降之。十年,張儀相秦。魏納上郡十五県。十一年,県義渠。帰魏焦、曲沃。義渠君為臣。更名少梁曰夏陽。十二年,初臘。

書き下し

乃ち鞅を拝して左庶長と為す。其の事は商君の語中に在り。七年、魏の恵王と杜平に会す。八年、魏と元里に戦ひ、功有り。十年、衛鞅大良造と為り、兵を将ゐて魏の安邑を囲み、之を降す。十二年、咸陽を作為し、冀闕を築き、秦徙りて之に都す。諸小郷聚を并せ、集めて大県と為す。県ごとに一令、四十一県。田の為に阡陌を開く。東地洛を渡る。十四年、初めて賦を為す。十九年、天子伯を致す。二十年、諸侯畢く賀す。秦公子少官をして師を率ゐて諸侯と逢沢に会し、天子に朝せしむ。二十一年、斉魏を馬陵に敗る。二十二年、衛鞅魏を撃ち、魏の公子卬を虜にす。鞅を封じて列侯と為し、商君と号す。二十四年、晋と雁門に戦ひ、其の将魏錯を虜にす。孝公卒し、子恵文君立つ。是の歳、衛鞅を誅す。鞅の初めて秦の為に法を施すや、法行はれず、太子禁を犯す。鞅曰く、「法の行はれざるは、貴戚よりす。君必ず法を行はんと欲せば、太子より先んぜよ。太子は黥す可からず、其の傅師を黥せよ」と。是に於て法大いに用ゐられ、秦人治まる。孝公卒し、太子立つに及び、宗室多く鞅を怨む。鞅亡ぐ。因りて以て反と為し、而して卒に車裂して以て秦国に徇ふ。恵文君の元年、楚・韓・趙・蜀人来朝す。二年、天子賀す。三年、王冠す。四年、天子文武の胙を致す。斉・魏王と為る。五年、陰晋の人犀首大良造と為る。六年、魏陰晋を納る。陰晋名を寧秦と更む。七年、公子卬魏と戦ひ、其の将龍賈を虜にし、首を斬ること八万。八年、魏河西の地を納る。九年、河を渡り、汾陰・皮氏を取る。魏王と応に会す。焦を囲み、之を降す。十年、張儀秦に相たり。魏上郡十五県を納る。十一年、義渠を県とす。魏に焦・曲沃を帰す。義渠君臣と為る。少梁を更名して夏陽と曰ふ。十二年、初めて臘す。

現代語訳

そこで衛鞅を左庶長に任じた。その事績は商君列伝に記してある。七年、魏の恵王と杜平で会見した。八年、魏と元里で戦い、功を立てた。十年、衛鞅は大良造となり、兵を率いて魏の安邑を包囲し、降伏させた。十二年、咸陽の都を造営し、宮門の楼閣を築いて、秦は都をここに移した。多くの小さな村や集落を合わせて大きな県とし、県ごとに長官を一人置き、全部で四十一県とした。田のために縦横の畦道を開いて区画を整えた。東の領地は洛水を越えた。十四年、はじめて税(軍賦)を課した。十九年、周の天子が秦に覇者の称号を与えた。二十年、諸侯がみな祝賀に来た。秦は公子の少官に軍を率いさせ、逢沢で諸侯と会合し、天子に朝見させた。二十一年、斉が馬陵で魏を破った。二十二年、衛鞅は魏を攻め、魏の公子卬を捕らえた。衛鞅を列侯に封じ、商君と号した。二十四年、晋(魏)と雁門で戦い、その将軍の魏錯を捕らえた。孝公が亡くなり、子の恵文君が立った。この年、衛鞅を誅殺した。衛鞅がはじめて秦のために法を施行したとき、法がなかなか行われず、太子が禁令を犯した。衛鞅は言った。「法が行われないのは、身分の高い親族が破るからである。君がどうしても法を行き渡らせたいのなら、まず太子から始めるべきだ。太子に入れ墨の刑を加えるわけにはいかないので、その守り役と教育係に入れ墨をせよ。」こうして法は大いに行われ、秦の人々はよく治まった。孝公が亡くなり、太子が即位すると、王族の多くは衛鞅を恨んでいた。衛鞅は逃亡した。そのため謀反を企てたとされ、ついに車裂きの刑に処されて秦の国中にさらされた。恵文君の元年、楚・韓・趙・蜀の人々が来朝した。二年、周の天子が祝賀した。三年、王が冠をつける成人の儀を行った。四年、天子が文王・武王を祭った供物の肉を贈ってきた。斉と魏が王を名乗った。五年、陰晋の人の犀首が大良造となった。六年、魏が陰晋を献上した。陰晋を寧秦と改名した。七年、公子卬が魏と戦い、その将軍の龍賈を捕らえ、八万の首を斬った。八年、魏が河西の地を献上した。九年、黄河を渡り、汾陰・皮氏を取った。魏王と応で会見した。焦を包囲し、降伏させた。十年、張儀が秦の宰相となった。魏が上郡の十五県を献上した。十一年、義渠を県とした。魏に焦と曲沃を返した。義渠の君主が臣下となった。少梁を夏陽と改名した。十二年、はじめて臘の祭り(年末の祭り)を行った。

解説

商鞅の改革の成果と、その悲劇的な最期を描く段です。商鞅は咸陽に都を移し、小さな村を統合して四十一の県を置き、畦道を開いて田の区画を整え、税制を定めました。秦は天子から覇者と認められ、諸侯が祝賀に来るまでになります。改革を貫けた理由として、司馬遷は一つの逸話を記しました。法が守られないのは身分の高い者が破るからだとして、商鞅は禁令を犯した太子の代わりに、その守り役と教育係を処罰したのです。法の前に例外を作らない姿勢が、秦を強国に変えました。しかしその代償として、王族の多くが商鞅を恨み、孝公が亡くなると、商鞅は謀反の罪を着せられて車裂きの刑に処されます。その後も秦は商鞅の法を捨てず、魏から河西の地を奪い、張儀を宰相に迎えてさらに強大になっていきました。ルールを例外なく適用する改革者は組織を強くしますが、同時に多くの敵を作ります。後ろ盾を失ったときの身の処し方も、改革者の課題なのです。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る