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史記 / 秦本紀

徐偃王作亂,造父為繆王御,長驅歸周,一日千里以救亂。繆王以趙城封造父,造父族由此為趙氏。自蜚廉生季勝已下五世至造父,別居趙。趙衰其後也。惡來革者,蜚廉子也,蚤死。有子曰女防。女防生旁皋,旁皋生太幾,太幾生大駱,大駱生非子。以造父之寵,皆蒙趙城,姓趙氏。非子居犬丘,好馬及畜,善養息之。犬丘人言之周孝王,孝王召使主馬于汧渭之間,馬大蕃息。孝王欲以為大駱適嗣。申侯之女為大駱妻,生子成為適。申侯乃言孝王曰:「昔我先酈山之女,為戎胥軒妻,生中潏,以親故歸周,保西垂,西垂以其故和睦。今我復與大駱妻,生適子成。申駱重婚,西戎皆服,所以為王。王其圖之。」於是孝王曰:「昔伯翳為舜主畜,畜多息,故有土,賜姓嬴。今其後世亦為朕息馬,朕其分土為附庸。」邑之秦,使復續嬴氏祀,號曰秦嬴。亦不廢申侯之女子為駱適者,以和西戎。秦嬴生秦侯。秦侯立十年,卒。生公伯。公伯立三年,卒。生秦仲。秦仲立三年,周厲王無道,諸侯或叛之。西戎反王室,滅犬丘大駱之族。周宣王即位,乃以秦仲為大夫,誅西戎。西戎殺秦仲。秦仲立二十三年,死於戎。有子五人,其長者曰莊公。

新字:徐偃王作乱,造父為繆王御,長駆帰周,一日千里以救乱。繆王以趙城封造父,造父族由此為趙氏。自蜚廉生季勝已下五世至造父,別居趙。趙衰其後也。悪来革者,蜚廉子也,蚤死。有子曰女防。女防生旁皋,旁皋生太幾,太幾生大駱,大駱生非子。以造父之寵,皆蒙趙城,姓趙氏。非子居犬丘,好馬及畜,善養息之。犬丘人言之周孝王,孝王召使主馬于汧渭之間,馬大蕃息。孝王欲以為大駱適嗣。申侯之女為大駱妻,生子成為適。申侯乃言孝王曰:「昔我先酈山之女,為戎胥軒妻,生中潏,以親故帰周,保西垂,西垂以其故和睦。今我復与大駱妻,生適子成。申駱重婚,西戎皆服,所以為王。王其図之。」於是孝王曰:「昔伯翳為舜主畜,畜多息,故有土,賜姓嬴。今其後世亦為朕息馬,朕其分土為附庸。」邑之秦,使復続嬴氏祀,号曰秦嬴。亦不廃申侯之女子為駱適者,以和西戎。秦嬴生秦侯。秦侯立十年,卒。生公伯。公伯立三年,卒。生秦仲。秦仲立三年,周厲王無道,諸侯或叛之。西戎反王室,滅犬丘大駱之族。周宣王即位,乃以秦仲為大夫,誅西戎。西戎殺秦仲。秦仲立二十三年,死於戎。有子五人,其長者曰荘公。

書き下し

徐の偃王乱を作す。造父繆王の為に御し、長駆して周に帰り、一日千里にして以て乱を救ふ。繆王趙城を以て造父を封ず。造父の族此より趙氏と為る。蜚廉の季勝を生みしより已下五世にして造父に至り、別れて趙に居る。趙衰は其の後なり。悪来革は、蜚廉の子なり、蚤く死す。子有りて女防と曰ふ。女防旁皋を生み、旁皋太幾を生み、太幾大駱を生み、大駱非子を生む。造父の寵を以て、皆趙城を蒙り、趙氏を姓とす。非子犬丘に居り、馬及び畜を好み、善く之を養息す。犬丘の人之を周の孝王に言ふ。孝王召して馬を汧渭の間に主らしむるに、馬大いに蕃息す。孝王以て大駱の適嗣と為さんと欲す。申侯の女大駱の妻と為り、子成を生みて適と為る。申侯乃ち孝王に言ひて曰く、「昔我が先の酈山の女、戎の胥軒の妻と為り、中潏を生む。親の故を以て周に帰し、西垂を保つ。西垂其の故を以て和睦す。今我復た大駱に妻を与へ、適子成を生む。申・駱重ねて婚し、西戎皆服す。王為る所以なり。王其れ之を図れ」と。是に於て孝王曰く、「昔伯翳舜の為に畜を主り、畜多く息す。故に土有り、姓を嬴と賜ふ。今其の後世亦朕の為に馬を息す。朕其れ土を分かちて附庸と為さん」と。之を秦に邑し、復た嬴氏の祀を続がしめ、号して秦嬴と曰ふ。亦申侯の女の子の駱の適為る者を廃せず、以て西戎を和す。秦嬴秦侯を生む。秦侯立つこと十年にして卒す。公伯を生む。公伯立つこと三年にして卒す。秦仲を生む。秦仲立つこと三年、周の厲王無道にして、諸侯或いは之に叛く。西戎王室に反き、犬丘大駱の族を滅ぼす。周の宣王即位し、乃ち秦仲を以て大夫と為し、西戎を誅せしむ。西戎秦仲を殺す。秦仲立つこと二十三年にして、戎に死す。子五人有り、其の長者を荘公と曰ふ。

現代語訳

徐の偃王が乱を起こした。造父は穆王のために馬車を御し、遠く駆けて周に帰り、一日に千里を走って乱を鎮めた。穆王は趙城に造父を封じた。造父の一族はこれ以後趙氏となった。蜚廉が季勝を生んでから五代で造父に至り、(嬴姓の本家から)分かれて趙に住んだ。趙衰(晋の文公の重臣)はその子孫である。悪来革は蜚廉の子で、早く亡くなった。子がいて女防という。女防は旁皋を生み、旁皋は太幾を生み、太幾は大駱を生み、大駱は非子を生んだ。造父が寵愛されたおかげで、みな趙城の恩恵を受け、趙氏を姓とした。非子は犬丘に住み、馬や家畜を好み、よく飼育して殖やした。犬丘の人がこのことを周の孝王に告げた。孝王は非子を呼び寄せて汧水と渭水の間で馬の飼育をつかさどらせたところ、馬は大いに殖えた。孝王は非子を大駱の跡継ぎにしようとした。しかし申侯の娘が大駱の妻となって子の成を生み、成が跡継ぎとなっていた。申侯はそこで孝王に言った。「昔、我が祖先の酈山の娘が戎の胥軒の妻となり、中潏を生んだ。中潏は親戚の縁によって周に帰順し、西の辺境を守った。西の辺境はそのおかげで平穏になった。今、私はまた大駱に娘を嫁がせ、跡継ぎの成を生ませた。申氏と大駱の家が重ねて婚姻を結んだので、西戎はみな服している。これこそ王が王であり続けられるゆえんである。王よ、よくお考えくだされ。」そこで孝王は言った。「昔、伯翳は舜のために家畜をつかさどり、家畜をよく殖やした。そのため領地を与えられ、嬴の姓を賜った。今、その子孫もまた私のために馬を殖やしてくれた。私は土地を分け与えて附庸(諸侯に付属する小国)としよう。」そして非子を秦の地に住まわせ、再び嬴氏の祭祀を継がせ、秦嬴と号させた。また申侯の娘の子で大駱の跡継ぎとなった者も廃さずに、西戎との和睦を保った。秦嬴は秦侯を生んだ。秦侯は即位して十年で亡くなった。秦侯は公伯を生んだ。公伯は即位して三年で亡くなった。公伯は秦仲を生んだ。秦仲が即位して三年、周の厲王が無道で、諸侯の中には周に背く者も出た。西戎は王室に背き、犬丘にいた大駱の一族を滅ぼした。周の宣王が即位すると、秦仲を大夫に任じて西戎を討たせた。西戎は秦仲を殺した。秦仲は即位して二十三年で戎との戦いで死んだ。秦仲には五人の子がいて、その長子を荘公という。

解説

秦が小さな領地を得て歴史の表舞台に現れる経緯を描く段です。造父は穆王の反乱鎮圧に貢献して趙城を与えられ、後の趙の国の祖となりました。一方、同じ一族の非子は、馬を飼って殖やす腕前を周の孝王に認められ、秦の地を与えられます。ここで注目すべきは孝王の判断です。非子を大駱の跡継ぎにしたいと考えましたが、申侯から「すでに正式な跡継ぎがおり、その婚姻が西戎との和睦を支えている」と訴えられると、正統な跡継ぎは廃さずに残し、非子には別に新しい領地を与えました。有能な人材を抜擢しつつ、既存の秩序と外交関係も壊さない。両方を立てる解決策です。こうして生まれた秦は、周の西の辺境で戎と戦い続けることになり、秦仲は戎との戦いで命を落としました。組織で優秀な人材を登用するとき、既存の序列を無理に崩すのではなく、新しい役割や場を用意するという方法は、今も有効な知恵です。

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