史記 / 殷本紀
武丁夜夢得聖人,名曰說。以夢所見視群臣百吏,皆非也。於是迺使百工營求之野,得說於傅險中。是時說為胥靡,筑於傅險。見於武丁,武丁曰是也。得而與之語,果聖人,舉以為相,殷國大治。故遂以傅險姓之,號曰傅說。帝武丁祭成湯,明日,有飛雉登鼎耳而呴,武丁懼。祖己曰:「王勿憂,先修政事。」祖己乃訓王曰:「唯天監下典厥義,降年有永有不永,非天夭民,中絕其命。民有不若德,不聽罪,天既附命正厥德,乃曰其柰何。鳴呼!王嗣敬民,罔非天繼,常祀毋禮于棄道。」武丁修政行德,天下咸驩,殷道復興。帝武丁崩,子帝祖庚立。祖己嘉武丁之以祥雉為德,立其廟為高宗,遂作高宗肜日及訓。帝祖庚崩,弟祖甲立,是為帝甲。帝甲淫亂,殷復衰。帝甲崩,子帝廩辛立。帝廩辛崩,弟庚丁立,是為帝庚丁。帝庚丁崩,子帝武乙立。殷復去亳,徙河北。帝武乙無道,為偶人,謂之天神。與之博,令人為行。天神不勝,乃僇辱之。為革囊,盛血,卬而射之,命曰「射天」。武乙獵於河渭之閒,暴雷,武乙震死。子帝太丁立。帝太丁崩,子帝乙立。帝乙立,殷益衰。帝乙長子曰微子啓,啓母賤,不得嗣。少子辛,辛母正后,辛為嗣。帝乙崩,子辛立,是為帝辛,天下謂之紂。
新字:武丁夜夢得聖人,名曰説。以夢所見視群臣百吏,皆非也。於是迺使百工営求之野,得説於傅険中。是時説為胥靡,筑於傅険。見於武丁,武丁曰是也。得而与之語,果聖人,舉以為相,殷国大治。故遂以傅険姓之,号曰傅説。帝武丁祭成湯,明日,有飛雉登鼎耳而呴,武丁懼。祖己曰:「王勿憂,先修政事。」祖己乃訓王曰:「唯天監下典厥義,降年有永有不永,非天夭民,中絶其命。民有不若徳,不聴罪,天既附命正厥徳,乃曰其柰何。鳴呼!王嗣敬民,罔非天継,常祀毋礼于棄道。」武丁修政行徳,天下咸驩,殷道復興。帝武丁崩,子帝祖庚立。祖己嘉武丁之以祥雉為徳,立其廟為高宗,遂作高宗肜日及訓。帝祖庚崩,弟祖甲立,是為帝甲。帝甲淫乱,殷復衰。帝甲崩,子帝廩辛立。帝廩辛崩,弟庚丁立,是為帝庚丁。帝庚丁崩,子帝武乙立。殷復去亳,徙河北。帝武乙無道,為偶人,謂之天神。与之博,令人為行。天神不勝,乃僇辱之。為革嚢,盛血,卬而射之,命曰「射天」。武乙猟於河渭之閒,暴雷,武乙震死。子帝太丁立。帝太丁崩,子帝乙立。帝乙立,殷益衰。帝乙長子曰微子啓,啓母賤,不得嗣。少子辛,辛母正后,辛為嗣。帝乙崩,子辛立,是為帝辛,天下謂之紂。
書き下し
武丁夜夢に聖人を得たり、名を説と曰ふ。夢に見る所を以て群臣百吏を視るに、皆非なり。是に於て迺ち百工をして之を野に営求せしめ、説を傅険の中に得たり。是の時説は胥靡と為り、傅険に築く。武丁に見えしむるに、武丁是なりと曰ふ。得て之と語るに、果たして聖人なり。挙げて以て相と為し、殷国大いに治まる。故に遂に傅険を以て之に姓とし、号して傅説と曰ふ。帝武丁成湯を祭る。明日、飛雉有りて鼎耳に登りて呴く。武丁懼る。祖己曰く、「王憂ふる勿かれ、先づ政事を修めよ」と。祖己乃ち王に訓へて曰く、「唯れ天下を監みて厥の義を典る。年を降すに永き有り永からざる有り、天民を夭するに非ず、中ごろ其の命を絶つ。民に徳に若はず、罪を聴かざる有らば、天既に命を附して厥の徳を正す。乃ち曰く其れ柰何と。嗚呼、王嗣ぎて民を敬せよ。天の継に非ざる罔し。常祀は棄道に礼する毋かれ」と。武丁政を修め徳を行ひ、天下咸驩び、殷の道復た興る。帝武丁崩じ、子帝祖庚立つ。祖己武丁の祥雉を以て徳を為せしを嘉し、其の廟を立てて高宗と為し、遂に高宗肜日及び訓を作る。帝祖庚崩じ、弟祖甲立つ。是を帝甲と為す。帝甲淫乱にして、殷復た衰ふ。帝甲崩じ、子帝廩辛立つ。帝廩辛崩じ、弟庚丁立つ。是を帝庚丁と為す。帝庚丁崩じ、子帝武乙立つ。殷復た亳を去り、河北に徙る。帝武乙無道にして、偶人を為り、之を天神と謂ふ。之と博し、人をして行はしむ。天神勝たざれば、乃ち之を僇辱す。革嚢を為り、血を盛り、卬ぎて之を射、命じて射天と曰ふ。武乙河渭の間に猟し、暴雷あり、武乙震死す。子帝太丁立つ。帝太丁崩じ、子帝乙立つ。帝乙立ちて、殷益衰ふ。帝乙の長子を微子啓と曰ふ。啓の母は賤しく、嗣ぐを得ず。少子は辛、辛の母は正后なり、辛嗣と為る。帝乙崩じ、子辛立つ。是を帝辛と為す。天下之を紂と謂ふ。
現代語訳
武丁は夜、夢の中で聖人を得た。名を説(えつ)という。夢で見た姿を手がかりに群臣や役人たちを見渡したが、みな違った。そこで役人たちに命じて野に探し求めさせ、傅険(ふけん)の地で説を見つけた。このとき説は刑徒となって、傅険で土木工事に従事していた。武丁に引き合わせると、武丁は「この者だ」と言った。召し出して語り合うと、果たして聖人であった。登用して宰相とし、殷の国は大いに治まった。そこで傅険の地名を姓とし、傅説と号した。帝武丁が成湯を祭った。その翌日、雉が飛んで来て鼎の耳にとまって鳴いた。武丁は(不吉な兆しと)恐れた。祖己(そき)は言った。「王よ、憂えることはない。まず政治を修めよ。」祖己はそこで王を諭して言った。「天は下界を見て、その義を基準とする。天が授ける寿命には長いものも長くないものもあるが、天が民を若死にさせるのではない。民が途中で自らその命を絶つのである。民が徳に従わず、罪を認めなければ、天はすでに命を下してその徳を正そうとする。それなのに民は『どうしたというのか』と言う。ああ、王は位を継いだ以上、民を敬え。天の後継ぎでない者はいない。常の祭祀では、道にそむいた(過剰な)祭りをしてはならない。」武丁は政治を修めて徳を行い、天下はみな喜び、殷の政道は再び興った。帝武丁が崩じ、子の帝祖庚が立った。祖己は武丁が雉の兆しをきっかけに徳を修めたことをたたえ、その廟を立てて高宗と称し、『高宗肜日』と『高宗之訓』を作った。帝祖庚が崩じ、弟の祖甲が立った。これが帝甲である。帝甲は淫乱で、殷は再び衰えた。帝甲が崩じ、子の帝廩辛が立った。帝廩辛が崩じ、弟の庚丁が立った。これが帝庚丁である。帝庚丁が崩じ、子の帝武乙が立った。殷は再び亳を去り、黄河の北に移った。帝武乙は無道で、人形を作ってそれを天神と呼んだ。人形と博打をし、人に代わりに駒を動かさせた。天神が負けると、人形を辱めた。革の袋を作って血を満たし、高く吊して矢で射て、「天を射る」と称した。武乙は黄河と渭水の間で狩りをしていたとき、激しい雷に打たれて死んだ。子の帝太丁が立った。帝太丁が崩じ、子の帝乙が立った。帝乙が立つと、殷はますます衰えた。帝乙の長子を微子啓という。啓の母は身分が低かったので、跡を継げなかった。末子は辛で、辛の母は正妃であったので、辛が跡継ぎとなった。帝乙が崩じ、子の辛が立った。これが帝辛である。天下の人々はこれを紂と呼んだ。
解説
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史記 殷本紀中宗崩じ、子帝中丁立つ。帝中丁隞に遷り、河亶甲相に居り、祖乙邢に遷る。帝中丁崩じ、弟外壬立つ。是を帝外壬と為す。仲丁の書は闕けて具はらず。帝外壬崩じ、弟河亶甲立つ。是を帝河亶甲と為す。河亶甲の時、殷復た衰ふ。河亶甲崩じ、子帝祖乙立つ。帝祖乙立ちて、殷復た興る。巫賢職に任ず。祖乙崩じ、子帝祖辛立つ。帝祖辛崩じ、弟沃甲立つ。是を帝沃甲と為す。帝沃甲崩じ、沃甲の兄祖辛の子祖丁を立つ。是を帝祖丁と為す。帝祖丁崩じ、弟沃甲の子南庚を立つ。是を帝南庚と為す。帝南庚崩じ、帝祖丁の子陽甲を立つ。是を帝陽甲と為す。帝陽甲の時、殷衰ふ。中丁より以来、適を廃して更に諸弟の子を立て、弟の子或いは争ひて相代はりて立ち、比九世乱る。是に於て諸侯朝する莫し。帝陽甲崩じ、弟盤庚立つ。是を帝盤庚と為す。帝盤庚の時、殷已に河北に都す。盤庚河を渡りて南し、復た成湯の故居に居る。迺ち五たび遷りて、定処無し。殷の民咨胥皆怨み、徙るを欲せず。盤庚乃ち諸侯大臣に告諭して曰く、「昔高后成湯爾の先祖と倶に天下を定む。法則修む可し。舍てて勉めずんば、何を以て徳を成さん」と。乃ち遂に河を渉りて南し、亳を治め、湯の政を行ふ。然る後に百姓由りて寧く、殷の道復た興る。諸侯来朝す、其の成湯の徳に遵ふを以てなり。帝盤庚崩じ、弟小辛立つ。是を帝小辛と為す。帝小辛立ちて、殷復た衰ふ。百姓盤庚を思ひ、迺ち盤庚三篇を作る。帝小辛崩じ、弟小乙立つ。是を帝小乙と為す。帝小乙崩じ、子帝武丁立つ。帝武丁即位し、殷を復興せんことを思ふも、未だ其の佐を得ず。三年言はず、政事は冢宰に決定し、以て国風を観る。
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史記 殷本紀伊尹之を嘉し、迺ち太甲訓三篇を作り、帝太甲を襃めて、太宗と称す。太宗崩じ、子沃丁立つ。帝沃丁の時、伊尹卒す。既に伊尹を亳に葬り、咎単遂に伊尹の事を訓へ、沃丁を作る。沃丁崩じ、弟太庚立つ。是を帝太庚と為す。帝太庚崩じ、子帝小甲立つ。帝小甲崩じ、弟雍己立つ。是を帝雍己と為す。殷の道衰へ、諸侯或いは至らず。帝雍己崩じ、弟太戊立つ。是を帝太戊と為す。
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尚書・說命上王憂に宅(を)ること亮陰三祀。既に喪を免るるも、其れ惟れ言はず。群臣咸王を諫めて曰く、「嗚呼(ああ)、之を知るを明哲と曰ひ、明哲は実に則を作す。天子惟れ万邦に君たり、百官式を承く。王言ふを惟れ命と作す、言はずんば、臣下令を稟(う)くる攸罔し。」王庸(もつ)て書を作りて以て誥げて曰く、「台(われ)を以て四方を正さしむ、惟れ徳の類せざるを恐る、茲の故に言はず。恭黙して道を思ふに、帝予に良弼を賚(たま)ふを夢む、其れ予に代はりて言はしめん。」乃ち厥の象を審らかにし、形を以て旁く天下に求めしむ。説傅巌の野に築く、惟れ肖たり。爰に立てて相と作し、王諸を其の左右に置く。之に命じて曰く、「朝夕誨を納れ、以て台の徳を輔けよ。
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