士道要論 / 士道・文武は車の両輪、太平の世の備え
東照宮の御遺訓にも武家の公家をまなぶことをふかくいましめ玉へり、されば、有德公御世のはじめ白石が建議してたてたる四足門をばこぼちすて祖宗のふるきにかへし、眞の文武をばはげまして、東照宮の御定をまもり玉へり、ありがたき御事なり、東照宮の御定とは、武家諸法度にも第一にしるし玉へる文武の道まなぶべしとあることなり、夫文武の道は二にして一なり、一にして二なり、武ありて文德をもほどこすべく、文ありて武功をもたつべし、文人の文に流るゝは天地を經緯するの文をしらざればな、武人の武にかたよるは神武にして殺ざるの武をしらざればなり、これ何れも眞の文武の道とはいふべからず、眞の文武の道は、いはゆる車の兩輪鳥の兩翼のごとく、ひとつをすてばとびゆくことかなふまじ、漢の高祖は儒をこのまぬ君なれど、陸賈が言に折れ叔孫が議にしたがひて、馬上をもて天下を治めず、織田右府は武き大將なれど、義昭の將軍に學をすゝめ、稻葉一徹が書贊よみたるにめでゝ、ころし玉はざるなど、實學を學ぶにはあらねど、文のやむべからざるをしれるは、さすが英雄の才といふべし、まして、東照宮は千古にひいで玉へる才德にましませば、はやくも學の人に益あることをしろしめされ、干戈いまだ納らぬうちより海内に文敎をひろめ玉へるもむべなりけり、されど、戰國の人は種々の艱苦を甞め、國々の風土をもしり、こゝろをも練り人情にも通じたれば、學の力うすくとも經濟にも達すべし、かく久しくうちつゞきたる太平に生れたる人は、安座して食ひ、四方のさかいをもいでず、頑陋なること多して、耳もきくことなく目もみる事なければ、ふみよみてことをわきまふ事なからましかば、いつもかくあることのみ思ひて、風俗のをとろへゆくをも、政事のやぶれたるをもしらずしてすぎゆかん、危きことならずや、工匠の室を作れるは規矩により、醫師の病を治るも方によれり、士大夫己を治め人を治るになどか法なからざらんや、されば、聖人の道によりて、文武ならび用るこそ、まことに長久の道なれ、
新字:東照宮の御遺訓にも武家の公家をまなぶことをふかくいましめ玉へり、されば、有徳公御世のはじめ白石が建議してたてたる四足門をばこぼちすて祖宗のふるきにかへし、真の文武をばはげまして、東照宮の御定をまもり玉へり、ありがたき御事なり、東照宮の御定とは、武家諸法度にも第一にしるし玉へる文武の道まなぶべしとあることなり、夫文武の道は二にして一なり、一にして二なり、武ありて文徳をもほどこすべく、文ありて武功をもたつべし、文人の文に流るゝは天地を経緯するの文をしらざればな、武人の武にかたよるは神武にして殺ざるの武をしらざればなり、これ何れも真の文武の道とはいふべからず、真の文武の道は、いはゆる車の両輪鳥の両翼のごとく、ひとつをすてばとびゆくことかなふまじ、漢の高祖は儒をこのまぬ君なれど、陸賈が言に折れ叔孫が議にしたがひて、馬上をもて天下を治めず、織田右府は武き大将なれど、義昭の将軍に学をすゝめ、稲葉一徹が書賛よみたるにめでゝ、ころし玉はざるなど、実学を学ぶにはあらねど、文のやむべからざるをしれるは、さすが英雄の才といふべし、まして、東照宮は千古にひいで玉へる才徳にましませば、はやくも学の人に益あることをしろしめされ、干戈いまだ納らぬうちより海内に文教をひろめ玉へるもむべなりけり、されど、戦国の人は種々の艱苦を甞め、国々の風土をもしり、こゝろをも練り人情にも通じたれば、学の力うすくとも経済にも達すべし、かく久しくうちつゞきたる太平に生れたる人は、安座して食ひ、四方のさかいをもいでず、頑陋なること多して、耳もきくことなく目もみる事なければ、ふみよみてことをわきまふ事なからましかば、いつもかくあることのみ思ひて、風俗のをとろへゆくをも、政事のやぶれたるをもしらずしてすぎゆかん、危きことならずや、工匠の室を作れるは規矩により、医師の病を治るも方によれり、士大夫己を治め人を治るになどか法なからざらんや、されば、聖人の道によりて、文武ならび用るこそ、まことに長久の道なれ、
書き下し
東照宮の御遺訓にも武家の公家をまなぶことをふかくいましめ玉へり、されば、有德公御世のはじめ白石が建議してたてたる四足門をばこぼちすて祖宗のふるきにかへし、眞の文武をばはげまして、東照宮の御定をまもり玉へり、ありがたき御事なり、東照宮の御定とは、武家諸法度にも第一にしるし玉へる文武の道まなぶべしとあることなり、夫文武の道は二にして一なり、一にして二なり、武ありて文德をもほどこすべく、文ありて武功をもたつべし、文人の文に流るゝは天地を經緯するの文をしらざればな、武人の武にかたよるは神武にして殺ざるの武をしらざればなり、これ何れも眞の文武の道とはいふべからず、眞の文武の道は、いはゆる車の兩輪鳥の兩翼のごとく、ひとつをすてばとびゆくことかなふまじ、漢の高祖は儒をこのまぬ君なれど、陸賈が言に折れ叔孫が議にしたがひて、馬上をもて天下を治めず、織田右府は武き大將なれど、義昭の將軍に學をすゝめ、稻葉一徹が書贊よみたるにめでゝ、ころし玉はざるなど、實學を學ぶにはあらねど、文のやむべからざるをしれるは、さすが英雄の才といふべし、まして、東照宮は千古にひいで玉へる才德にましませば、はやくも學の人に益あることをしろしめされ、干戈いまだ納らぬうちより海内に文敎をひろめ玉へるもむべなりけり、されど、戰國の人は種々の艱苦を甞め、國々の風土をもしり、こゝろをも練り人情にも通じたれば、學の力うすくとも經濟にも達すべし、かく久しくうちつゞきたる太平に生れたる人は、安座して食ひ、四方のさかいをもいでず、頑陋なること多して、耳もきくことなく目もみる事なければ、ふみよみてことをわきまふ事なからましかば、いつもかくあることのみ思ひて、風俗のをとろへゆくをも、政事のやぶれたるをもしらずしてすぎゆかん、危きことならずや、工匠の室を作れるは規矩により、醫師の病を治るも方によれり、士大夫己を治め人を治るになどか法なからざらんや、されば、聖人の道によりて、文武ならび用るこそ、まことに長久の道なれ、
現代語訳
東照宮の御遺訓にも、武家が公家を学ぶことを深く戒めておられます。だから有徳公は御世の初めに、白石が建議して立てた四足門を取り壊して祖宗の古きに戻し、真の文武を励まして、東照宮の御定めを守られました。ありがたいことです。東照宮の御定めとは、武家諸法度にも第一に記された、文武の道を学ぶべしということです。そもそも文武の道は二つであって一つ、一つであって二つです。武があって文徳をも施すことができ、文があって武功をも立てられます。文人が文に流れるのは、天地を経緯する(治める)文を知らないからで、武人が武に偏るのは、神武にして殺さない武を知らないからです。これはどちらも真の文武の道とは言えません。真の文武の道は、いわゆる車の両輪、鳥の両翼のようで、一つを捨てれば飛んで行くことはできません。漢の高祖は儒を好まない君主でしたが、陸賈の言葉に折れ、叔孫(通)の議に従い、馬上で天下を治めようとはしませんでした。織田右府(信長)は武勇の大将でしたが、義昭将軍に学問を勧め、稲葉一徹(一鉄)が書賛を読んだのを賞して殺されなかったなど、実学を学ぶわけではないものの、文がやめてはならないものだと知っておられたのは、さすが英雄の才と言うべきです。まして東照宮は千古にひいでた才徳をお持ちなので、早くも学問が人に益のあることをお知りになり、戦がまだ収まらないうちから天下に文教を広められたのももっともなことです。ところが、戦国の人は種々の艱難辛苦を味わい、国々の風土を知り、心も鍛え人情にも通じていたので、学の力が薄くても、世を治めることにも通じえたでしょう。こうした久しく続いた太平の世に生まれた人は、座ったまま食べ、四方の境も出ず、頑固で見識が狭いことが多く、耳も聞くことなく目も見ることがなく、書を読んで事を弁えることがなければ、いつもこうであることとばかり思って、風俗の衰えていくのも、政治の破れているのも知らずに過ごしていくでしょう。危ういことではないでしょうか。工匠が家を作るには規矩(コンパスと定規)により、医師が病を治すのも方(処方)によります。士大夫が己を治め人を治めるのに、どうして法がなくてよいでしょうか。だから聖人の道によって、文武を並べ用いてこそ、まことに長久の道です。
解説
この章句が説くこと
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『士道要論』・士道・聖人の道を欠く武辺の偏りと学問の功たが定めしといふことはしらねども、おのづから道にかなへることもあれど、私心偏見をまぬかれざることも多し、そのひとつふたつをいはんに、追ひはらきるをもて忠とし、亡命の人をはごくむをもて義とするの類、みな孟子のいへる不義の義といふものなり、もつともいたくそむけたることは、さりとり强盜は武士のならひといへることさへあるにいたれり、士たる□、つよきをもてむねとすといへど、聖人の道によらざれば、おちいりて賊となることもあり、また氣節を立て死をかろんずるとも、勇をやぶり義をやぶる事もあれば、聖人の道をあきらめて、義の至當をもとむるこそ、眞の士道とはいふべけれ、東照宮天下をしろしめさらるはじめ、室町家このかた、人の心あら〱しく、臣として君を弑し、子として父を弑することさへ多かりしを、うきことに思ひたまひて、人々の道をしらんがために儒をまねき、學をすゝめ、經史の類おほく板にちりばめ、ひろく世に行ひたまひければ、宗室大臣をはじめ、外は侯伯の人々までも、學に名ある人多く出來て、遂に今の至治をなせり、室町家など文にくらき代にくらべては、
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『弘道館記述義』・文武不岐・文と武は車の両輪で分けてはならない文武岐れず。臣彪謹んで案ずるに、神聖は武を以て基を建て、而して文も亦固より其の中に寓す。猶ほ夫れ西土三代の忠質文に於けるがごとし。夏殷に文無きに非ず、周豈に忠質を廃せんや。而るに夏は忠、殷は質、周は文と曰ふは、皆其の向ふ所を言ふのみ。天祖天孫の統を垂れ、神武崇神諸帝の天業を経綸するは、其の武を尚ぶこと論ずる亡し。然れども其の神を敬ひ民を愛し、政を為し治を図るの迹、豈に之を文と謂はざるべけんや。聖子神孫世々其の緒を承け、内は万民を安んじ外は四夷を撫す。諸王諸臣も亦皆文は能く衆を附け、武は能く敵を威す。国運の盛んなること赫赫として日の升るが如し。中葉以降、将相職を異にし、文武背馳す。公卿軟弱にして手に兵を知らず、源平互ひに起こり、皇室陵夷し、天下の大権遂に武人に移る。夫れ文武の国家に於けるは、猶ほ天地の陰陽有るがごとし。陰陽並び行はれて年穀豊饒なり、文武並び挙げて天下乂安なり。其れ然らざる者は則ち反す。是の故に武人の政を為すや、其の文教を質す者は或いは小康を致すべし。専ら威刑に任ずる者は亡ぶること踵を旋らさず。東照宮に至りては文を撥め武を奮ひ、以て今日の基を開く。則ち上に在る君子は固より宜しく其の業を紹述すべし、而して凡そ天下の士は、黽勉して此に従事せざるべからず。蓋し文武の道には各小大有り。天地を経緯し克く禍乱を定むるは、是れ其の大なる者なり。書を読み冊を挟み、剣を撃ち矛を奮ふは、是れ其の小なる者なり。然れども書冊は道義を講ずる所以にして、剣矛は心胆を錬る所以なり。心胆実して後に以て難に臨み変を制すべく、道義明らかにして後に以て己を脩め人を治むべし。且つ文の弊は弱、武以て弱を矯むべし。武の弊は愚、文以て愚を医すべし。然らば則ち学者其の大を語りて其の小を急にするは、固より不可なり。其の小に務めて其の大を忘るるも、亦不可なり。分かちて二と為し、又其の一を廃するは、尤も不可なり。周代六芸の科、射御其の中に居る。孔子曰く、文事有る者は必ず武備有りと。冉求矛を奮ひて斉の軍に入り、仲由三軍を行ふを以て自ら許す。則ち古の人を教ふる所以は、其をして文武兼ね資り、徳を成し材を達せしむるなり、知るべし。後世に及び、大道湮晦し、学校の設けも亦文具に属す。凡そ黌舎に周旋する者は率ね皆白面の書生。古の所謂勇敢強有力なる者は、頭を其の間に屈するを甘んぜず。李唐に至りて呂尚を尊びて孔子に匹似せしめ、別に武学を建てて文学と相対す。其の文武に心を用ふるは則ち似たり。殊に知らず、文武益ます岐れて復た収合すべからず、而して聖人の意大いに荒るるを。備前国主池田氏、蓋し此に見る有り、其の臣熊沢伯継の議を用ひ、新たに学校を設けて文武を合して一と為す。我が公、毎に深く其の国体に通達するを嗟賞し、斯の館を建つるに及び、亦其の美意に倣ふ。文武岐れずの戒め有る所以なり。学者、其れ服膺せざるべけんや。
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『告志篇』・文武は一致する、学びを出どころで退けない文武の道も亦一致と存候、凡そ武士たるもの武道を不勵して不叶儀は各も承知之事に候へども、不學文盲にては不相濟事と存候、兒童も知たる通り、今川了俊が不知文道武道遂に不得勝利といへるは、其言淺きに似たれども其旨深しと思ふ、然るに不學の者文道は漢國の敎なりとて嘲り笑ひ、又たま〱學びたる者は其道に泥み、堯舜は天祖、天孫よりも難有ものと、心得違ふ者なきにしもあらず、我等淺學にて古今に暗けれども、幼きより神聖の道を學び、つら〱思ふに、君臣父子の大倫は勿論、祭祀を崇び本に報るの道より、勇武を尙び恥を知るの義に至るまで、皆神代のむかしより備りたる事にて、忠孝文武抔いふ文字こそなけれ、其道はまさしく、神國の大道と存候、其上風俗の美なること、異邦にすぐれ、威稜の健さと、四夷にふるひ、何も事缺たることあらざれども、後の聖君賢主殊更に人に取善をなし給ひ、經書賢人を異國に求め給ひたるゆゑ、漢土の書籍渡り來て、孔子の道も傳り、神國の道ます〱明に、制度も追ゝに備りたる事なれば、神國にて孔子の道を學ぶ人は、孔子の堯舜を尊べるが如くに、天祖、天孫を奉仰候てこそ孔子の道にも叶ふべければ、漢土の道も 神國の人學ぶ時は、即ち 神國を尊ぶの道なるべければ、漢國の道なり迚しりぞくべきにあらず、彼蠻夷の佛敎をば我々信向し、我父母先祖をすら佛抔と唱へながら、獨文道に至ては漢國の敎なりとて學ばざるは、迷へるの甚しきならずや、能ゝ此儀を辨へ、文道をゆるかせにせざる樣存候、是我等の申候言には無之、義公の遺訓にも、士の大節に臨みて嫌疑を定め、
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『士道要論』・原士・武を軽んじる驕りが招く衰えへの戒めといひ、また公侯腹心といへり、それ武士を干城といひ、腹心とさへいへるに、中世にはいやしみて侍といひて、長袖の人の僕隸のごとくなれり、しばらくは從ひ居たれども、事變の會に及びて、武人遂に大君のすがたとなりて、公家の人々は權柄を失ひたまひぬ、これもと公家の士の名義を失ひて、武事をいやしみしがゆへなり、されど公家のことは、既に適にし事なれば、とかふ云べからず、余は承平の久しき武士たるものも、むかしの公家のすがたになりゆかんことを恐れて、かくはいふなり、おほよそ武をうとみて賤むにいたるは、よくも其功德をわきまへざるがゆへなり、武の貴く功德あることは、天祖の寶劍をつたへ玉ひ、左傳に武の七德をのぶるにてもしるべし、されば神聖天下を治めたまふに、文事武備兼用ること、車の兩輪、鳥の兩翼のごとし、世儒いたづらに湯武の征伐をもて、堯舜の揖讓に及ぼすごとし、武を第二義と思ふものもあれど、堯舜より先つかた、黃帝すでに武をもつて天下を定て、そのゝち禮樂文治の沙汰には及べるなり、御國もまたしかり、仁德履仲の列聖、衣裳をたれて天下をしろしめされたれど、神武崇神應神などのすべらぎ、そのまへにゐまして、干戈を用ひたまひ、經津主命武甕命等、その事ありてこそ、後の太平をひらきたるなれ、又開闢のはじめといへど、猛獸鷲鳥橫行する時に、人は爪牙の利もなくして、其中に立まじらはゞ、
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『武訓』序・第1段文といひ、武といふ、分ちて是をいへば其の用大に同じからず。故に車の兩輪鳥の兩翼にたとへて、其一を闕くことあたはざることをいへるも、おなじからざるあとにつきて、文武の二を對しいへるのみ。合せて是れをいへば文武只一德にして、文の中に武あり、武の中に文あること、猶陰陽のたがひに根ざすがごとし。故に文なき武はまことの武にあらじ。わが國中頃保元平治より天正文祿の間にいたるまで、爭亂相踵で治日まれなりしかば、士人戎事に暇なく、文學をしるものすくなく、其の武とする所血氣の勇のみにして、眞の武道をしらず、勇俠刺客のしわざのごときを尙ぶこと風俗となり、其の餘習猶近世に及べり。今太平の化あまねく行はれ、四の海波しずかにして、人文日々に盛なれば、聖賢の遺訓家々に傳はり戶々に誦す。しかれども猶無學の輩は文武のことわりを辯へず、習俗にひかれてひが心得も有るべし。或は生質柔懦にして、治平に武をわすれざるの誠をおもはぬ輩も有るべし。先生俗士のために文武の二訓を著はし、其のことわりを辯明し給ふ。其の詞は假字にして讀みやすく、其の意は聖賢の正しきすぢを述べ給ふこと親切著明にして、且目今の時宜にかなはざることなし。世敎に補あること豈小ならんや。

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