士道要論 / 士道・文武兼備の人と学の功
晝夜のたがひたるがごとく、ひとたび治りて、ふたゝびみだるゝことなきは、室町などのつねにみだれて治らずして亡びしをたゞへては、天地の隔りたるがごとし、文德のいちじるしきをしるべし、さてその室町家の時とても、功德ありてよしといわれし細川賴之、今川貞世などいへる人は皆無學にはあらざりき、されど、室町につかへたる人はいふも心よからざればまづさしおくべし、それよりさきつかた、正統の天子につかへ奉り、精忠大節、萬古にひいでし、楠中將、備後三郎こそ文武兼備の人といふべけれ、備後の三郎戎馬の間に生れながら、このんで書をよみ、櫻にかき付し兩句にてもそのからざへはへありしを見るべし、楠公は死に臨んで其子正行ぬしへ遺戒したまひし内にも、勤學すべきよしみえたり、されば、その時にて武家の大楠小楠、及び備後三郎、公家の藤房の中納言、北畠の準后、などいへる人の忠義天性にいでたりといへども、大義に明らかにして少しの遺憾なきは學の功といふべし、そのゝちの英雄、信玄、謙信、などはじめ文才ありし人はかれこれあれど、實學といひしは、加賀の利家卿、
新字:昼夜のたがひたるがごとく、ひとたび治りて、ふたゝびみだるゝことなきは、室町などのつねにみだれて治らずして亡びしをたゞへては、天地の隔りたるがごとし、文徳のいちじるしきをしるべし、さてその室町家の時とても、功徳ありてよしといわれし細川頼之、今川貞世などいへる人は皆無学にはあらざりき、されど、室町につかへたる人はいふも心よからざればまづさしおくべし、それよりさきつかた、正統の天子につかへ奉り、精忠大節、万古にひいでし、楠中将、備後三郎こそ文武兼備の人といふべけれ、備後の三郎戎馬の間に生れながら、このんで書をよみ、桜にかき付し両句にてもそのからざへはへありしを見るべし、楠公は死に臨んで其子正行ぬしへ遺戒したまひし内にも、勤学すべきよしみえたり、されば、その時にて武家の大楠小楠、及び備後三郎、公家の藤房の中納言、北畠の準后、などいへる人の忠義天性にいでたりといへども、大義に明らかにして少しの遺憾なきは学の功といふべし、そのゝちの英雄、信玄、謙信、などはじめ文才ありし人はかれこれあれど、実学といひしは、加賀の利家卿、
書き下し
晝夜のたがひたるがごとく、ひとたび治りて、ふたゝびみだるゝことなきは、室町などのつねにみだれて治らずして亡びしをたゞへては、天地の隔りたるがごとし、文德のいちじるしきをしるべし、さてその室町家の時とても、功德ありてよしといわれし細川賴之、今川貞世などいへる人は皆無學にはあらざりき、されど、室町につかへたる人はいふも心よからざればまづさしおくべし、それよりさきつかた、正統の天子につかへ奉り、精忠大節、萬古にひいでし、楠中將、備後三郎こそ文武兼備の人といふべけれ、備後の三郎戎馬の間に生れながら、このんで書をよみ、櫻にかき付し兩句にてもそのからざへはへありしを見るべし、楠公は死に臨んで其子正行ぬしへ遺戒したまひし内にも、勤學すべきよしみえたり、されば、その時にて武家の大楠小楠、及び備後三郎、公家の藤房の中納言、北畠の準后、などいへる人の忠義天性にいでたりといへども、大義に明らかにして少しの遺憾なきは學の功といふべし、そのゝちの英雄、信玄、謙信、などはじめ文才ありし人はかれこれあれど、實學といひしは、加賀の利家卿、
現代語訳
昼と夜が違うように、いったん治まって再び乱れることがないのは、室町などがいつも乱れて治まらずに亡びたのを称えるのに比べれば、天地ほどの隔たりのようで、文徳が顕著であることを知るべきです。さてその室町家の時代でも、功徳があってよいとされた細川頼之や今川貞世(了俊)などという人は、みな無学ではありませんでした。けれども、室町家に仕えた人は言うまでもなく心がよくないので、まず措いておきます。それより前、正統の天子にお仕え申し上げ、精忠大節が万古にひいでた楠中将と備後三郎こそ、文武兼備の人と言うべきです。備後三郎は戦乱のさなかに生まれながら、好んで書を読み、桜に書き付けた二句にもその才の輝きがあるのを見るべきです。楠公は死に臨んで子の正行殿に遺された戒めの中にも、学問に励むべきことが見えます。だからその時代に、武家の大楠・小楠、および備後三郎、公家の藤房の中納言、北畠の准后などという人の忠義は天性から出たものとはいえ、大義に明らかで少しの遺憾もないのは学問の功と言うべきです。その後の英雄、信玄・謙信などをはじめ、文才のあった人はあれこれいますが、実学と言えたのは、加賀の利家卿、
解説
この章句が説くこと
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『士道要論』・士道・文武は車の両輪、太平の世の備え東照宮の御遺訓にも武家の公家をまなぶことをふかくいましめ玉へり、されば、有德公御世のはじめ白石が建議してたてたる四足門をばこぼちすて祖宗のふるきにかへし、眞の文武をばはげまして、東照宮の御定をまもり玉へり、ありがたき御事なり、東照宮の御定とは、武家諸法度にも第一にしるし玉へる文武の道まなぶべしとあることなり、夫文武の道は二にして一なり、一にして二なり、武ありて文德をもほどこすべく、文ありて武功をもたつべし、文人の文に流るゝは天地を經緯するの文をしらざればな、武人の武にかたよるは神武にして殺ざるの武をしらざればなり、これ何れも眞の文武の道とはいふべからず、眞の文武の道は、いはゆる車の兩輪鳥の兩翼のごとく、ひとつをすてばとびゆくことかなふまじ、漢の高祖は儒をこのまぬ君なれど、陸賈が言に折れ叔孫が議にしたがひて、馬上をもて天下を治めず、織田右府は武き大將なれど、義昭の將軍に學をすゝめ、稻葉一徹が書贊よみたるにめでゝ、ころし玉はざるなど、實學を學ぶにはあらねど、文のやむべからざるをしれるは、さすが英雄の才といふべし、まして、東照宮は千古にひいで玉へる才德にましませば、はやくも學の人に益あることをしろしめされ、干戈いまだ納らぬうちより海内に文敎をひろめ玉へるもむべなりけり、されど、戰國の人は種々の艱苦を甞め、國々の風土をもしり、こゝろをも練り人情にも通じたれば、學の力うすくとも經濟にも達すべし、かく久しくうちつゞきたる太平に生れたる人は、安座して食ひ、四方のさかいをもいでず、頑陋なること多して、耳もきくことなく目もみる事なければ、ふみよみてことをわきまふ事なからましかば、いつもかくあることのみ思ひて、風俗のをとろへゆくをも、政事のやぶれたるをもしらずしてすぎゆかん、危きことならずや、工匠の室を作れるは規矩により、醫師の病を治るも方によれり、士大夫己を治め人を治るになどか法なからざらんや、されば、聖人の道によりて、文武ならび用るこそ、まことに長久の道なれ、
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『士道要論』・士道・聖人の道を欠く武辺の偏りと学問の功たが定めしといふことはしらねども、おのづから道にかなへることもあれど、私心偏見をまぬかれざることも多し、そのひとつふたつをいはんに、追ひはらきるをもて忠とし、亡命の人をはごくむをもて義とするの類、みな孟子のいへる不義の義といふものなり、もつともいたくそむけたることは、さりとり强盜は武士のならひといへることさへあるにいたれり、士たる□、つよきをもてむねとすといへど、聖人の道によらざれば、おちいりて賊となることもあり、また氣節を立て死をかろんずるとも、勇をやぶり義をやぶる事もあれば、聖人の道をあきらめて、義の至當をもとむるこそ、眞の士道とはいふべけれ、東照宮天下をしろしめさらるはじめ、室町家このかた、人の心あら〱しく、臣として君を弑し、子として父を弑することさへ多かりしを、うきことに思ひたまひて、人々の道をしらんがために儒をまねき、學をすゝめ、經史の類おほく板にちりばめ、ひろく世に行ひたまひければ、宗室大臣をはじめ、外は侯伯の人々までも、學に名ある人多く出來て、遂に今の至治をなせり、室町家など文にくらき代にくらべては、
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『士道要論』・士道・実学に志す心と外国の風をまねる弊加藤主計頭のみなり、そのころのことゆへひろく學ばれしにはあらねど、きゝしるところをふみ行はれしこと今の學者にはるかにまさるべし、烈祖成績に二將の事を論じて文運のひらかんずる兆なりといへり、さもありなん、されば、士たるものゝ、學は、近くは、東照宮の遺法により、遠くは、大鷦鷯の帝(仁德天皇)菟道の稚郎子の皇子のごとく實學に志すべし、中昔の御代にては、天智の帝、鎌足、道眞、の大臣などこそは實學の功もあり玉ひけれど、その餘は君臣ともに、ひたふるに隋唐華靡の風をしたひたまひて、衣冠官制さへ唐風になづらひ、禮樂文物はうるはしけれど、虚文のみにて眞の聖人の道を行ひたまへる人々は見えず、これ櫝を買て玉を還すといふ譬のごとくにていひ甲斐なし、誠に聖人の道を學たまはんとならば經典にて事たりぬべし、遣唐使などたて玉ふには及ぶまじ、いたづらに、外國末世の弊風を學びて、皇國醇朴の風を失ひ、そのうへ仁柔なる佛法をむねとして、王法をみだりたまひしかば、文弱の風に流れて王室の衰とはなりぬ、學問はもと唐の風をまねぶにあらず、もろこしの道を學ぶなり、
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『紫灘遺稿抄録』・心得の条々・文武を兼ね備え余裕を持つ一人の文武あるは、鳥の左右の翼あるがごとし、かならずかたく〱ならぬ樣にあるべし、周公などの時は、治世にむかひて、禮樂のこと專らにの玉ひしかど、立政の篇には誥爾戎兵。方行天下。などいかめしきまで、戎事ををさめられたり、孔聖も文事あるものは、必武備ありとの玉ひ、曾子も戰陣無勇非孝。といはれたり、されば士たらんものは、武藝は弓馬槍劔をはじめ、拳法相撲に至まで十分に執行し、文事は修身治人學問はいふもさらなり、詩歌管絃にも心ざし、をりにふれて歌にも詩にも口ずさみ、時としては笙笛琵琶箏など玩び、胸襟を綽々と餘裕ある樣にしてこそ、大義にあたりて、忠孝の道もゆるりとなし得べけれ、平安の都より次第に道もおとろへて、文武もかたよりなりしが、さすがに南北朝の時代までは、武士といふかぎりの人は、閑雅にして、をりにふれていとやさしき事もありしぞかし、されば詩作らぬ人はあれど、歌よまぬ人とてはなく、就中、楠公は琵琶をよくせられ、新田中將は笛を吹き、足利のしれものさへも笙をたのしみ侍しとか、平家の一族、
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『匡正論』・文武の実を失った武士の通念詩書は義の府なれば、卿大夫たる者、先王の義に達せざれば、武事のみ長じても、卿とはなさざるなり、古の道みな如此也、故に有文事者、必有武備とも云、仁者必有勇、勇者不必有仁とも云、又有勇而無義、爲亂とも云り、古の學士德成て仕へ、爵大夫に至るを至極とするなれば、敢る事也、後世學文の如き比ひに非ず、吾邦中古以後公家武家と別れてより、政治皆將軍に歸し、諸侯皆武家と稱して、其國の政令も多くは軍命を其まゝに用ひて治らるゝ事、大方は武威を以てひしつけ、何事も簡易徑直なるを貴び、士を敎るに一步も退かざるを以て本意とす、但當時の御條目に文武忠孝を勵む事あれば、何事もこの內にこもることとなれども、全躰に上下共多く文武の實を失ふに似たり、今士の武道なりと稱せる所は、俠客の氣ありて勇を尙び死を厭はず恥を知り信を重じ、むさくきたなびれず、弓馬鎗劍の術に達し、御馬前にて潔く一命を捨るなど云常言あり、是等のことを武道と心得たるなり、又其文道なりとする所は、總て書を讀み詩歌を作るなどの事なりと思ひ、甚しきは讀書は武士の知らずして濟むべき者なりとて、孝悌忠信の沙汰もなく、恥とする事を知らず、是世上文學の行れざる故にや、又小量なる學者の善惡邪正の心盤にして理屈めきたるを見る故にや、學文すれば諸士の交り妨となると思ふの類、皆學風のあしきと無學文官との然らしむる所にして、誠の道を知る人の憂ふる所也、然れども其武道とする一種の志氣は頼もしき所あり、害なしと云べし、只無學の輩多きより治國の才を成す人少く、
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『士道要論』・士節・踏みこたえる者の少なさと正しい鑑城を枕にしてきつと死ぬるものは作左衞門の外はあらじとて、本多重次に命ぜられたり、かく節を守て、しかと死ぬるものは、むかしにてもかたしとせり、されど、德川家には節義の士多し、東照宮、豐臣關白と御和議とゝのひて初てまみへ玉ひし時、關白、德川家の寶物を問せられしかば、何にもあらざるとてこたへ玉ひけれど、しひて問せられしかば、其ときの御こたへに、某がために水火の中にとびいりて、命を露麤ほどもおしまぬ者五百人あまりもや候はん、これぞ某が寶なりけるとの玉ひしをみれば、しかと死ぬるもの少からず、德川家の天下を得給ひしもむべなるかな、それより前つがたにては、北條が亡し時ほど死節の士多き事はなし、鎌倉にて高時に從ひて、自殺せしもの數千人にあまり、番場の辻堂にて仲時にしたがひて腹切ものも數百人にいたれり、其外諸國にて死せし者かずをしらず、そのころ士氣のつよきをしるべし、されど、北條がひがごとしたるに從ひて、一人も非をいさめ逆をとどむるものなく、正統の天子にむかひ奉りて、弓をひき刀をふるひしものどもなれば、武士の鑑とはなしがたし、わが大やまとの御國にて、上下二千餘年のあいだ武士の鑑とすべき人は、楠中將にぞとどめける、楠公正統の天子にたのまれ奉りて義兵をおこし、一族郎黨までも、こと〱く義により節を守り、

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