士道要論 / 士道・聖人の道を欠く武辺の偏りと学問の功
たが定めしといふことはしらねども、おのづから道にかなへることもあれど、私心偏見をまぬかれざることも多し、そのひとつふたつをいはんに、追ひはらきるをもて忠とし、亡命の人をはごくむをもて義とするの類、みな孟子のいへる不義の義といふものなり、もつともいたくそむけたることは、さりとり强盜は武士のならひといへることさへあるにいたれり、士たる□、つよきをもてむねとすといへど、聖人の道によらざれば、おちいりて賊となることもあり、また氣節を立て死をかろんずるとも、勇をやぶり義をやぶる事もあれば、聖人の道をあきらめて、義の至當をもとむるこそ、眞の士道とはいふべけれ、東照宮天下をしろしめさらるはじめ、室町家このかた、人の心あら〱しく、臣として君を弑し、子として父を弑することさへ多かりしを、うきことに思ひたまひて、人々の道をしらんがために儒をまねき、學をすゝめ、經史の類おほく板にちりばめ、ひろく世に行ひたまひければ、宗室大臣をはじめ、外は侯伯の人々までも、學に名ある人多く出來て、遂に今の至治をなせり、室町家など文にくらき代にくらべては、
新字:たが定めしといふことはしらねども、おのづから道にかなへることもあれど、私心偏見をまぬかれざることも多し、そのひとつふたつをいはんに、追ひはらきるをもて忠とし、亡命の人をはごくむをもて義とするの類、みな孟子のいへる不義の義といふものなり、もつともいたくそむけたることは、さりとり強盗は武士のならひといへることさへあるにいたれり、士たる□、つよきをもてむねとすといへど、聖人の道によらざれば、おちいりて賊となることもあり、また気節を立て死をかろんずるとも、勇をやぶり義をやぶる事もあれば、聖人の道をあきらめて、義の至当をもとむるこそ、真の士道とはいふべけれ、東照宮天下をしろしめさらるはじめ、室町家このかた、人の心あら〱しく、臣として君を弑し、子として父を弑することさへ多かりしを、うきことに思ひたまひて、人々の道をしらんがために儒をまねき、学をすゝめ、経史の類おほく板にちりばめ、ひろく世に行ひたまひければ、宗室大臣をはじめ、外は侯伯の人々までも、学に名ある人多く出来て、遂に今の至治をなせり、室町家など文にくらき代にくらべては、
書き下し
たが定めしといふことはしらねども、おのづから道にかなへることもあれど、私心偏見をまぬかれざることも多し、そのひとつふたつをいはんに、追ひはらきるをもて忠とし、亡命の人をはごくむをもて義とするの類、みな孟子のいへる不義の義といふものなり、もつともいたくそむけたることは、さりとり强盜は武士のならひといへることさへあるにいたれり、士たる□、つよきをもてむねとすといへど、聖人の道によらざれば、おちいりて賊となることもあり、また氣節を立て死をかろんずるとも、勇をやぶり義をやぶる事もあれば、聖人の道をあきらめて、義の至當をもとむるこそ、眞の士道とはいふべけれ、東照宮天下をしろしめさらるはじめ、室町家このかた、人の心あら〱しく、臣として君を弑し、子として父を弑することさへ多かりしを、うきことに思ひたまひて、人々の道をしらんがために儒をまねき、學をすゝめ、經史の類おほく板にちりばめ、ひろく世に行ひたまひければ、宗室大臣をはじめ、外は侯伯の人々までも、學に名ある人多く出來て、遂に今の至治をなせり、室町家など文にくらき代にくらべては、
現代語訳
誰が定めたのかは知りませんが、自然に道にかなうこともある一方で、私心や偏見を免れないことも多くあります。そのひとつふたつを挙げれば、(主君を)追い払い斬るのを忠とし、亡命の人を養うのを義とする類は、みな孟子の言う「不義の義」というものです。最もひどく背いたことは、「さりとて強盗は武士の習い」とまで言うに至っています(原文は「さりとり」)。士たる(底本で判読できない字)は強いことを旨とすると言いますが、聖人の道によらなければ、落ち込んで賊になることもあります。また気節を立てて死を軽んじても、勇を損ない義を損なうこともありますから、聖人の道を明らかにして義の最も当を得たところを求めてこそ、真の士道と言うべきです。東照宮(徳川家康)が天下をお治めになった初め、室町家以来、人の心は荒々しく、臣として君を弑し、子として父を弑することさえ多かったのを、つらいことに思われて、人々が道を知るために儒者を招き、学問を勧め、経書・史書の類を多く版木に彫って広く世に行われたので、宗室(徳川の一門)・大臣をはじめ、外は侯伯の人々までも、学問で名のある人が多く出て、ついに今の至治(よく治まった世)を成しました。室町家など文に暗い世に比べては、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『士道要論』・士道・文武は車の両輪、太平の世の備え東照宮の御遺訓にも武家の公家をまなぶことをふかくいましめ玉へり、されば、有德公御世のはじめ白石が建議してたてたる四足門をばこぼちすて祖宗のふるきにかへし、眞の文武をばはげまして、東照宮の御定をまもり玉へり、ありがたき御事なり、東照宮の御定とは、武家諸法度にも第一にしるし玉へる文武の道まなぶべしとあることなり、夫文武の道は二にして一なり、一にして二なり、武ありて文德をもほどこすべく、文ありて武功をもたつべし、文人の文に流るゝは天地を經緯するの文をしらざればな、武人の武にかたよるは神武にして殺ざるの武をしらざればなり、これ何れも眞の文武の道とはいふべからず、眞の文武の道は、いはゆる車の兩輪鳥の兩翼のごとく、ひとつをすてばとびゆくことかなふまじ、漢の高祖は儒をこのまぬ君なれど、陸賈が言に折れ叔孫が議にしたがひて、馬上をもて天下を治めず、織田右府は武き大將なれど、義昭の將軍に學をすゝめ、稻葉一徹が書贊よみたるにめでゝ、ころし玉はざるなど、實學を學ぶにはあらねど、文のやむべからざるをしれるは、さすが英雄の才といふべし、まして、東照宮は千古にひいで玉へる才德にましませば、はやくも學の人に益あることをしろしめされ、干戈いまだ納らぬうちより海内に文敎をひろめ玉へるもむべなりけり、されど、戰國の人は種々の艱苦を甞め、國々の風土をもしり、こゝろをも練り人情にも通じたれば、學の力うすくとも經濟にも達すべし、かく久しくうちつゞきたる太平に生れたる人は、安座して食ひ、四方のさかいをもいでず、頑陋なること多して、耳もきくことなく目もみる事なければ、ふみよみてことをわきまふ事なからましかば、いつもかくあることのみ思ひて、風俗のをとろへゆくをも、政事のやぶれたるをもしらずしてすぎゆかん、危きことならずや、工匠の室を作れるは規矩により、醫師の病を治るも方によれり、士大夫己を治め人を治るになどか法なからざらんや、されば、聖人の道によりて、文武ならび用るこそ、まことに長久の道なれ、
-
『士道要論』・士道・人の心に備わる道心を明らかにする士たるもの己を治め人を治るには、まづ心を治むべけれど、私心にてはよからず、道心にこそあるべけれ、道心はみな人々の心にそなはるものにて、即性なり、性はたれもあしきものなく皆よしといへど、かの人欲のわたくしに蔽はれてくらみたるものぞ多き、そのうちには、よきといふ人はくらからぬものもあれど、此に明かなれば彼にくらくして、大空のくまなくはれわたりたるごとき人は聖人の外にはあらず、されば、聖人のみは道心全く明らかにおはしまして、その行ひ玉ひしことも、語りたまひしことも、即道となりて、世々の人のまもるべきをしへとはなれり、聖人の道とても人々の心になきことにはあらず、但偏僻と全體とのたがひあるのみ、凡人の私心偏見より見ては、おりには迂濶なることのやうに思ふをしへもあるべけれど、これはおのれがいたらぬところと思ひて、あつく聖人を信じてその道をかうがへあきらめ、今日人倫の上に及して、義の至當をもとむるこそ實の學問といふべけれ、眞の士道も、たゞこの道によりてこそ行ふべけれ、近世武辨の家にも、おのづから武士道といへる事ありき、
-
『士道要論』・士道・文武兼備の人と学の功晝夜のたがひたるがごとく、ひとたび治りて、ふたゝびみだるゝことなきは、室町などのつねにみだれて治らずして亡びしをたゞへては、天地の隔りたるがごとし、文德のいちじるしきをしるべし、さてその室町家の時とても、功德ありてよしといわれし細川賴之、今川貞世などいへる人は皆無學にはあらざりき、されど、室町につかへたる人はいふも心よからざればまづさしおくべし、それよりさきつかた、正統の天子につかへ奉り、精忠大節、萬古にひいでし、楠中將、備後三郎こそ文武兼備の人といふべけれ、備後の三郎戎馬の間に生れながら、このんで書をよみ、櫻にかき付し兩句にてもそのからざへはへありしを見るべし、楠公は死に臨んで其子正行ぬしへ遺戒したまひし内にも、勤學すべきよしみえたり、されば、その時にて武家の大楠小楠、及び備後三郎、公家の藤房の中納言、北畠の準后、などいへる人の忠義天性にいでたりといへども、大義に明らかにして少しの遺憾なきは學の功といふべし、そのゝちの英雄、信玄、謙信、などはじめ文才ありし人はかれこれあれど、實學といひしは、加賀の利家卿、
-
『尚武論』・法と情の両立と、史伝を座右に置く学び六国史以下の史は、猶ほ彼の方の書のごとし。弓矢の礼は、乃ち彼の方の所謂礼なり。我が邦の人、是を以て学と為さば、亦武徳を養ふに庶幾からんか。唯だ我が邦のごときは楽無きを如何せん。若し聖人起こること有らば、宜しく其の方俗に従ひ、其の宜しきを稽へ、之を制作すべし。世に用ふる所の猿楽は、稍や武楽に近し。姑く之を用ひて、頗る勇気を養ふに足るのみ。仏にも楽有り、僧徒常に之を用ふ。仏の盛んなるは、即ち楽を行ふの効なり。楽は無かるべからざるものなり。我が邦に楽無きは、大いなる闕典為り。初め神君、天下を平治するに専ら武徳を以てし、傍ら儒学を用ふ。乃ち儒者の空論多く、大いに実事を害するを厭ひ、是を以て宋学を用ひて程式と為し、無用の論説を省く。然れども又異学を禁ぜず、人材を生ずるを求むる所以なり。慶元以還、文運大いに闢け、元禄・享保に至りて儒学勃興し、人物輩出し、前代に比無し。自づから天子に臣たらず、諸侯に友たらざるの士有り、盛んと謂ふべし。唯だ憾むらくは先輩皆武の文より尊きを知らず、徒らに俛首して文学の士に従はんと欲す。亦誤りならずや。漢の時、文武は二と為り、烈士は皆武人の中より起こる。文国すら猶ほ然り、況んや我が方に於いてをや。近代、大石良雄は、躬ら国家の令を干し、其の主の為に能く其の仇を報い、罪を闕下に俟つ。此れ私には則ち忠を存し、公には則ち法を重んず。両つながら得たりと謂ふべし。武士道は自づから此くのごときのみ。尚ぶべしと為す。国家の法は固より泰山より重し。則ち其の忠志を愍れむと雖も、法を枉げて私を行ふ能はず。待つに武士道を以てして死を賜ふ。法を重んじ忠を恤み、天下の耳目を新たにして、武士道を興起するなり。吾が儕小人、妄りに口吻を容るべからずと雖も、私に以為へらく、太平の兆なり、と。欽みて奉り之を賀す。而るに闇斎の流れは、漫りに議して以為へらく、彼は復讐に非ず、と。徂徠の徒は、妄りに斥けて以為へらく、彼は義士に非ず、と。一は性理に泥み、一は文辞に拘り、我が邦に武道の尚ぶべき有るを知らず。悲しいかな。湯浅常山曰く、苟くも武士たる者は、寧ろ文華を廃すとも、武事を廃すること勿かれ、と。真儒の見、卓なりと謂ふべし。嘗て聞く、程子、人に史伝を読むことを勧む、と。予も又毎に謂ふ、我が方の学者は、当に勤めて史伝を読むべし、と。夫の常山紀談・藩翰譜・砕玉話・武野燭談等の類のごときは、則ち常に諸を座右に置きて可なり。此れ則ち武心を養ふの方なり。楽を用ひず、武術を治めずして、別に心を治むるの方有らんや。学者徒らに心を治むるの工夫を為し、
-
『士道要論』・士道・実学に志す心と外国の風をまねる弊加藤主計頭のみなり、そのころのことゆへひろく學ばれしにはあらねど、きゝしるところをふみ行はれしこと今の學者にはるかにまさるべし、烈祖成績に二將の事を論じて文運のひらかんずる兆なりといへり、さもありなん、されば、士たるものゝ、學は、近くは、東照宮の遺法により、遠くは、大鷦鷯の帝(仁德天皇)菟道の稚郎子の皇子のごとく實學に志すべし、中昔の御代にては、天智の帝、鎌足、道眞、の大臣などこそは實學の功もあり玉ひけれど、その餘は君臣ともに、ひたふるに隋唐華靡の風をしたひたまひて、衣冠官制さへ唐風になづらひ、禮樂文物はうるはしけれど、虚文のみにて眞の聖人の道を行ひたまへる人々は見えず、これ櫝を買て玉を還すといふ譬のごとくにていひ甲斐なし、誠に聖人の道を學たまはんとならば經典にて事たりぬべし、遣唐使などたて玉ふには及ぶまじ、いたづらに、外國末世の弊風を學びて、皇國醇朴の風を失ひ、そのうへ仁柔なる佛法をむねとして、王法をみだりたまひしかば、文弱の風に流れて王室の衰とはなりぬ、學問はもと唐の風をまねぶにあらず、もろこしの道を學ぶなり、
-
『士道要論』・士節・踏みこたえる者の少なさと正しい鑑城を枕にしてきつと死ぬるものは作左衞門の外はあらじとて、本多重次に命ぜられたり、かく節を守て、しかと死ぬるものは、むかしにてもかたしとせり、されど、德川家には節義の士多し、東照宮、豐臣關白と御和議とゝのひて初てまみへ玉ひし時、關白、德川家の寶物を問せられしかば、何にもあらざるとてこたへ玉ひけれど、しひて問せられしかば、其ときの御こたへに、某がために水火の中にとびいりて、命を露麤ほどもおしまぬ者五百人あまりもや候はん、これぞ某が寶なりけるとの玉ひしをみれば、しかと死ぬるもの少からず、德川家の天下を得給ひしもむべなるかな、それより前つがたにては、北條が亡し時ほど死節の士多き事はなし、鎌倉にて高時に從ひて、自殺せしもの數千人にあまり、番場の辻堂にて仲時にしたがひて腹切ものも數百人にいたれり、其外諸國にて死せし者かずをしらず、そのころ士氣のつよきをしるべし、されど、北條がひがごとしたるに從ひて、一人も非をいさめ逆をとどむるものなく、正統の天子にむかひ奉りて、弓をひき刀をふるひしものどもなれば、武士の鑑とはなしがたし、わが大やまとの御國にて、上下二千餘年のあいだ武士の鑑とすべき人は、楠中將にぞとどめける、楠公正統の天子にたのまれ奉りて義兵をおこし、一族郎黨までも、こと〱く義により節を守り、

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る