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洗心洞箚記 / 箚記跋松浦誠之

故吾曰仕路之民功勇退之隱操皆是得于學問之力也且先生常言曰不用掃意見情識之苦功而徒指常凡之發見攙意欲者而漫語良知者蓋泰州之王學而非越中之王學也故先生之學愼獨乎未發已前以痛掃意見情識之害良知者故其極在歸乎太虛矣夫太虛則良知自然明也此是妙處非言語見解之所能及也箚記乃其致仕後所書而五倫五常迄經濟兵務文學技藝之緊要莫盡不載焉然皆括之太虛矣括之太虛而有五倫五常經濟兵務文學技藝如此則豈佛也哉豈老也哉

新字:故吾曰仕路之民功勇退之隠操皆是得于学問之力也且先生常言曰不用掃意見情識之苦功而徒指常凡之発見攙意欲者而漫語良知者蓋泰州之王学而非越中之王学也故先生之学慎独乎未発已前以痛掃意見情識之害良知者故其極在帰乎太虚矣夫太虚則良知自然明也此是妙処非言語見解之所能及也箚記乃其致仕後所書而五倫五常迄経済兵務文学技芸之緊要莫尽不載焉然皆括之太虚矣括之太虚而有五倫五常経済兵務文学技芸如此則豈仏也哉豈老也哉

書き下し

故に吾曰く、仕路の民功、勇退の隠操、皆是れ学問の力に得る、と。且つ先生常に言ひて曰く、意見情識を掃ふの苦功を用ひずして、徒らに常凡の発見して意欲を攙ふる者を指して、漫りに良知を語る者は、蓋し泰州の王学にして、越中の王学に非ざるなり、と。故に先生の学は未発已前に慎独して、以て意見情識の良知を害する者を痛掃す。故に其の極は太虚に帰するに在り。夫れ太虚なれば則ち良知自然に明らかなり。此れ是れ妙処にして、言語見解の能く及ぶ所に非ざるなり。箚記は乃ち其の致仕の後に書く所にして、五倫五常より経済兵務文学技芸の緊要に迄るまで、尽く載せざる莫し。然れども皆之を太虚に括る。之を太虚に括りて五倫五常経済兵務文学技芸有ること此くの如し。則ち豈に仏ならんや、豈に老ならんや。

現代語訳

だから私は言う。仕官の道での民のための功績も、潔く退いた隠者の節操も、みな学問の力から得たものである、と。また先生は常に言っていた。「意見や情識(思い込みや感情的な分別)を払い除く苦しい工夫をせず、いたずらに凡人の、私意の欲が混じった心の現れを指して、みだりに良知を語る者は、泰州の王学(王艮の流れ)であって、越中の王学(陽明本来の学)ではない」。だから先生の学は、心がまだ発しない前に慎独して、意見や情識が良知を害するのを徹底して払い除く。だからその極みは太虚に帰することにある。そもそも太虚であれば良知はおのずと明らかである。これこそ妙処であって、言葉や見解が及ぶものではない。『箚記』は先生が職を辞した後に書いたもので、五倫・五常から経世済民、軍務、文学、技芸の要点まで、載せていないものはない。しかしみなこれを太虚にくくっている。太虚にくくりながら、五倫・五常・経済・兵務・文学・技芸がこのようにある。どうして仏教であろうか、どうして老荘であろうか。

解説

跋の中心で、中斎の学の要を的確にまとめている。意見情識を掃う苦功をせず凡情の現れを良知と呼ぶのは泰州学派の王学で、越中すなわち陽明本来の学ではないという中斎の言葉が伝えられる。中斎の学は未発の前に慎独して意見情識を掃い、その極みは太虚に帰することにあり、太虚であれば良知は自ら明らかだという。しかも『箚記』は五倫から経済・兵務・技芸まで説くから、仏老の空虚とは違うと弁じる。思い込みを掃わずに直感を良知と呼ぶ危うさは、現代の「直感を信じよ」という言葉にも当てはまる戒めである。

この章句が説くこと

太虚良知慎独意見陽明学泰州学派

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