洗心洞箚記 / 卷下・第百三十八條
湯潛菴先生曰、聖賢義理、載於五經四書、而其要具於吾身、若舍目前各人進修之實、不以改過遷善爲務、縱將注疏大全、辨析毫釐、與己終無干涉、聖學首重誠意、自欺自慊、皆在隱微獨知處勘證、若徒彌縫形迹、不實在心地打點、卽外面毫無破綻、總是瞻前顧後、義襲而取、苦力一生、究竟成一鄕愿、到對天質人處、心中多少愧怍、我輩着實用力、必期躬行心得、義利誠僞關頭、不可一毫將就混過此日、勉強久之、必有純熟景界、陽明先生致良知、爲聖學眞脈、各求所以致之之道、勿忽也、嗚呼、湯先生理學之名儒矣、不信其言而誰之信、故口雖說良知、不致之則非但叛湯先生、獲罪於王子矣、獲罪於王子、則是亦孔孟之罪人也已矣、
新字:湯潜菴先生曰、聖賢義理、載於五経四書、而其要具於吾身、若舎目前各人進修之実、不以改過遷善為務、縦将注疏大全、弁析毫釐、与己終無干渉、聖学首重誠意、自欺自慊、皆在隠微独知処勘証、若徒弥縫形迹、不実在心地打点、即外面毫無破綻、総是瞻前顧後、義襲而取、苦力一生、究竟成一郷愿、到対天質人処、心中多少愧怍、我輩着実用力、必期躬行心得、義利誠偽関頭、不可一毫将就混過此日、勉強久之、必有純熟景界、陽明先生致良知、為聖学真脈、各求所以致之之道、勿忽也、嗚呼、湯先生理学之名儒矣、不信其言而誰之信、故口雖説良知、不致之則非但叛湯先生、獲罪於王子矣、獲罪於王子、則是亦孔孟之罪人也已矣、
書き下し
湯潜菴先生曰く、聖賢の義理は、五経四書に載せて、其の要は吾が身に具はる。若し目前各人進修の実を舎てて、改過遷善を以て務めと為さずんば、縦ひ注疏大全を将て、毫釐を辨析するも、己と終に干渉無し。聖学は首めに誠意を重んず。自ら欺くと自ら慊くするとは、皆隠微独知の処に在りて勘証す。若し徒らに形迹を弥縫して、実に心地に在りて打点せずんば、即ち外面毫も破綻無きも、総て是れ前を瞻後を顧み、義襲して取るなり。苦力一生、究竟一郷愿と成る。天に対し人に質す処に到りて、心中多少の愧怍あらん。我が輩着実に力を用ひ、必ず躬行心得を期し、義利誠偽の関頭は、一毫も将就して此の日を混過すべからず。勉強すること之を久しくせば、必ず純熟の景界有らん。陽明先生の致良知は、聖学の真脈為り。各々之を致す所以の道を求めて、忽にする勿れ、と。嗚呼、湯先生は理学の名儒なり。其の言を信ぜずして誰をか之れ信ぜん。故に口に良知を説くと雖も、之を致さずんば則ち但だに湯先生に叛くのみに非ず、罪を王子に獲。罪を王子に獲れば、則ち是れ亦孔孟の罪人なるのみ。
現代語訳
湯潜菴先生(湯斌)は言う。「聖賢の義理は五経と四書に載っているが、その要は自分の身に備わっている。もし目の前で各自が修養を進める実際を捨てて、過ちを改め善に移ることを務めとしなければ、たとえ注疏や『大全』を手にして毛の先ほどの違いまで分析しても、自分とはついに何の関わりもない。聖人の学はまず誠意を重んじる。自分を欺くか、自分に満ち足りるかは、みな人に知られず自分だけが知るかすかな所で確かめられる。もしいたずらに外見の跡を取り繕うだけで、実際に心の地で点検しなければ、たとえ外面に少しの破綻もなくても、すべては前を見たり後ろを振り返ったりして人目を気にし、義を外から借りて取るものである。一生苦労して努めても、結局は一人の郷愿(村の八方美人のえせ君子)になる。天に向かい人に問われる場に至れば、心の中にどれほどの恥があることか。我々は着実に力を用い、必ず身に行い心に得ることを期し、義と利、誠と偽の分かれ目では、毛筋ほども妥協してその日をごまかして過ごしてはならない。努め励むことを長く続ければ、必ず熟しきった境地がある。陽明先生の致良知は聖人の学の真の脈である。各自それを致す道を求めて、おろそかにしてはならない」。ああ、湯先生は理学の名儒である。その言葉を信じないで、だれの言葉を信じようか。だから口で良知を説いても、それを致さなければ、ただ湯先生に背くだけでなく、王子(王陽明)に罪を得る。王子に罪を得れば、それはまた孔子・孟子の罪人にほかならない。
解説
この章句が説くこと
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『洗心洞箚記』卷下・第九十一條是の故に賢愚と無く、学に志せば、則ち断じて是を以て準的と為す。則ち康荘大道の上を行くの人にして、邪径曲路を踏む者に非ざるなり。而して其の成不成も亦命なるのみ。君子は命を云はず、只義を以て主と為す。則ち誠を以て準的と為す、義焉より大なるは莫し。陽明先生曰く、大学の要は、誠意のみと。此を以てなり。而して程朱居敬窮理の工も、要するに亦誠に帰するのみ。豈に他有らんや。而して其の学者静坐し、其の子陽辟して書を読み、其の勤惰を知らず、或いは冊子の上に放著して、心を治むるの工を知らず。是れ皆其の末学の弊なり。程朱の学にして安んぞ之有らんや。故に湯潜菴先生曰く、宋儒は主敬を言ふ。陽明は学者の一の敬の字を執著呆守するに過ぎて、反つて是れ不敬なるを恐る。故に人に教へて只良知を提醒せしむ。吾謂へらく、良知を昏まさざる者は、敬なり。敬の執著せざる所の者は、良知なりと。要するに誠に帰するを以て準的と為して問学すれば、則ち主敬と曰ふも亦可なり、致良知と曰ふも亦可なり。否ずんば則ち博学浩聞も、即ち門外の乞児なり。反観内省も、即ち葱嶺の髡徒なり。豈に道を学ぶと曰はんや。
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『洗心洞箚記』卷上・第百八十條近渓も是れ亦禅の毀り有りと雖も、皆俗学左袒の論にして、公正の議に非ざるなり。袁中郎曰く、学道の人に至りては、幾句の道理を暁り得、幾件の好事を行ひ得れば、其の世を憤り俗を嫉むこと尤も甚だし。此の処、極微極細にして、最も抜除し難し。若し能く自家の身子を打倒して、心を安んじて世俗の人と一様ならば、上根宿学に非ざれば能はざるなり。此の意、孔老より後、惟だ陽明・近渓のみ庶幾くは之に近しと。然らば則ち其の無我の気象、諸儒に超卓すること亦見るべし。嗚呼、良知は聖学の真訣なり。之を致すの難きに因りて、乃ち病と為り、弊と為る。是の故に学者、良知の固有を恃むべからずして、実に之を致すの功を日用応酬より、読書講武凡百瑣屑の事に至るまで用ゐば、則ち道徳功業、必ず古人に逮ばん。否らずんば万巻を看破すと雖も、游談無根に帰するのみ。亦何ぞ君父に益すること之れ有らん。
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『洗心洞箚記』卷下・第六條毛西河先生曰く、良知は孟子に出づ、原より疑ふべき無し。特に文成、此を提げて直ちに堯舜孔孟の学に従ひ、宋学と相反する処に、此の二字を掲ぐ。特だに文成の領要を得て、聖域に優入するのみならず、且つ苗を化して験実有り、則ち功を万世に有する者なりと。西河の陽明先生を推尊すること即ち此の如し。而して其の致良知以誠意の学、之を高笠先生に私淑し、終に了悟有り。其の証文知本等の書に於いて見るべし。只其の宋学と相反すと謂ふの一語は、乃ち過激なり。程朱何ぞ曾て良知を廃せん。学人平心に其の遺書文集を読めば、則ち往往説き出だすを見るべし。只陽明先生の事事之を説くが如きに非ざるのみ。然らば則ち奚の相反すること之れ有らん。故に学は平心に之を講ずるを貴ぶ。
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『洗心洞箚記』卷下・第三十五條致良知の学は、但だ人を欺かざるのみならず、先づ自ら欺く毋きなり。而して其の功夫は屋漏より来たり、戒慎と恐懼と、須臾も之を遺るべからざるなり。一旦豁然として天理を心に見れば、即ち人欲氷釈凍解す。是に於いて当に洒脱の妙此に超ゆる者無きを知るべし。而して世人、人を欺き自ら欺く。是れ習俗と為る。父の子を養ひ、子の父に事へ、君の臣を使ひ、臣の君に事ふるも亦是に於いてし、夫婦・長幼・朋友より、師弟の教学に至るまで、皆然らざる莫し。故に遽かに之に致良知の事を語れば、則ち駭きて走る者有り、悪みて仇とする者有り、嘲りて棄つる者有り、笑ひて避くる者有り、桎梏を以て之を視る者有り、縲絏を以て之に比する者有り。故に良知の学、天下に亡びて伝はらず。只其の伝はらざるや、人も亦聖賢の域に躋るを得ずして、皆夢生酔死の場に擾擾たり。豈に悲しむべきに非ずや。若し先覚者有らば、万死を犯して疾く告げざるを得ざるなり。嗚呼、後の世に当たりて、先覚者は抑々誰ぞや。吾未だ其の人を見ざるなり。噫。
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伝習録・答欧陽崇一崇一の来書に云う、「師云う、『徳性の良知は、聞見に由るに非ず。若し多く聞きて其の善なる者を択びて之に従い、多く見て之を識すと曰わば、則ち是れ専ら之を見聞の末に求めて、已に第二義に落在す』と。竊かに意う、良知は見聞に由りて有るに非ずと雖も、然れども学者の知は、未だ嘗て見聞に由りて発せずんばあらず。見聞に滞るは固より非なり。而して見聞も亦た良知の用なり。今、『第二義に落在す』と曰うは、恐らくは専ら見聞を以て学と為す者の為に言うならん。若し其の良知を致して之を見聞に求めば、亦た知・行合一の功なるに似たり。如何」と。良知は見聞に由りて有るに非ず。而して見聞は良知の用に非ざる莫し。故に良知は見聞に滞らずして、亦た見聞を離れざるなり。孔子云う、「吾に知有らんや。知無きなり」と。良知の外、別に知無し。故に「良知を致す」は是れ学問の大頭脳、是れ聖人の人に教うる第一義なり。今、専ら之を見聞の末に求むと云わば、則ち是れ頭脳を失却して、已に第二義に落在す。近時、同志の中、蓋し已に「致良知」の説有るを知らざる莫し。然れども其の工夫、尚お鶻突なる者多きは、正に是れ此の一問を欠くなり。大抵、学問の工夫は只だ主意の頭脳の是当なるを要す。若し主意の頭脳、専ら「良知を致す」を以て事と為さば、則ち凡そ多く聞き、多く見るも、「良知を致す」の功に非ざる莫し。蓋し日用の間、見聞醻酢は、千頭万緒と雖も、良知の発用流行に非ざる莫し。見聞醻酢を除却せば、亦た良知の致すべき無し。故に只だ是れ一事なり。若し其の良知を致して之を見聞に求むと曰わば、則ち語意の間、未だ二と為るを免れず。此れ専ら之を見聞の末に求むる者と稍(やや)同じからずと雖も、其の未だ精一の旨を得ずと為すは、則ち一なるのみ。「多く聞きて其の善なる者を択びて之に従い、多く見て之を識す」。既に択ぶと云い、又た識すと云えば、其の良知も亦た未だ嘗て其の間に行われずんばあらず。但だ其の意を用うるは乃ち専ら多く聞き、多く見る上に去きて択び識するに在らば、則ち已に頭脳を失却せり。
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『洗心洞箚記』卷上・第四十一條強ひて善を為す者は猶ほ之れ有り。自然に善を為す者は絶えて無し。而して自然に善を為す者に非ざれば、真交を締び難し。事変を経て後に吾が言の誣ならざるを知らん。陽明先生の致良知は、知りて行はざる者の為に之を発するなり。是れ朱門末学の弊を救ふのみ。而るに行はずして徒に良知を語れば、則ち但に其の学者之を責むるのみに非ず、塗の人と雖も誹笑すること宜なり。
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