洗心洞箚記 / 卷下・第百三十七條
我故每言大學之愼獨者、卽周官之崑崙岷山也、周官者、乃大學愼獨之江河也、無崑崙岷山、則焉有江河有用之水哉、無江河、則崑崙岷山鬱塞泉源、終爲無用之汚也、是故愼獨、以明明德、以親民、則周官之良法善政、皆明明德中之事、而無別有周官之法度者也、若別有之云、則雖周官之良法善政、亦是霸者之僞而已、陽明先生不取三代以後之治、蓋以與周官以愼獨爲本相反故也歟、
新字:我故毎言大学之慎独者、即周官之崑崙岷山也、周官者、乃大学慎独之江河也、無崑崙岷山、則焉有江河有用之水哉、無江河、則崑崙岷山鬱塞泉源、終為無用之汚也、是故慎独、以明明徳、以親民、則周官之良法善政、皆明明徳中之事、而無別有周官之法度者也、若別有之云、則雖周官之良法善政、亦是覇者之偽而已、陽明先生不取三代以後之治、蓋以与周官以慎独為本相反故也歟、
書き下し
我故に毎に言ふ、大学の慎独なる者は、即ち周官の崑崙岷山なり。周官なる者は、乃ち大学慎独の江河なり。崑崙岷山無くんば、則ち焉んぞ江河有用の水有らんや。江河無くんば、則ち崑崙岷山泉源を鬱塞して、終に無用の汚と為らん。是の故に慎独して、以て明徳を明らかにし、以て民に親しめば、則ち周官の良法善政は、皆明明徳中の事にして、別に周官の法度有る無き者なり。若し別に之有りと云はば、則ち周官の良法善政と雖も、亦是れ霸者の偽のみ。陽明先生の三代以後の治を取らざるは、蓋し周官の慎独を以て本と為すと相反するが故を以てか。
現代語訳
だから私はいつも言う。『大学』の慎独は『周官』の崑崙山・岷山(大河の水源)であり、『周官』は『大学』の慎独から流れ出る長江・黄河である。崑崙・岷山がなければ、どうして長江・黄河の役に立つ水があろうか。長江・黄河がなければ、崑崙・岷山は泉の源をふさいで、ついには役に立たない汚れた水たまりになる。だから慎独によって明徳を明らかにし、民に親しめば、『周官』の良法善政はみな明明徳の中の事であって、別に『周官』の法度があるわけではない。もし別にあると言うなら、たとえ『周官』の良法善政でも、覇者の偽りにすぎない。陽明先生が三代以後の治世を取らなかったのは、おそらくそれが『周官』の慎独を根本とするあり方と相反するからであろうか。
解説
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十七條而して先生毎に文中子を称して以て賢儒と為す。其の意将た何くに在るや。其の続経に在らずして、其の周官を尊ぶに在り。文中子周官を称して以て王道の極めて是なりと為し、夢寐にも之を行はんと欲す。又其の言に曰く、吾千載よりして上を視るに、聖人の上に在る者、未だ周公に若く有らず。其の道は則ち一にして、経制大いに備はる。後の政を為す者持循する有り、と。文中子の云ふ所の其の道は則ち一とは、先生の云ふ所の本を明らかにせずの本にして、即ち亦慎独の独なり。経制慎独より出づれば、便ち是れ王道にして、文中子の願ふ所なり、先生も亦願ふ所なり。故に吾謂ふ、先生の文中子を指して以て賢儒とするは、必ず其の周官を尊ぶに在り、と。
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十七條陽明先生曰く、唐虞以上の治は、後世復すべからず、之を略して可なり。三代以下の治は、後世法るべからず、之を削りて可なり。惟だ三代の治のみ行ふべし。然り而して世の三代を論ずる者、其の本を明らかにせずして、徒らに其の末を事とせば、則ち亦復すべからず、と。謹んで按ずるに、先生明体適用の大学問、此に於いて又知るべし。何となれば、先生三代の上下の治を略して、三代の治を取る、則ち其の志周官に在ること、断じて識るべし。其の三代の治と曰ひて、周官と曰はざるに、然らば予何を以て其の志周官に在るを識るや。周公は三王を兼ねんことを思ひ、夜以て日に継ぎ、幸ひにして之を得たりと云ふ。則ち三代の礼楽刑政、統括して皆周官に在り。故に其の周官を指すこと、益々信ずべし。其の其の本を明らかにせずして、徒らに其の末を事とせば、則ち亦復すべからずと曰ふ、則ち誠意慎独、豈に其の本と為さざらんや。故に誠意慎独を外にして以て之を行ふは、蘇綽の如きも、未だ其の民をして驩虞如たらしむる能はず、何ぞ況や皞皞如たるに於いてをや。而して王荊公の如きは、則ち特に富国の利心を以て、仮りて以て之を行ふ。則ち其の民を網し下を浚ふの苛刻に陥ること、宜なり。要するに皆其の本を明らかにせずして、徒らに其の末を事とするの咎なるのみ。而して荊公の如き、周官の罪人を免れんと欲するも、得んや。
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『徂徠先生答問書』卷中一経済の儀何角と御穿鑿被仰聞候。但法と人との差別御勘弁被成候哉無心元存候。成程被仰下候ごとく、法もよき法有之候。とくと不仕法も有之候。依之法の吟味もなくて不叶事に候得共、経済を談候人、多くは只仕形の善悪計を吟味仕候は、道を不存候過にて候。苟非其人道不虚行と申事有之候。法よりは人猶肝要にて御座候。たとひ法は悪敷候共、人能候へば相応の利益は有之物に候。法計の吟味仕候て人悪鋪候へば何の用にも立不申候。又人に随て法は違候物に候。法は先王の法ほど吟味つまり候事は無之候へども、王莽王安石が周礼は毒を天下に流し申候。経済の法計を御穿鑿被成候て、人の僉議無之候は、白人医者の名方を集め候類にて候。
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『慎思録』巻之五天地の間、人を殺すこと最も多き者、四件有り。刑・兵・歳・病なり。刑罰を省き曲直を明らかにすれば、則ち寃死無し。乱源を禁遏すれば、則ち兵死無し。歳の凶なるに方りて、窮民を周恤すれば、則ち餓死無し。医を択びて病を済へば、則ち枉死無し。政に従ふ者、知らざるべからず。
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『学問のすゝめ』初編・愚民の上に苛き政府ありかかる愚民を支配するには、とても道理をもって諭すべき方便なければ、ただ威をもって畏すのみ。西洋の諺に「愚民の上に苛き政府あり」とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。ゆえに今わが日本国においても、この人民ありてこの政治あるなり。仮りに人民の徳義今日よりも衰えて、なお無学文盲に沈むことあらば、政府の法も今一段厳重になるべく、もしまた、人民みな学問に志して、物事の理を知り、文明の風に赴くことあらば、政府の法もなおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。法の苛きと寛やかなるとは、ただ人民の徳不徳によりておのずから加減あるのみ。人誰か苛政を好みて良政を悪む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、これすなわち人たる者の常の情なり。
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