洗心洞箚記 / 卷下・第二十七條
冉子之說道者良知也、力不足者氣習累心也、故不能致其良知也、然畫而不進、則心不安也、其所以不安者良知也、夫子以畫一言喚醒冉子、亦只指點其良知耳、
新字:冉子之説道者良知也、力不足者気習累心也、故不能致其良知也、然画而不進、則心不安也、其所以不安者良知也、夫子以画一言喚醒冉子、亦只指点其良知耳、
書き下し
冉子の道を説ぶ者は良知なり。力足らざる者は気習の心を累はすなり。故に其の良知を致す能はざるなり。然れども画して進まざれば、則ち心安からざるなり。其の安からざる所以の者は良知なり。夫子、画の一言を以て冉子を喚醒するも、亦只其の良知を指点するのみ。
現代語訳
冉子(冉求)が「先生の道を喜ばないわけではありません」と言ったその喜ぶ心は良知である。「力が足りません」というのは、気質と習慣が心をわずらわせているのである(『論語』雍也篇)。だからその良知を致すことができない。しかし自分で見切りをつけて進まなければ、心は安らかでない。その安らかでない心こそが良知である。孔子が「今おまえは自分で限っている(画)」の一言で冉子の目を覚まさせたのも、ただその良知を指し示したのである。
解説
『論語』雍也篇で冉求が「道を喜ばないのではないが力が足りない」と言い、孔子が「今おまえは自分で限っている」と答えた問答を、良知の語で読み解いた条である。道を喜ぶ心が良知であり、力不足は気質や習慣が心をわずらわせているにすぎず、見切りをつけて進まないと落ち着かない、その不安こそ良知だという。気質の変化を説く中斎らしい読みである。自分には無理だと線を引いたときの居心地の悪さを、やめる理由ではなく進むべき合図と受け取れという励ましになる。
この章句が説くこと
良知致良知気質習慣自画冉求
関連する章句
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論語・雍也篇冉求曰く、「子の道を説ばざるに非ず、力足らざるなり。」子曰く、「力足らざる者は、中道にして廃す。今女は画れり。」
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