洗心洞箚記 / 卷下・第四條
薛敬軒先生曰、太極乃未分之五性、五性乃已分之太極、天下之萬善、皆自此出、是眞見道之言、故簡易直截、而此字專指太極可也、何者、五性萬善、要皆從一活潑潑出來、柳子厚晉文公問守原議、桐葉封弟辯等之文、解得道理綿密、宋儒之論議、大抵發揮之來、其人雖劣於韓、其文與之抗衡、良有以哉、
新字:薛敬軒先生曰、太極乃未分之五性、五性乃已分之太極、天下之万善、皆自此出、是真見道之言、故簡易直截、而此字専指太極可也、何者、五性万善、要皆従一活溌溌出来、柳子厚晋文公問守原議、桐葉封弟弁等之文、解得道理綿密、宋儒之論議、大抵発揮之来、其人雖劣於韓、其文与之抗衡、良有以哉、
書き下し
薛敬軒先生曰く、太極は乃ち未だ分かれざるの五性、五性は乃ち已に分かるるの太極、天下の万善、皆此より出づと。是れ真に道を見るの言にして、故に簡易直截なり。而して此の字は専ら太極を指して可なり。何となれば、五性万善は、要するに皆一の活潑潑より出で来たればなり。柳子厚の晋文公問守原議・桐葉封弟辯等の文は、道理を解き得て綿密なり。宋儒の論議、大抵之を発揮し来たる。其の人は韓に劣ると雖も、其の文は之と抗衡す。良に以有るかな。
現代語訳
薛敬軒先生(薛瑄、明の朱子学者)は「太極とはまだ分かれていない五性(仁義礼智信)であり、五性とはすでに分かれた太極である。天下のあらゆる善はみなここから出る」と言った。これはまことに道を見た言葉であり、だから簡明でまっすぐである。そして「此」の字はもっぱら太極を指すと見てよい。なぜなら、五性も万善も、つまるところみな一つの生き生きとしたはたらきから出てくるからである。柳子厚(柳宗元)の「晋文公問守原議」「桐葉封弟辯」などの文は、道理を綿密に解き明かしている。宋儒の議論は、たいていこれを敷衍して出てきたものである。その人物は韓愈に劣るとはいえ、その文章は韓愈と肩を並べる。まことにもっともなことである。
解説
この章句が説くこと
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『洗心洞箚記』卷下・第五十一條荀子性悪の説、之を情に当つれば、則ち不易の論なり。而して之を性に当つれば、則ち脗合せざるなり。此れ他無し、他只陰陽を看て、未だ太極を見ざるが故なり。陰陽上より做す者は、天下皆是なり。而して太極上より做す者は、惟だ是れ聖賢のみ。而して常人と雖も方寸の虚を看破すれば、則ち彼を出でて此に入る、蓋し亦難からざるか。
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『洗心洞箚記』卷下・第百二十三條朱子曰く、太極は只だ是れ一箇の理の字なり、と。謹んで按ずるに、朱子理の字を以て太極を訓ずるは、吾人の甚だ解し易きところ、是れ陽明先生の所謂文義の解し得て明当なる処、如何ぞ一字をも動かし得ん、といふ者なり。夫れ理は形而上にして声臭無き者にして、所謂太虚なり。太虚は空に非ず、是れ乃ち元亨利貞春秋冬夏を合はせて一にする所以の者、即ち是れ太極なり。末学若し只だ理は実なりの説を読みて、誤りて理を以て実形有る者と為せば則ち大いに惑へるなり。但だ己を誤るのみに非ず、大いに人を誤る、知らざるべからざるなり。
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『洗心洞箚記』卷下・第百二十六條朱子曰く、斯道の本体を語れば、則ち之を太極と謂ひ、太極の流行を語れば、則ち之を道と謂ふ。二名有りと雖も、初めより両体無し。那箇の満山の青黄碧緑、是れ這の太極に非ざる無し、と。是れ何等の快治の談ぞや。人若し那箇の満山の青黄碧緑を太極と為すの旨を知れば、則ち門を出でて放観するも亦た道なり。何ぞ但だ戸を閉ぢて蠹魚の間に周旋して、道を学ぶと云はんや。
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『洗心洞箚記』後自述予の不肖、奚ぞ実に之を得るに足らん。然れども向に仕路に在りしとき、聴訟断獄の間に於て、一二虚景を発明し来る。故に曽て蔵刻する所の洗心洞箚記は、太虚の妙と、太虚に帰する所以の工とを解くこと、煩数に堪へず。而して反つて論じて五倫に及ぶこと亦罕なるは何ぞや。此れ則ち以て篤く四教及び詩書諸儒の説を信ずるに備ふるが故なり。然れども五倫も太虚に非ずんば、則ち皆偽りのみ。太虚ならば、則ち五倫各々其の正を得て、道徳其の中を貫く。嘗て窃かに諸を董子諸葛公等の群賢に質すに、其の説小異有るが如しと雖も、其の天を尊ぶに於ては皆一なり。故に其の要語を取りて以て巻末に載せ、乃ち臆断の説に非ざるを明らかにす。
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『洗心洞箚記』卷下・第八十九條周子曰く、孟子曰く、心を養ふは寡欲より善きは莫し。其の人と為りや寡欲なれば、存せざる者有りと雖も寡し。其の人と為りや多欲なれば、存する者有りと雖も寡しと。予謂へらく、心を養ふは寡くして存するに止まらざるのみ。蓋し寡くして以て無に至る。無なれば則ち誠立ち明通ず。誠立つは賢なり、明通ずるは聖なり。是れ聖賢は性生に非ず、必ず心を養ひて之に至る。心を養ふの善、大なること此の如き有り、其の人に存するのみと。三たび周子の此の語を復せば、則ち太極図説の、之を定むるに中正仁義を以てして静を主とし人極を立つるの義、此に加ふる莫し。何となれば、心を養ひて以て無に至る、即ち無欲なり。無欲は即ち静なり。誠立ち明通ずれば、則ち仁義皆是れ其の事実のみ。是の故に誠明の外に、別に中正仁義有るに非ざるなり。而して聖賢と為れば、則ち其の心既に太虚に帰す。太虚は即ち無極の謂なり。無極は即ち亦人極なり。是の故に聖賢の外に、別に人極有るに非ざるなり。是に由りて之を観れば、則ち太極図説、統括して皆此の語の中に在り。
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『洗心洞箚記』卷下・第九十一條謹んで之を考ふるに、周子は天成と雖も、而して其の学は易と学庸とを合して、以て誠に至る。故に此の誠の字終に其の本領たり。而して此れ独り周子のみ然りと為すに非ず、古聖人皆亦然り。故に曰く、誠は聖人の本と。又曰く、聖は誠のみと。而して此れ独り古聖人のみ然りと為すに非ず、天も亦然り。故に曰く、乾元万物資りて始む、誠の源なりと。嗚呼、天や、古聖人や、周子や、誠を以て体と為す。故に万物皆太虚の誠より出づるなり。五常百行、皆聖賢太虚の誠より出づるなり。
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