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洗心洞箚記 / 卷上・第百八十條

然學者要眞修之工夫、則不可無龍溪之精微、心齋之超脫、與近溪之無我也、龍溪四無之說、雖見讎於中人以下、而上根宿學、何嘗不同心矣哉、心齋雖世以禪貶之、事親孝、尊師篤、薄爵祿、明性理、陽明子初見之時、退謂門人曰、吾擒宸濠無少動、今却爲斯人動、此眞學聖人者也、而雖史言心齋讀書止孝經論語大學、然而爲儒者冠冕、則僻陋學究、豈可輕議哉、何亦不見其王道論乎、其明周公之法制卽可見矣、然則可概曰禪哉、

新字:然学者要真修之工夫、則不可無竜渓之精微、心斎之超脱、与近渓之無我也、竜渓四無之説、雖見讎於中人以下、而上根宿学、何嘗不同心矣哉、心斎雖世以禅貶之、事親孝、尊師篤、薄爵禄、明性理、陽明子初見之時、退謂門人曰、吾擒宸濠無少動、今却為斯人動、此真学聖人者也、而雖史言心斎読書止孝経論語大学、然而為儒者冠冕、則僻陋学究、豈可軽議哉、何亦不見其王道論乎、其明周公之法制即可見矣、然則可概曰禅哉、

書き下し

然れども学者、真修の工夫を要せば、則ち龍渓の精微、心斎の超脱と、近渓の無我と無かるべからざるなり。龍渓の四無の説、中人以下に讎まると雖も、上根宿学、何ぞ嘗て心を同じくせざらんや。心斎は世、禅を以て之を貶すと雖も、親に事へて孝、師を尊ぶこと篤く、爵禄を薄んじ、性理に明らかなり。陽明子初めて之を見し時、退きて門人に謂ひて曰く、吾宸濠を擒にして少しも動くこと無し、今却って斯の人の為に動く、此れ真に聖人を学ぶ者なりと。而して史に心斎の読書は孝経・論語・大学に止まると言ふと雖も、然り而して儒者の冠冕為り。則ち僻陋の学究、豈に軽々しく議すべけんや。何ぞ亦其の王道論を見ざるや。其の周公の法制に明らかなること即ち見るべし。然らば則ち概して禅と曰ふべけんや。

現代語訳

とはいえ学ぶ者が真の修養の工夫を求めるなら、龍渓の精微、心斎の超脱、近渓の無我がなくてはならない。龍渓の「四無」の説(心・意・知・物みな善悪なしとする説)は、中くらい以下の人には敵視されるが、すぐれた素質と長年の学問をもつ人で、どうして同じ心でないことがあろうか。心斎は世間から禅だと貶められているが、親に孝行し、師を篤く尊び、爵位や俸禄を軽んじ、性と理に明らかであった。陽明子は初めて彼に会ったとき、退いて門人に「私は宸濠を捕らえたときも少しも心が動かなかったが、今かえってこの人のために心が動いた。これこそ真に聖人を学ぶ者である」と言った。また史書には心斎の読書は『孝経』『論語』『大学』だけだったとあるが、それでも儒者の第一人者であった。偏狭な学者風情が、どうして軽々しく論じられようか。なぜその「王道論」を見ないのか。周公の法制に明るかったことがすぐわかる。それなのに一概に禅だと言えようか。

解説

王畿・王艮・羅汝芳の三人を、末流の弊を認めたうえで、真の修養に欠かせない人として擁護する段である。特に王艮については、孝行・師への敬・爵禄への淡泊を挙げ、陽明が寧王を捕らえても動かなかった心がこの人には動いたと言った逸話や、周公の制度を論じた「王道論」を示して、禅だという世評を退ける。読書の量で学者を測らず、人柄と実践で測るという判断は、学歴や資格より仕事ぶりで人を見るべきだという、今日の人材評価の議論にもつながる。

この章句が説くこと

陽明学修己無我孝学問王艮

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