洗心洞箚記 / 卷上・第百七十七條
陶菴又曰、大抵任天下事、識以主之、膽以輔之、強力以濟之、缺一不可也、我朝方正學、是何等骨力、何等學術、眞聖人之徒也、惜應變之才、是其所少、使其處平世、遇中材以上之君、定有可觀、建文時如何濟事、因思程正叔朱元晦處建文時、不過如方正學耳、其謂惜方正學應變之才、是其所少、而又以爲朱子處建文時、不過如方正學耳、則其材能之素、又坐可推矣、陶菴在崇禎之末、殉國難、而雖是朱學之徒、其心殊恨無儒將如陽明先生者焉、故其辭氣之間、悲壯感慨、豈可言述也哉、
新字:陶菴又曰、大抵任天下事、識以主之、胆以輔之、強力以済之、欠一不可也、我朝方正学、是何等骨力、何等学術、真聖人之徒也、惜応変之才、是其所少、使其処平世、遇中材以上之君、定有可観、建文時如何済事、因思程正叔朱元晦処建文時、不過如方正学耳、其謂惜方正学応変之才、是其所少、而又以為朱子処建文時、不過如方正学耳、則其材能之素、又坐可推矣、陶菴在崇禎之末、殉国難、而雖是朱学之徒、其心殊恨無儒将如陽明先生者焉、故其辞気之間、悲壮感慨、豈可言述也哉、
書き下し
陶菴又曰く、「大抵天下の事に任ずるは、識以て之を主とし、胆以て之を輔け、強力以て之を済す、一を欠くも不可なり。我が朝の方正学は、是れ何等の骨力、何等の学術ぞ、真に聖人の徒なり。惜しむらくは応変の才、是れ其の少く所なり。其をして平世に処り、中材以上の君に遇はしめば、定めて観るべき有らん。建文の時如何ぞ事を済さん。因りて思ふ、程正叔・朱元晦をして建文の時に処らしむるも、方正学の如きに過ぎざるのみ」と。其の方正学の応変の才、是れ其の少く所なるを惜しむと謂ひて、又以て朱子建文の時に処るも、方正学の如きに過ぎざるのみと為せば、則ち其の材能の素、又坐ながら推すべし。陶菴は崇禎の末に在りて、国難に殉ず。而して是れ朱学の徒なりと雖も、其の心殊に陽明先生の如き儒将無きを恨む。故に其の辞気の間、悲壮感慨、豈に言述すべけんや。
現代語訳
陶菴はまた言う。「おおよそ天下の事を任されるには、見識でこれを主導し、胆力でこれを助け、強い力でこれを成し遂げる。一つでも欠けてはならない。わが明朝の方正学(方孝孺)は、なんという気骨、なんという学術であろう。まことに聖人の徒である。惜しいことに、変事に応じる才が欠けていた。もし平和な世にいて、中程度以上の才の君主に出会っていたら、きっと見るべき業績があったろう。(しかし)建文帝の時代にどうして事を成し遂げられたろうか。そこで思うのだが、程正叔(程頤)や朱元晦(朱熹)を建文の時代に置いても、方正学のようになるにすぎなかったろう。」方正学には変事に応じる才が欠けていたのを惜しむと言い、さらに朱子が建文の時代にいても方正学のようになるにすぎないと言うのだから、朱子の才能のもとも、また居ながらにして推しはかることができる。陶菴は崇禎の末に国難に殉じた。朱子学の徒ではあったが、その心ではとりわけ陽明先生のような儒者の将がいないことを恨んでいた。だからその言葉づかいには悲壮な感慨があり、とても言い尽くせるものではない。
解説
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『洗心洞箚記』卷上・第百七十七條或ひと問ふ、朱子は其の学徳才能、聖人と既に相近きか、と。吾不肖、何ぞ敢へて之を知るに足らん。然れども昔賢の朱子を私淑する人の説を以て之を判ぜん。黄陶菴曰く、「朱子の四書集註の中、未だ嘗て病無くんばあらず。之を要するに後学軽々しく議すべからず。今人李杜韓欧の諸集を読むに、其の中の詩文の佳き者、固より挙ぐるに勝へず。然り而して字句の瑕と、文義の理を累はす者とも、亦未だ嘗て之無くんばあらず。終に此を以て其の大美を掩はず。況や朱子は千聖の為に微を発し、盲者をして視るを得しめ、聾者をして聴くを得しむ、其の功固より孟子の下に在らず。縦ひ偏滞不融の処有るとも、功過独り相準ずべからざらんや」と。其の経を釈するの功、孟子の下に在らずと曰へば、則ち其の学徳の高き、坐ながら知るべし。
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『洗心洞箚記』卷下・第百三十七條而して先生の象祠記に曰く、諸侯の卿は、天子に命ぜらる。蓋し周官の制、其れ殆ど舜の象を封ずるに倣ふか、と。是を以て之を観れば、則ち一部の周官先生の胸中に融化して、其の保甲の制は、大抵司徒の比閭族党を損益す。練士行軍、苗夷を征勦し、宸濠を平治するが如きは、則ち人皆以て孫呉の余智に出づと為して、其の夏官大司馬の法を握りて、参伍錯綜して以て之を変化し、而して慎独より出づるを知らざるなり。嗟乎、真に良知を致すの大学問は、偏滞拘迂なる者の能く窺ふ所に非ざるなり。
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『洗心洞箚記』卷上・第百八十條文成の学、之を当時に伝ふる者は、鄒文荘の若き、欧陽文荘の若き、羅文恭の若き、皆粋然として疵無き者なり。沿ひて鹿忠節・蔡忠襄・孟雲浦・黄石斎に及び、謹んで宗旨を守り、而して蕺山劉先生、闡揚洗滌し、尤も厥の成を集む。実に有明一代の道統を扶翼し、名教を主持するの帰為り。而して近ごろの文成を宗述する者、孫蘇門・李二曲・黄黎洲の諸先生の若きは、率ね皆修持邃密にして、経済通明なり。侍御、尽く挙げて之を貶抑せんと欲するも、亦能はざるなり。且つ侍御の宗とする所の者は、陳清瀾の学蔀通辯と、近今の□□□・応潜斎・張武承の言の如きに過ぎざるのみ。彼の生平の行誼を以て、前哲に視べて何如と為すや。余の深く侍御の為に惜しむ者は此れなり。三魚堂集出でてより、奉じて枕秘と為す者、益々復た簧鼓を恣にし、戈矛を逞しくし、文成を排撃するに非ざれば功と為さざる者の若し。然れども文成の緒言は幾ど絶え、而して朱子の学も、卒に未だ明らかなること有らざるなり。是れ豈に侍御の初志ならんや。嗚呼、良知喪びて、害の世道人心に中る者深し。即ひ強ひて之を縄すに居敬窮理を以てするも、其の色荘口講と為らざる者は鮮し。
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『洗心洞箚記』卷上・第百十三條程朱没してより陽明先生に至るまで、其の間の学者は詞章文句の中に沈溺して、未だ嘗て能く頭を出さず、誠に憫むべし。先生起るに及びて、学者始めて天日を見るを得たり。故に顧端文公曰く、程朱没して記誦辞章の習熾んなり、天下をして自心自性の当に反りて求むべき有るを知らしむる所以の者は王文成なり、と。誠なるかな此の言や。
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『洗心洞箚記』卷上・第百八十條黄石斎・劉念台の二賢は共に良知の学に私淑す。石斎は知止を以て学の的と為し、念台は慎独を以て聖功と為す。各々天下の乱に当たり、人臣の節を守り、奸臣の間に周旋し、善類の危ふきを扶持す。各々斥けられて民と為ると雖も、起復して社稷と存亡を同じくす。石斎は執へらると雖も、奴児に降るを肯ぜず、幽室囚服の中に於いて、従ふ所の門人趙士超等四人と、講習吟詠すること常の如くして、遂に共に殺さる。念台は南都の亡ぶに及び、人の勧めを拒み、世に逃生の宰相無きを以て、亦豈に逃死の御史大夫有らんやとし、絶食すること二十三日、門人と問答すること平時の如くして、遂に以て卒す。而して其の門人三十又五人、其の間、忠臣と為り、義士と為り、逸民と為り、皆学ぶ所に負かずして、能く門下に光ある者なり。而して孫蘇門・李二曲・黄黎洲の三子は、皆節を丘園に全うし、奴児の官職を受けず。嗚呼、此れ皆良知の余沢に非ずや。
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『洗心洞箚記』卷上・第百七十九條平生至安の時に当たりては、危難の念無かるべからず。而して倉卒危難の時に当たりては、至安の楽しみ無かるべからざるなり。彭南畇先生曰く、当湖の陸侍御は清徳の名儒を以て、書を著し学を講じ、天下之を宗とす。余、三魚堂文集を読むに、其の講ずる所、専ら王文成公を排撃するを以て事と為すを見る。意は朱を尊ぶに在るなり。朱を尊ぶは是なり。文成を排撃するは則ち甚だし。既に其の学術を闢け、復た其の功業を議し、且つ坐するに風俗を敗壊し、明季の喪乱を致すを以てす。吁、又甚だし。余覚えず心を恫め目を駭かし、既に深く文成の為に痛み、而して転じて侍御の為に惜しむ。文成の入手の工夫は、朱子と毫釐の別有り。故に其の格物を訓ずるや、実に朱子と牴牾す。其の帰する所に至りては、同じく孔曾思孟の微言を伝へ、同じく濂洛の淵源を究む。文成、良知の宗旨を掲げ出だし、警切著明にして、朱子の居敬窮理の学に於いて、未だ嘗て互ひに唱提すべからずんばあらざるなり。
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