洗心洞箚記 / 卷上・第百六十七條
陳眉公曰、以太虛爲體、以利濟爲用、斯人也天乎、誠哉是言也、故利濟不出乎太虛、則管商之政也、太虛而無利濟、則佛老之道也、如偏於一、則非大學明德親民之學矣、故吾人宜著眼於明體適用之全美也已矣、
新字:陳眉公曰、以太虚為体、以利済為用、斯人也天乎、誠哉是言也、故利済不出乎太虚、則管商之政也、太虚而無利済、則仏老之道也、如偏於一、則非大学明徳親民之学矣、故吾人宜著眼於明体適用之全美也已矣、
書き下し
陳眉公曰く、「太虚を以て体と為し、利済を以て用と為す、斯の人や天なるか」と。誠なるかな是の言や。故に利済太虚より出でずんば、則ち管商の政なり。太虚にして利済無くんば、則ち仏老の道なり。如し一に偏せば、則ち大学明徳親民の学に非ず。故に吾人宜しく眼を明体適用の全美に著くべきのみ。
現代語訳
陳眉公(明の陳継儒)は言う。「太虚を本体とし、人を利し救うことを働きとする。そういう人こそ天であろうか。」まことにこの言葉のとおりである。だから人を利し救うことが太虚から出ていなければ、管仲・商鞅の(功利の)政治である。太虚であっても人を利し救うことがなければ、仏教・老荘の道である。もしどちらか一方に偏れば、『大学』の明徳を明らかにし民に親しむ学ではない。だから我々は、本体を明らかにし働きに適うことの全き美しさに目をつけるべきである。
解説
本条は、陳継儒の「太虚を体とし利済を用とす」の言を受けて、体と用の両全を説く。太虚から出ない利済は管仲・商鞅の功利の政治であり、利済を欠いた太虚は仏老の道である。どちらに偏っても『大学』の明徳と親民の学にはならないという。心の修養と世を救う働きを一体とする姿勢は、太虚を説きつつ民の救済に強い関心を抱いた中斎の思想をよく示す。明体適用は宋代以来儒者が用いてきた語でもある。内面の修養だけでも、成果だけを追う経営でも足りないという指摘は、理念と事業の両立を考える人に響く。
この章句が説くこと
太虚利済体用明徳親民陳継儒
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