洗心洞箚記 / 卷上・第八十五條
或問立志之義、曰、先知志字而可矣、曰、心之所之謂之志、是歟、曰、否、此非立志之志之義也、夫志字从士从心、由是觀之、則立士之心焉耳、士之心、則孟子所謂無恆產而有恆心者、惟士爲能、其恆心者、何也、不以貧賤禍害易爲善之心也、故學者先立其心、以從事於聖學、則如下種子望成實也、因用不息之功、乃爲賢爲聖、其亦由是臻焉乎、
新字:或問立志之義、曰、先知志字而可矣、曰、心之所之謂之志、是歟、曰、否、此非立志之志之義也、夫志字从士从心、由是観之、則立士之心焉耳、士之心、則孟子所謂無恒産而有恒心者、惟士為能、其恒心者、何也、不以貧賤禍害易為善之心也、故学者先立其心、以従事於聖学、則如下種子望成実也、因用不息之功、乃為賢為聖、其亦由是臻焉乎、
書き下し
或ひと立志の義を問ふ。曰く、先づ志の字を知りて可なり。曰く、心の之く所之を志と謂ふ、是か。曰く、否、此れ立志の志の義に非ざるなり。夫れ志の字は士に从ひ心に从ふ。是に由りて之を観れば、則ち士の心を立つるのみ。士の心は、則ち孟子の所謂恒産無くして恒心有る者は、惟だ士のみ能くすと為す。其の恒心とは、何ぞや。貧賤禍害を以て善を為すの心を易へざるなり。故に学者先づ其の心を立てて、以て聖学に従事すれば、則ち種子を下して実を成すを望むが如し。因りて息まざるの功を用ふれば、乃ち賢と為り聖と為る、其れ亦是に由りて臻らんか。
現代語訳
ある人が立志の意味を問うた。私は言った。「まず志という字を知ればよい。」「心の行くところを志という、というのがそれか。」「いや、それは立志の志の意味ではない。志の字は士と心から成る。これから見れば、士の心を立てることにほかならない。士の心とは、孟子のいわゆる『一定の財産がなくても一定の心を持つのは、ただ士だけができる』というものである。その恒心とは何か。貧しさや卑しさ、禍や害によって善をなそうとする心を変えないことである。だから学ぶ者がまずその心を立てて聖人の学に従事すれば、種を蒔いて実りを待つようなものだ。そこで休まぬ努力を用いれば、賢者となり聖人となるのも、これによって至るのではなかろうか。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『大和俗訓』巻之一・為学上一学問はまづ志を立つるを以て本とす。志とは心のゆく所なり。道を知り行ひて、君子に至らんと思ふ心常におこたりなく、念々やまざるを、志を立つると云ふ。志たたざれば学ぶこと成就せず。故に古人も、志ある者は其事つひになるといひ、又志たつは学の半なりといへり。たとへば弓いる者の、的に志し、道ゆく者の、宿に志すが如し。よろづの事、まづ本をつとむべし。志を立つるは学問の本なり。志を立つるには勇猛なるべし。柔弱にして怠るべからず。おこたれば験なくしてはかゆかず。道を求むるにせちなる志は、たとへば飢ゑて食を求め、渇きて湯水を求むるが如くなるべしわづかに悠々としておこたれば、志すたる。唯此道に心を一すぢにすべし。
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『童子問』卷下問ふ、今時の学者、何ぞ聖学に志す者の少なくして、雑学を好む者の多きや、と。曰く、豪傑なる者は少なくして、庸材なる者は多し。古今皆然り。予養鷹者の説を聞く。鷹の捷き者は、必ず先づ鶴の最も大なる者を撃つ。其の捷からざる者は、必ず鶴の小なる者を見て之を撃つ。鷹の最も神俊なる者を、海東青と号す。建酋に産し、海内には得べからず、と。韓欧の古文を好む者既に少なく、伊洛の学に志す者益々少なし。況んや孔孟の正学に志す者は、千万人中の一人のみ。其の韓欧の古文を好む者は、鶴の稍小なる者を撃つの類なり。伊洛の学に志す者は、鷹の捷き者なり。孔孟の正学に志す者は、建酋の海東青なり。其の雑学・詞章・記誦の類を好む者は、亦小隼の麻雀鶉鷃を撃つの類のみ。貴ぶに足らず。子其れ自ら励む所を知らざるべけんや。
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孟子・盡心章句上孟子曰く、「孔子東山に登りて魯を小とし、泰山に登りて天下を小とす。故に海を観る者には水と為し難く、聖人の門に游ぶ者には言と為し難し。水を観るに術有り、必ず其の瀾を観る。日月明有り、光を容るるところ必ず照らす。流水の物為るや、科に盈たざれば行かず。君子の道に志すや、章を成さざれば達せず。」
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うひ山ぶみ・注[ロ]かのしなじなある学びのすぢすぢ外の国の事に用ひんよりは、わがみづからの国の事に用ひまほしく思ふ也、その勝劣のさだなどは、姑くさしおきて、まづよその事にのみかゝづらひて、わが内の国の事をしらざらんは、くちをしきわざならざらんや、志を高く大きにたてて云々、すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立テて、その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よわくては、学問すゝみがたく、倦怠るもの也、主としてよるべきすぢは云々、道を学ぶを主とすべき子細は、今さらいふにも及ばぬことなれども、いさゝかいはば、まづ人として、人の道はいかなるものぞといふことを、しらで有べきにあらず、学問の志なきものは、論のかぎりにはあらず、かりそめにもその心ざしあらむ者は、同じくは道のために、力を用ふべきこと也、然るに道の事をば、なほざりにさしおきて、たゞ末の事にのみ、かゝづらひをらむは、学問の本意にあらず、さて道を学ぶにつきては、天地の間にわたりて、殊にすぐれたる、まことの道の伝はれる、御国に生れ来つるは、
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『大和俗訓』巻之二・為学下一博学にして経書に通じ、義理を説く人も、其心術行迹あしくして、俗人におとれるもあり。是道に志なくして、道を我が心に得ざればなり。口に読みならひ、目に見おぼえても、其理を心に得ざれば益なし。たとへば美食芳樽前に多くつらなれども、これを飲みくらはざれば、食にもあく事なく、酒にゑふ事もなきが如し。書を読んで行あしき人あるをうたがふ人あり。これを以て疑をはらすべし。書をよみても道に志なくば、文字を知れるのみにて、心において益なし。是無用の学なり。ここを以て、学をするにはまづ志を本とすべし。
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『講孟余話』梁惠王下 首章今や文教興隆し、正学世に明らかなり。士は孔孟の言に非ざれば口に称せず、五尺の童子も管晏を言ふことを恥づ。吾諸君と此の世に生まれ、正学に従事することを得、実に大幸と云ふべし。然れども志を立つること真ならざれば、名は正学なれども実は曲学にも劣るべし。事旧りたれども、子としては孝に死し、臣としては忠に死し、仰いでは皇国の大恩に報じ、俯しては一身の職分を尽くさんと、日夜に志を励まして学を勤めば、其の正学たるに負かずと云ふべし。孟子嘗て云く、五穀も熟せざれば荑稗に如かずと、思はざるべけんや。抑々志さへ真なれば曲学にても一概に非とすべからずとは雖も、世に志ありて曲学に陥る者あらば、吾固より手を把りて正学の途に進めんと欲するは固よりなり。是れを以て又孟子の楽を論ずる言外の旨を領すべし。
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