洗心洞箚記 / 卷上・第五十三條
孟子曰、我善養吾浩然之氣、其浩然也者、非太虛而何、而易書詩禮春秋亦及其至也則皆不外於太虛之德也、易曰、太極、書曰、無偏無陂、遵王之義、無有作好、遵王之道、無有作惡、遵王之路、無偏無黨、王道蕩蕩、無黨無偏、王道平平、無反無側、王道正直、會其有極、歸其有極、詩亦曰、上天之載、無聲無臭、禮曰、無聲之樂、無體之禮、春秋曰、春王元年、其太極也、有極也、無聲臭也、無聲體也、元也、此皆亦非太虛而何、此凡所舉經之明徵也、子猶疑之乎、嗚呼太虛之款、不可言述者也、然而了理氣合一、則太虛亦惟理氣焉耳、如離理氣而言太虛者、非四書五經聖人之道也、學者宜知之、
新字:孟子曰、我善養吾浩然之気、其浩然也者、非太虚而何、而易書詩礼春秋亦及其至也則皆不外於太虚之徳也、易曰、太極、書曰、無偏無陂、遵王之義、無有作好、遵王之道、無有作悪、遵王之路、無偏無党、王道蕩蕩、無党無偏、王道平平、無反無側、王道正直、会其有極、帰其有極、詩亦曰、上天之載、無声無臭、礼曰、無声之楽、無体之礼、春秋曰、春王元年、其太極也、有極也、無声臭也、無声体也、元也、此皆亦非太虚而何、此凡所舉経之明徴也、子猶疑之乎、嗚呼太虚之款、不可言述者也、然而了理気合一、則太虚亦惟理気焉耳、如離理気而言太虚者、非四書五経聖人之道也、学者宜知之、
書き下し
孟子曰く、我善く吾が浩然の気を養ふと。其の浩然なる者は、太虚に非ずして何ぞ。而して易書詩礼春秋も亦其の至るに及べば則ち皆太虚の徳に外ならざるなり。易に曰く、太極と。書に曰く、偏無く陂無く、王の義に遵へ。好を作す有る無く、王の道に遵へ。悪を作す有る無く、王の路に遵へ。偏無く党無く、王道蕩蕩たり。党無く偏無く、王道平平たり。反無く側無く、王道正直なり。其の有極に会し、其の有極に帰すと。詩も亦曰く、上天の載は、声無く臭無しと。礼に曰く、声無きの楽、体無きの礼と。春秋に曰く、春王の元年と。其の太極や、有極や、声臭無きや、声体無きや、元や、此れ皆亦太虚に非ずして何ぞ。此れ凡そ挙ぐる所の経の明徴なり。子猶ほ之を疑ふか。嗚呼、太虚の款は、言述すべからざる者なり。然り而して理気合一を了すれば、則ち太虚も亦惟だ理気のみ。如し理気を離れて太虚を言ふ者は、四書五経聖人の道に非ざるなり。学者宜しく之を知るべし。
現代語訳
孟子は『私はよく自分の浩然の気を養う』と言った。その浩然というのは、太虚でなくて何であろう。そして『易』『書』『詩』『礼』『春秋』も、その至りに及べば、みな太虚の徳の外に出ない。『易』には『太極』とある。『書』(洪範)には『偏りなく傾きなく、王の義に従え。私の好みをなすことなく、王の道に従え。私の憎しみをなすことなく、王の路に従え。偏りなく党派なく、王道は広々としている。党派なく偏りなく、王道は平らかである。背くことなく傾くことなく、王道は正しくまっすぐである。その極に集まり、その極に帰す』とある。『詩』にも『天の営みは、声もなく匂いもない』とある。『礼』には『声のない楽、形のない礼』とある。『春秋』には『春、王の元年』とある。その太極、有極、声も匂いもないこと、声も形もないこと、元、これらもまたみな太虚でなくて何であろう。これが、およそ挙げた経書のはっきりした証拠である。あなたはまだ疑うのか。ああ、太虚の要は言葉で述べ尽くせないものである。けれども理と気が一つであることを悟れば、太虚もまたただ理と気にほかならない。もし理と気を離れて太虚を言う者があれば、それは四書五経の聖人の道ではない。学ぶ者はこれを知らなければならない。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『洗心洞箚記』卷上・第五十三條或ひと曰く、経に於て明らかに虚を言ふこと、有りや。曰く、有り。大学に曰く、其の心休休焉として、其れ容るる有るが如し。人の技有るは、己之を有するが若し。人の彦聖なるは、其の心之を好みし、啻に其の口より出づるが若きのみならず、寔に能く之を容ると。此の両箇の容の字は、心の量なり。心の量は、太虚に非ずして何ぞ。中庸に曰く、大を語れば天下も能く載する莫しと。又曰く、上天の載は、声無く臭無し、至れりと。其の大や、至や、此れ太虚に非ずして何ぞ。孔子曰く、君子は器ならずと。又曰く、吾が道は一以て之を貫くと。子四を絶つ。意毋く、必毋く、固毋く、我毋し。子曰く、我知ること有らんや、知ること無きなり。鄙夫有りて我に問ふ、空空如たり。我其の両端を叩きて竭くすと。又曰く、回や其れ庶きか、屢々空しと。又曰く、天何をか言はんや。四時行はれ、百物生ず。天何をか言はんやと。其の不器や、一や、絶四や、空空や、屢空や、天何をか言はんや、此れ皆太虚に非ずして何ぞ。
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『洗心洞箚記』卷下・第四十三條太虚は空に非ず、即ち春夏秋冬の気、元亨利貞の理、徧く布き充満す。而して物に著るれば則ち愚夫婦の心眼と雖も、猶ほ之を視て之を識る。未だ物に著れざれば、則ち大人君子も敢へて眼に見ると道はずして、黙して知るのみ。黙して知るの理気は、則ち愚夫婦の心眼の及ぶ所に非ざるなり。然らば則ち空に非ずや。曰く、空に非ず。人欲を去り天理に復りて、然る後に始めて是の言の妄に非ざるを知るなり。
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『洗心洞箚記』卷下・第百二十三條朱子曰く、太極は只だ是れ一箇の理の字なり、と。謹んで按ずるに、朱子理の字を以て太極を訓ずるは、吾人の甚だ解し易きところ、是れ陽明先生の所謂文義の解し得て明当なる処、如何ぞ一字をも動かし得ん、といふ者なり。夫れ理は形而上にして声臭無き者にして、所謂太虚なり。太虚は空に非ず、是れ乃ち元亨利貞春秋冬夏を合はせて一にする所以の者、即ち是れ太極なり。末学若し只だ理は実なりの説を読みて、誤りて理を以て実形有る者と為せば則ち大いに惑へるなり。但だ己を誤るのみに非ず、大いに人を誤る、知らざるべからざるなり。
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『洗心洞箚記』卷下・第八十九條周子曰く、孟子曰く、心を養ふは寡欲より善きは莫し。其の人と為りや寡欲なれば、存せざる者有りと雖も寡し。其の人と為りや多欲なれば、存する者有りと雖も寡しと。予謂へらく、心を養ふは寡くして存するに止まらざるのみ。蓋し寡くして以て無に至る。無なれば則ち誠立ち明通ず。誠立つは賢なり、明通ずるは聖なり。是れ聖賢は性生に非ず、必ず心を養ひて之に至る。心を養ふの善、大なること此の如き有り、其の人に存するのみと。三たび周子の此の語を復せば、則ち太極図説の、之を定むるに中正仁義を以てして静を主とし人極を立つるの義、此に加ふる莫し。何となれば、心を養ひて以て無に至る、即ち無欲なり。無欲は即ち静なり。誠立ち明通ずれば、則ち仁義皆是れ其の事実のみ。是の故に誠明の外に、別に中正仁義有るに非ざるなり。而して聖賢と為れば、則ち其の心既に太虚に帰す。太虚は即ち無極の謂なり。無極は即ち亦人極なり。是の故に聖賢の外に、別に人極有るに非ざるなり。是に由りて之を観れば、則ち太極図説、統括して皆此の語の中に在り。
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『洗心洞箚記』卷上・第百十四條心太虚に帰すとは、他に非ず、人欲を去りて天理を存する、乃ち太虚なり。舜の告げずして娶る等の義は、経の載する所と雖も、初学及び欲有るの輩は、之を講ぜずして可なり。之を仮りて身を誤る者有らんことを恐る。然れども心太虚に帰すれば、則ち非常の事も皆亦道なるを知る、故に妨げず。
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『洗心洞箚記』卷下・第四十一條太虚は世界を容れ、世界は太虚に容れらる。而して物千変万化すれども、未だ嘗て太虚に障礙すること能はず。則ち聖人の心量の累無きこと、是に於いてか見るべし。方寸の虚は、口耳の虚と本通一にして、口耳の虚は、即ち亦太虚と通一にして際無し。四海を包括し、宇宙を含容し、捉捕すべからざる者なり。大を語れば天下も能く載する莫しの義、甚だ分暁なり。覚えず手舞ひ足踏む。
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