潜夫論 / 誌氏姓
鄭大夫有馮簡子。後韓有馮亭,為上黨守,嫁禍於趙,以致長平之變。秦有將軍馮劫,與李斯俱誅。有馮唐,與文帝論將帥。後有馮奉世,上黨人也,位至將軍,女為元帝昭儀,因家於京師。其孫衍,字敬通,篤學重義,諸儒號之曰「德行雍雍馮敬通」。著書數十篇,孝章皇帝愛重其文。晉大夫郇息事獻公,後世將中軍,故氏中行。食采於智,智果諫智伯而不見聽,乃別族於大史為輔氏。晉大夫孫伯黶實司典籍,故姓籍氏。辛有二子董之,故氏董氏。詩頌宣王,始有「張仲孝友」。至春秋時,宋有張白蔑矣。唯晉張侯、張老,實為大家,張孟談相趙襄子,以滅智伯,遂逃功賞,耕於芃山。後魏有張儀、張醜。至漢,張姓滋多。常山王張耳,梁人;丞相張蒼,陽武人也;東陽侯張相如。
新字:鄭大夫有馮簡子。後韓有馮亭,為上党守,嫁禍於趙,以致長平之変。秦有将軍馮劫,与李斯倶誅。有馮唐,与文帝論将帥。後有馮奉世,上党人也,位至将軍,女為元帝昭儀,因家於京師。其孫衍,字敬通,篤学重義,諸儒号之曰「徳行雍雍馮敬通」。著書数十篇,孝章皇帝愛重其文。晋大夫郇息事献公,後世将中軍,故氏中行。食采於智,智果諫智伯而不見聴,乃別族於大史為輔氏。晋大夫孫伯黶実司典籍,故姓籍氏。辛有二子董之,故氏董氏。詩頌宣王,始有「張仲孝友」。至春秋時,宋有張白蔑矣。唯晋張侯、張老,実為大家,張孟談相趙襄子,以滅智伯,遂逃功賞,耕於芃山。後魏有張儀、張醜。至漢,張姓滋多。常山王張耳,梁人;丞相張蒼,陽武人也;東陽侯張相如。
書き下し
鄭の大夫に馮簡子有り。後に韓に馮亭有り、上党の守と為り、禍を趙に嫁し、以て長平の変を致す。秦に将軍馮劫有り、李斯と俱に誅せらる。馮唐有り、文帝と将帥を論ず。後に馮奉世有り、上党の人なり、位は将軍に至り、女は元帝の昭儀と為り、因りて京師に家す。其の孫衍、字は敬通、学を篤くし義を重んじ、諸儒之を号して「徳行雍雍たる馮敬通」と曰ふ。書を著すこと数十篇、孝章皇帝其の文を愛重す。晋の大夫郇息は献公に事へ、後世中軍を将ゐ、故に中行を氏とす。采を智に食み、智果は智伯を諫めて聴かれず、乃ち族を大史に別ちて輔氏と為る。晋の大夫孫伯黶は実に典籍を司り、故に籍氏と姓す。辛有の二子之を董り、故に董氏を氏とす。詩に宣王を頌し、始めて「張仲孝友」有り。春秋の時に至り、宋に張白蔑有り。唯だ晋の張侯・張老のみ、実に大家為り、張孟談は趙襄子を相け、以て智伯を滅ぼし、遂に功賞を逃れ、芃山に耕す。後に魏に張儀・張醜有り。漢に至り、張姓滋多し。常山王張耳は、梁の人。丞相張蒼は、陽武の人なり。東陽侯張相如あり。
現代語訳
鄭の大夫に馮簡子がいました。後に韓に馮亭がおり、上党の守となって、災いを趙に押しつけ、長平の変を招きました。秦には将軍の馮劫がおり、李斯とともに誅されました。馮唐がおり、文帝と将帥について論じました。のちに馮奉世がおり、上党の人で、位は将軍に至り、娘は元帝の昭儀となり、そのため都に家を構えました。その孫の衍は、字を敬通といい、学問に励み義を重んじたので、諸儒は「徳行のやわらぎ睦まじい馮敬通」と呼びました。書を著すこと数十篇、孝章皇帝はその文を愛し重んじました。晋の大夫の郇息は献公に仕え、後の世に中軍を率いたので、中行を氏としました。智に采邑を得た家の智果は智伯を諫めましたが聞き入れられず、そこで一族を大史に分けて輔氏となりました。晋の大夫の孫伯黶は典籍を司ったので、籍氏を姓としました。辛有の二人の子がこれを取り締まったので、董氏を氏としました。詩が宣王を頌え、はじめて「張仲は孝行で友愛に厚い」とうたわれました。春秋の時代に至り、宋に張白蔑がいました。ただ晋の張侯・張老だけが、まことに大家でした。張孟談は趙襄子を助けて智伯を滅ぼし、そして功賞を避けて、芃山で耕しました。後に魏に張儀・張醜がいました。漢に至ると、張姓は大いに増えました。常山王の張耳は梁の人です。丞相の張蒼は陽武の人です。東陽侯に張相如がいます。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『潜夫論』誌氏姓御史大夫張湯は、律令を増定し、以て奸悪を防ぎ、民に利有り、又好んで賢達の士を薦む、故に福祐を受く。子の安世は、車騎将軍と為り、富平侯に封ぜられ、仁を敦くし倹約し、矜遂権にして陰徳を好む、是を以て子孫昌熾し、世よ賢胤有り、更めて武始に封ぜらる。王莽の乱に遭ひ、国を享くること絶えず、家は凡そ四公、世よ忠孝行義に著はる。前に丞相張禹、御史大夫張忠有り、後に太尉張酺、汝南の人、太傅張禹、趙国の人有り。司邑の閭里に、張有らざる無し。河東解邑に張城有り、西張城有り、豈に晋の張の祖の出づる所か。(偃)優姓の舒唐鳩・舒龍・舒(共)・止龍・酈・淫・参・会・六院・壒・高・国。
-
『潜夫論』誌氏姓慶姓は、樊・尹・駱。隗姓は、鄧・優。帰姓は、胡・有・何。□姓は、滑・斉。掎姓は、棲・疏。禦姓は、署・番・湯。嵬姓は、饒・攘・殺。隗姓は、赤狄。姮姓は、白狄。此れ皆大吉の姓なり。斉に鮑叔有り、世よ卿大夫為り。晋に鮑癸有り。漢に鮑宣有り、累世忠直にして、漢の名臣なり。漢の酈生は使者為り、弟の商は将軍為り、今の高陽の諸酈は著姓為り。昔仲山甫も亦た樊を姓とし、諡は穆仲、南陽に封ぜらる。南陽は、今の河内に在り。後に樊傾子有り。曼姓は、鄧に封ぜられ、後(因)氏とす。南陽の鄧県、上蔡の北に古の鄧城有り、新蔡の北に古の鄧城有り。春秋の時、楚の文王鄧を滅ぼし、漢に至りて鄧通・鄧広有り、後漢の新野(鄧)禹は、佐命の元功を以て、高密侯に封ぜらる。孫太后は天性慈仁にして厳明、諸家を約敕し、権を得る莫く、京師清浄にして、貴戚無きが若し、勤思して民を憂え、昼夜怠らず。是を以て羌兵の叛き、大水の饑饋に遭うも、能く之を復し、整平して豊穣たり。太后崩じて後、群奸相参わり、競いて譖潤を加え、鄧氏を破壊し、天下之を痛む。
-
『潜夫論』誌氏姓帝堯の後は陶唐氏と為る。後に劉累有り、能く龍を畜ひ、孔甲姓を御龍と賜ひ、以て豕韋の後に更ふ。周に至りて唐杜氏と為る。周衰へ、隰叔子有り、周の難を晋国に違ひ、子輿を生み、李と為り、以て朝に正し、朝に間(奸)官無し、故に氏は士氏と為る。司空と為り、以て国に正し、国に敗績無し、故に氏は司空。采を随に食む、故に随氏と氏とす。士袴の孫会、文・襄を佐け、諸侯に於て悪無し。卿と為り、以て成・景を輔け、軍に敗政無し。成率と為り、傅に居り、刑法を端し、訓典を集め、国に姦民無く、晋国の盗は逃げて秦に奔る。是に於て晋侯為に冕服を王に請ひ、王随会に命じて卿と為し、是を以て範を受け、卒して武子と諡す。武子は文にして、晋・荊の盟を成し、兄弟の国を降し、間隙無からしむ、是を以て郇・櫟を受く。此に由りて帝堯の後に、陶唐氏・劉氏・御龍氏・唐杜氏・隰氏・士氏・季氏・司空氏・趙氏・範氏・郇氏・櫟氏・嬴(彘)氏・冀氏・穀氏・薔氏・擾氏・㩏(狸)氏・傅氏有り。
-
『潜夫論』誌氏姓衛の公族は、石氏・世叔氏・孫氏・寧氏・子斉氏・司徒氏・公文氏・折(析)亀氏・公叔氏・公南氏・公上氏・公孟氏、将者も亦常に棹寵に在りて貴臣と為る。留侯張良に及び、韓の公族にして、姫姓なり。秦の始皇韓を滅ぼし、良の弟死すも葬らず。良家貲千万を散じ、韓の為に仇を報い、始皇を博浪沙の中に撃ち、誤りて副車を椎つ。秦賊を索むること急にして、良乃ち姓を変へて張と為し、下邳に匿れ、神人黄石公に遇ひ、之に兵法を遺らる。沛公の起つに及び、良往きて焉に属す。沛公与に韓信をして韓の地を略定せしめ、横陽君城を立てて韓王と為し、而して良を拝して韓の信都と為す。信都とは、司徒なり、俗に前音正しからず信都と曰ひ、或いは司徒と曰ひ、或いは勝屠と曰ふも、然れども其の本は共に一の司徒のみ。後に伝を作る者は信都の何に因るかを知らず、彊ひて妄りに意を生じ、以為へらく此れ乃ち代王の信都為るなりと。凡そ桓叔の後に、韓氏・言氏・嬰氏・禍余氏・公族氏・張氏有り、此れ皆韓の後の姫姓なり。昔周の宣王にも亦韓侯有り、其の国は燕に近し、故に詩に云ふ、「普彼の韓城、燕の師の完くせし所なり」と。
-
『潜夫論』誌氏姓周氏・邵氏・畢氏・栄氏・単氏・尹氏・錙氏・富氏・厓氏・萇氏は、此れ皆周室の世よの公卿の家なり。周召は、周公・召公の庶子にして、二公の采を食み、以て主吏と為す、故に世よ周公・召公有りて絶えざるなり。尹は、本官名なり、宋に太師有り、楚に令尹・左尹有るが若し。尹吉甫は宣王を相けて大功績あり。詩に云う「尹氏大師、維れ周の底なり」と。単穆公・襄公・頎公・靖公は、世よ明徳有り、次聖の才あり、故に叔向之を美め、以て後必ず繁昌せんとす。苦城は、城の名なり、塩池の東北に在り。後人之を書するに或いは枯と為し、斉人其の音を聞けば則ち之を書して車と曰い、敦煌其の字を見て、之を呼びて車城と曰う。其の漢陽に在る者は、枯・苦の字を喜ばず、則ち更めて之を書して古城氏と曰う。堂谿は、谿穀の名なり、汝南西平に在り。禹の字子啟とは、啟は、開の字なり。前人堂谿を書して誤りて啟と作し、後人之を変ずれば、則ち又開と作す。古の漆雕開・公冶長は、前人雕を書するに易に従い、渻して周に作り、冶を書して漢誤りて(蠱)に作り、後人又伝えて古と作す。
-
『潜夫論』誌氏姓魯の昭公の母の家の姓は帰氏、漢に隗囂季孟有り。短は、即ち大戎氏にして、其の先は本黄帝より出ず。徐氏・蕭氏・索氏・長勺氏・陶氏・繁氏・騎氏・饑氏・樊氏・荼氏に及ぶまで、皆殷氏の旧姓なり。漢興るや、相国蕭何は侯に封ぜられ、本は沛の人にして、今の長陵の蕭は、其の後なり。前将軍蕭望之は、東海の杜陵の蕭にして、其の後なり。御史大夫に繁延寿有り、南陵襄陽の人なり、杜陵新豊の繁は、其の後なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る