潜夫論 / 德化
夫是四行者,其輕如毛,其重如山,君子以為易,小人以為難。孔子曰:「仁遠乎哉,我欲仁,仁斯至矣。」又稱「知德者鮮」。俗之偏黨,自古而然,非乃今也。凡百君子,競於驕僭,貪樂慢傲如,忠信未達,而為左右所掬按,當世而覆被,更為否愚惡狀之臣者,豈可勝哉!孝成終沒之日,不知王章之直;孝哀終沒之日,不知王嘉之忠也。此後賢雖有憂君哀主之情,忠誠正直之節,然猶且沉吟觀聽行己者也。鳴鶴在陰,其子和之。相彼鳥矣,猶求仁不忍踐履生草,則又況於民萌而有不化者乎?君子修其樂易之德,上及飛鳥,下及淵魚,不歡忻悅豫,則又況士庶而不仁者乎?聖深知之,皆務正己以為表,明禮義以為教,和德氣於未生之前,正表義於咳笑之後。
新字:夫是四行者,其軽如毛,其重如山,君子以為易,小人以為難。孔子曰:「仁遠乎哉,我欲仁,仁斯至矣。」又称「知徳者鮮」。俗之偏党,自古而然,非乃今也。凡百君子,競於驕僭,貪楽慢傲如,忠信未達,而為左右所掬按,当世而覆被,更為否愚悪状之臣者,豈可勝哉!孝成終没之日,不知王章之直;孝哀終没之日,不知王嘉之忠也。此後賢雖有憂君哀主之情,忠誠正直之節,然猶且沈吟観聴行己者也。鳴鶴在陰,其子和之。相彼鳥矣,猶求仁不忍践履生草,則又況於民萌而有不化者乎?君子修其楽易之徳,上及飛鳥,下及淵魚,不歓忻悦予,則又況士庶而不仁者乎?聖深知之,皆務正己以為表,明礼義以為教,和徳気於未生之前,正表義於咳笑之後。
書き下し
夫れ是の四行は、其の軽きこと毛の如く、其の重きこと山の如し。君子は以て易しと為し、小人は以て難しと為す。孔子曰く、「仁は遠からんや、我仁を欲すれば、仁斯に至る」と。又「徳を知る者は鮮し」と称す。俗の偏党は、古より然り、乃ち今のみに非ざるなり。凡百の君子、驕僭を競い、貪楽慢傲如たり、忠信未だ達せずして、左右の掬按する所と為り、当世に覆被して、更に否愚悪状の臣と為る者、豈に勝げて数うべけんや。孝成の終没の日、王章の直を知らず。孝哀の終没の日、王嘉の忠を知らざるなり。此の後、賢は憂君哀主の情、忠誠正直の節有りと雖も、然れども猶お且つ沈吟し観聴して己を行う者なり。鳴鶴陰に在り、其の子之に和す。彼の鳥を相るに、猶お仁を求めて生草を践履するに忍びず、則ち又況んや民萌にして化せざる者有らんや。君子其の楽易の徳を修むれば、上は飛鳥に及び、下は淵魚に及び、歓忻悦豫せざらんや、則ち又況んや士庶にして不仁なる者をや。聖は深く之を知り、皆己を正して以て表と為し、礼義を明らかにして以て教と為し、徳気を未だ生ぜざるの前に和し、表義を咳笑の後に正すを務む。
現代語訳
この四つの行いは、軽いことは毛のようであり、重いことは山のようでもあります。君子は易しいと考え、小人は難しいと考えます。孔子は「仁は遠いものだろうか。私が仁を求めれば、仁はそこに至る」と言い、また「徳を知る者は少ない」とも言いました。世の偏りや党派は昔からそうであり、今に始まったことではありません。あまたの君子と呼ばれる者が驕りと僭越を競い、貪り楽しみ驕り高ぶり、忠信がまだ行き渡らないうちに側近に押さえつけられ、当世に覆いかぶさられて、さらに愚かで悪い臣になっていく者は、数えきれません。孝成帝が亡くなる日まで、王章の正直さを知らず、孝哀帝が亡くなる日まで、王嘉の忠を知りませんでした。それ以後、賢者には君主を憂い哀れむ情や忠誠正直の節があっても、なおためらい、様子をうかがって行動する者となりました。鳴く鶴が日陰にいれば、その子がこれに応じます。あの鳥を見ても、仁を求めて生えた草を踏むのさえ忍びないのですから、まして民草に教化されない者がいるでしょうか。君子が楽しく穏やかな徳を修めれば、上は飛ぶ鳥、下は淵の魚にまで及び、喜び楽しまないものがありましょうか。まして士や庶民で不仁な者がいるでしょうか。聖人はこのことを深く知り、みな自分を正して手本とし、礼義を明らかにして教えとし、徳の気を生まれる前から和らげ、手本とする義を、笑い咳をする幼いころから正すことに努めました。
解説
この章句が説くこと
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新語・辨惑夫れ事を挙ぐる者、或いは善を為して善と称せられず、或いは不善にして善と称せらるるは、何ぞ。之を視る者謬り、之を論ずる者誤ればなり。故に行い或いは世に合い、言或いは耳に順うは、斯れ乃ち上の意に阿り、上の旨に従い、直を操りて方に乖き、曲を懐きて邪に合し、其の剛柔の勢いに因り、為に縦横の術を作る。故に忤逆の言無く、合わざるの義無き者なり。昔哀公有若に問いて曰く、「年饑えて、用足らず、之を如何せん」と。有若対えて曰く、「盍ぞ徹せざる」と。蓋し上を損して之を下に帰すれば、則ち耳に忤い意に合わず、遂に逆いて用いられず。此れ所謂其の行いを正して苟くも世に合わざるなり。有若豈に哀公の意に阿り、国を益するの義を為すを知らざらんや。夫れ君子は直道にして行い、必ず屈辱せらるるを知りて避けず。故に行いは敢えて苟くも合わせず、言は苟くも容れられんと為さず。世に功無しと雖も、名は称するに足る。言は国家に用いられずと雖も、挙措の言は法る可きなり。
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『講孟余話』萬章上 第三章十一月二十一日。「怒りを蔵さず、怨みを宿さず」、此の二句尤も善し。徒らに弟に於けるのみならず、仁人の心、他人に於けるも亦斯くの如し。論語に「怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明之れを恥づ、丘も亦之れを恥づ」と云ふ、亦同意なり。凡そ人に交はるの道、怨怒する所あらば、直ちに是れを忠告直言すべし。若し忠告直言すること能はずんば、怨怒することなきに若かず。若し然らずして是れを胸中に蔵匿留蓄して、時を待ちて是れを発せんと欲するは、陰柔小人のする所にして、誠に臆病と云ふべし。君子の心は天の如し、怨怒する所あれば雷霆の怒りを発することもあれども、其の事解くるに至りては、又天晴れ日明らかなる如く、一毫も心中に残す所なし、是れ君子陽剛の徳なり。
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