潜夫論 / 忠貴
當呂氏之貴也,太后稱製而專政,祿產秉事而握權,檀立四王,多封子弟,兼據將相,外內磐結。自以雖湯武興,五霸作,弗能危也。於是廢仁義而尚威虐,滅禮信而務譎詐,海內怨痛,人欲其亡,故一朝摩滅而莫之哀也。霍氏之貴,專相幼主,誅滅同僚,廢帝立帝,莫之敢違。禹繼父位,山雲屏事,諸婿專典禁兵,婚姻本族。王氏之貴,九侯五將,朱輪二十三,太后專政,秉權三世。莽為宰衡,封安漢公,居攝假號,身當南面,卒以篡位,十有餘年。自以居之已久,威立恩行,永無禍敗,故遂肆心恣意,私近忘遠,崇聚群小,重賦殫民,以奉無功。動為奸詐,托之經義,迷罔百姓,欺誣天地。自以我密,人莫之知。皇天從上鑒其奸,神明自幽照其態,豈有誤哉!
新字:当呂氏之貴也,太后称製而専政,禄産秉事而握権,檀立四王,多封子弟,兼拠将相,外内磐結。自以雖湯武興,五覇作,弗能危也。於是廃仁義而尚威虐,滅礼信而務譎詐,海内怨痛,人欲其亡,故一朝摩滅而莫之哀也。霍氏之貴,専相幼主,誅滅同僚,廃帝立帝,莫之敢違。禹継父位,山雲屏事,諸婿専典禁兵,婚姻本族。王氏之貴,九侯五将,朱輪二十三,太后専政,秉権三世。莽為宰衡,封安漢公,居摂仮号,身当南面,卒以篡位,十有余年。自以居之已久,威立恩行,永無禍敗,故遂肆心恣意,私近忘遠,崇聚群小,重賦殫民,以奉無功。動為奸詐,托之経義,迷罔百姓,欺誣天地。自以我密,人莫之知。皇天従上鑒其奸,神明自幽照其態,豈有誤哉!
書き下し
呂氏の貴きに当たるや、太后は制を称して政を専らにし、禄・産は事を秉りて権を握り、檀に四王を立て、多く子弟を封じ、将相を兼ね据え、外内磐結す。自ら湯・武興り、五覇作るも、危うくする能わずと以う。是に於いて仁義を廃して威虐を尚び、礼信を滅して譎詐を務め、海内怨痛し、人其の亡ぶを欲す。故に一朝摩滅して之を哀れむ莫し。霍氏の貴きは、専ら幼主を相け、同僚を誅滅し、帝を廃し帝を立て、之に違う敢えてする莫し。禹は父の位を継ぎ、山・雲は事を屏け、諸婿は専ら禁兵を典り、婚姻は族に本づく。王氏の貴きは、九侯五将、朱輪二十三、太后政を専らにし、権を秉ること三世。莽は宰衡と為り、安漢公に封ぜられ、居攝して号を仮り、身は南面に当たり、卒に以て位を篡うこと、十有余年なり。自ら之に居ること已に久しく、威立ち恩行われ、永く禍敗無しと以う。故に遂に心を肆にし意を恣にし、近きに私して遠きを忘れ、群小を崇聚し、賦を重くし民を殫くして以て無功に奉ず。動けば奸詐を為し、之を経義に托し、百姓を迷罔し、天地を欺誣す。自ら我密なりと以い、人之を知る莫しと。皇天上より其の奸を鑑み、神明幽より其の態を照らす。豈に誤ること有らんや。
現代語訳
呂氏が貴盛であったとき、太后は制詔と称して政を専らにし、呂禄・呂産は事務を握って権力を持ち、勝手に四人の王を立て、多くの子弟を封じ、将軍と宰相の職を兼ね、内外に固く結びつきました。自分たちは湯王や武王が興り、五覇が出現しても危うくできないと思っていました。そこで仁義を廃して威圧と暴虐を尊び、礼と信を滅ぼして詭計と偽りに努め、海内は怨み痛み、人々はその滅亡を望みました。だから一朝にして消え去り、これを憐れむ者はいませんでした。霍氏の貴盛は、専ら幼い主君を補佐し、同僚を誅滅し、帝を廃し帝を立てても、あえて違える者はいませんでした。霍禹は父の位を継ぎ、霍山・霍雲は事を退け、多くの婿は禁軍を握り、婚姻は一族に根ざしていました。王氏の貴盛は、九人の侯と五人の将軍、朱輪の車に乗る者二十三人、太后が政を専らにして、三代にわたり権力を握りました。王莽は宰衡となり、安漢公に封ぜられ、摂政として称号を借り、自ら南面して、ついに位を簒奪し、十余年に及びました。自分がその地位に長くいて、威が立ち恩が行き渡り、永く禍や敗れがないと思いました。そのため気ままに思うままにし、身近なものに私して遠いものを忘れ、小人たちを寄せ集めて重んじ、税を重くし民を尽くして功のない者に仕えさせました。動けば奸詐を行い、それを経書の義に託し、百姓を迷わせ、天地を欺きました。自分は秘密にしていて人は知らないと思っていました。けれども天は上からその奸悪を見て、神は暗がりからその姿を照らしています。どうして誤ることがありましょうか。
解説
この章句が説くこと
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史記 秦本紀其の秋、甘茂・庶長封をして宜陽を伐たしむ。四年、宜陽を抜き、首を斬ること六万。河を渉り、武遂に城く。魏の太子来朝す。武王力有りて戯を好む。力士任鄙・烏獲・孟説皆大官に至る。王孟説と鼎を挙げ、臏を絶つ。八月、武王死す。孟説を族す。武王魏の女を取りて后と為すも、子無し。異母弟を立つ。是を昭襄王と為す。昭襄の母は楚人にして、姓は羋氏、宣太后と号す。武王の死せし時、昭襄王燕に質為り。燕人送り帰し、立つを得たり。昭襄王の元年、厳君疾相と為る。甘茂出でて魏に之く。二年、彗星見る。庶長壮大臣・諸侯・公子と逆を為し、皆誅せらる。恵文后に及ぶまで皆良死を得ず。悼武王の后出でて魏に帰る。三年、王冠す。楚王と黄棘に会し、楚に上庸を与ふ。四年、蒲阪を取る。彗星見る。五年、魏王来たりて応亭に朝す。復た魏に蒲阪を与ふ。六年、蜀侯煇反き、司馬錯蜀を定む。庶長奐楚を伐ち、首を斬ること二万。涇陽君斉に質たり。日食し、昼晦し。七年、新城を抜く。樗里子卒す。八年、将軍羋戎をして楚を攻めしめ、新市を取る。斉は章子をして、魏は公孫喜をして、韓は暴鳶をして共に楚の方城を攻めしめ、唐眛を取る。趙中山を破り、其の君亡げ、竟に斉に死す。魏の公子勁・韓の公子長諸侯と為る。九年、孟嘗君薛文来たりて秦に相たり。奐楚を攻め、八城を取り、其の将景快を殺す。十年、楚の懐王入りて秦に朝す。秦之を留む。薛文金を以て免るるを受く。楼緩丞相と為る。十一年、斉・韓・魏・趙・宋・中山の五国共に秦を攻め、塩氏に至りて還る。秦韓・魏に河北及び封陵を与へて以て和す。彗星見る。楚の懐王走りて趙に之く。趙受けず、之を秦に還す。即ち死し、帰葬す。十二年、楼緩免ぜられ、穣侯魏冉相と為る。楚に粟五万石を予ふ。
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易経・豫卦初六豫を鳴らすとは、志窮まりて凶なり。日を終えず、貞にして吉とは、中正なるを以てなり。盱りて豫しみ悔い有りとは、位当たらざればなり。由りて豫しむ、大いに得る有りとは、志大いに行わるるなり。六五貞にして疾むとは、剛に乗ればなり。恒に死せずとは、中未だ亡びざればなり。豫に冥くして上に在り、何ぞ長かるべけんや。
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史記 趙世家趙の将楽乗・慶舍、秦の信梁の軍を攻め、之を破る。太子死す。而して秦西周を攻め、之を抜く。徒父祺出づ。十一年、元氏に城き、上原を県とす。武陽君鄭安平死し、其の地を収む。十二年、邯鄲の廥焼く。十四年、平原君趙勝死す。十五年、尉文を以て相国廉頗を封じて信平君と為す。燕王、丞相栗腹をして驩を約し、五百金を以て趙王の酒を為さしむ。還り帰りて、燕王に報じて曰く、「趙氏の壮者は皆長平に死し、其の孤未だ壮ならず。伐つべきなり」と。王、昌国君楽閒を召して之に問ふ。対へて曰く、「趙は四戦の国なり。其の民兵に習ふ。之を伐つは不可なり」と。王曰く、「吾衆を以て寡を伐ち、二にして一を伐つ、可ならんか」と。対へて曰く、「不可なり」と。王曰く、「吾即し五を以て一を伐たば、可ならんか」と。対へて曰く、「不可なり」と。燕王大いに怒る。群臣皆以て可と為す。燕卒に二軍を起こし、車二千乗、栗腹将として鄗を攻め、卿秦将として代を攻む。廉頗趙の将と為り、栗腹を破り殺し、卿秦・楽閒を虜にす。十六年、廉頗燕を囲む。楽乗を以て武襄君と為す。十七年、仮相大将武襄君燕を攻め、其の国を囲む。十八年、延陵鈞、師を率ゐて相国信平君に従ひて魏を助けて燕を攻む。秦我が楡次三十七城を抜く。十九年、趙燕と土を易ふ。龍兌・汾門・臨楽を以て燕に与へ、燕は葛・武陽・平舒を以て趙に与ふ。二十年、秦王政初めて立つ。秦我が晋陽を抜く。二十一年、孝成王卒す。廉頗将として、繁陽を攻め、之を取る。楽乗をして之に代はらしむ。廉頗楽乗を攻む。楽乗走る。廉頗亡げて魏に入る。子偃立つ、是を悼襄王と為す。悼襄王元年、大いに魏に備ふ。平邑・中牟の道を通ぜんと欲するも、成らず。二年、李牧将として、燕を攻め、武遂・方城を抜く。秦、春平君を召し、因りて之を留む。
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『春秋左氏伝』桓公十三年 莫敖屈瑕の敗死十三年春、楚の屈瑕羅を伐つ。鬬伯比之を送る。還りて、其の禦に謂ひて曰く、「莫敖必ず敗れん。趾を舉ぐること高し、心固からず」と。遂に楚子に見えて曰く、「必ず師を濟せ」と。楚子焉を辭す。入りて夫人鄧曼に告ぐ。鄧曼曰く、「大夫は其れ眾の謂に非ず。其れ君の小民を撫するに信を以てし、諸司を訓ふるに德を以てし、而して莫敖を威すに刑を以てするを謂ふなり。莫敖は蒲騷の役に狃れ、將に自ら用ゐんとす。必ず羅を小とせん。君若し鎮撫せずんば、其れ備へを設けざらんか。夫れ固より君の眾を訓へて好く之を鎮撫し、諸司を召して之に勸むるに令德を以てし、莫敖を見て諸に天の假易せざるを告げよと謂ふなり。然らずんば、夫れ豈に楚の師の盡く行くを知らざらんや」と。楚子賴人をして之を追はしむ。及ばず。莫敖師に徇へしめて曰く、「諫むる者は刑有り」と。鄢に及び、次を亂して以て濟る。遂に次無く、且つ備へを設けず。羅に及ぶ。羅と盧戎と兩つながら之に軍す。大いに之を敗る。莫敖荒谷に縊れ、群帥冶父に囚へられて以て刑を聽く。楚子曰く、「孤の罪なり」と。皆之を免す。宋多く賂を鄭に責む。鄭命に堪へず。故に紀・魯を以て齊及び宋・衛・燕と戰ふ。戰ふ所を書せざるは、後るればなり。鄭人來りて好を修めんことを請ふ。
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徒然草・第167段一道に携はる人、あらぬ道の席に臨みて、「あはれ我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを。」といひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし、などか習はざりけむ。」と言ひてありなむ。我が智を取り出でて人に争ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝る事のあるは大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干の科あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にもいひけたれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に満たずして、つひに物に誇ることなし。
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史記 春申君列伝先帝文王・荘王の身より、三世妄りに地を斉に接せず、以て従親の要を絶つ。今、王、盛橋をして事を韓に守らしむ、盛橋その地を以て秦に入る。是れ王は甲を用ひず、威を信べずして、百里の地を得たり。王は能くすと謂ふべし。王また甲を挙げて魏を攻め、大梁の門を杜ぎ、河内を挙げ、燕・酸棗・虚・桃を抜き、邢に入る。魏の兵は雲翔して敢へて捄はず。王の功もまた多し。王、甲を休め衆を息むること二年にして後これを復す。また蒲・衍・首・垣を并せ、以て仁・平丘に臨み、黄・済陽城を嬰りて魏氏服す。王また濮磿の北を割き、斉秦の要に注ぎ、楚趙の脊を絶つ、天下五たび合し六たび聚まるも敢へて救はず。王の威もまた単(つ)くせり。王若し能く功を持し威を守り、攻取の心を絀けて仁義の地を肥やし、後患無からしめば、三王も四と為すに足らず、五伯も六と為すに足らざるなり。王若し人徒の衆きを負み、兵革の彊きを仗み、魏を毀るの威に乗じて、力を以て天下の主を臣とせんと欲せば、臣その後患有らんことを恐る。詩に曰く『初め有らざるは靡く、克く終はり有るは鮮し』と。易に曰く『狐水を渉りて、その尾を濡らす』と。此れ始めの易くして、終はりの難きを言ふなり。何を以てその然るを知るや。昔、智氏は趙を伐つの利を見て榆次の禍を知らず、呉は斉を伐つの便を見て干隧の敗を知らず。此の二国は大功無きに非ざるなり、利に前に没して患ひを後に易んずればなり。呉の越を信ずるや、従ひて斉を伐ち、既に斉人に艾陵に勝ち、還りて越王の為に三渚の浦に禽にせらる。智氏の韓・魏を信ずるや、従ひて趙を伐ち、晋陽の城を攻め、勝つこと日有り、韓・魏これに叛き、智伯瑤を鑿台の下に殺す。今、王は楚の毀れざるを妒みて、楚を毀るの韓・魏を彊くするを忘る、臣王の為に慮りて取らざるなり。詩に曰く『大武は宅を遠くして渉らず』と。
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