易経 / 豫卦
初六鳴豫,志窮凶也。 不終日,貞吉;以中正也。 盱豫有悔,位不當也。 由豫,大有得;志大行也。 六五貞疾,乘剛也。恆不死,中未亡也。 冥豫在上,何可長也。
新字:初六鳴予,志窮凶也。 不終日,貞吉;以中正也。 盱予有悔,位不当也。 由予,大有得;志大行也。 六五貞疾,乗剛也。恒不死,中未亡也。 冥予在上,何可長也。
書き下し
初六豫を鳴らすとは、志窮まりて凶なり。日を終えず、貞にして吉とは、中正なるを以てなり。盱りて豫しみ悔い有りとは、位当たらざればなり。由りて豫しむ、大いに得る有りとは、志大いに行わるるなり。六五貞にして疾むとは、剛に乗ればなり。恒に死せずとは、中未だ亡びざればなり。豫に冥くして上に在り、何ぞ長かるべけんや。
現代語訳
「初六が楽しみを言いふらす」とは、志が行き詰まって凶だということである。「一日の終わりを待たずに悟り、正しさを守れば吉」とは、中正の位にいるからである。「見上げて媚びて楽しみ、悔いがある」とは、位がふさわしくないからである。「人々がこの者によって楽しみ、大いに得る」とは、志が大いに行われることである。「六五が正しくても病んでいる」とは、剛い九四の上に乗っているからである。「常に死ぬことはない」とは、中の位をまだ失っていないからである。楽しみに溺れて暗いまま一番上にいる。どうして長く続くことがあろうか。
解説
豫の爻辞に付けられた象伝です。初六が楽しみを言いふらして凶なのは「志窮まりて凶なり」、志が行き詰まっているからだとします。六二が一日を終えずに兆しを悟るのは中正の位にいるからです。六五が病みながら死なないのは、剛い者の上に乗りつつも中の位を失っていないからだと説きます。そして楽しみに溺れたまま上にいる者を「何ぞ長かるべけんや」と戒めて結びます。好調を吹聴したくなる時ほど、中ほどに身を置き、浮かれずに兆しを見る落ち着きが要ります。
この章句が説くこと
慢心兆し中庸節度
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