省諐録 / 第53条
川路司農。自大阪市尹轉任。與聞防海事。予舊有厚交。因出擬上書舊稿示之。極言近都防堵修築無法。不適實用。司農亦未甚信之。及墨夷事興。無一不如予嘗所論。於是始深納予言。一日謂予曰。子欲有所言。吾能達之於閣老。予曰。僕所欲言者。爲君傾倒幾盡。君能言之。君能行之。天下之福也。僕但求天下之福耳。上書釣名。非其本心也。及論選人材。購船於海外之策。司農有沮色。予曰。是當今先務之急。而君猶率掣故常。不能發言。他尚何望。僕當上書以道之。乃條疏急務十事。因司農上之阿部閣老。不報。至吉田生獄起。亦不少蒙明察。故常之不易變。時勢之不可明。如此不知天下之大計。將何日而能立也。
新字:川路司農。自大阪市尹転任。与聞防海事。予旧有厚交。因出擬上書旧稿示之。極言近都防堵修築無法。不適実用。司農亦未甚信之。及墨夷事興。無一不如予嘗所論。於是始深納予言。一日謂予曰。子欲有所言。吾能達之於閣老。予曰。僕所欲言者。為君傾倒幾尽。君能言之。君能行之。天下之福也。僕但求天下之福耳。上書釣名。非其本心也。及論選人材。購船於海外之策。司農有沮色。予曰。是当今先務之急。而君猶率掣故常。不能発言。他尚何望。僕当上書以道之。乃条疏急務十事。因司農上之阿部閣老。不報。至吉田生獄起。亦不少蒙明察。故常之不易変。時勢之不可明。如此不知天下之大計。将何日而能立也。
書き下し
川路司農、大阪市尹より転任し、防海の事に与り聞く。予旧く厚交有り。因りて擬上書の旧稿を出して之に示し、近都の防堵修築法無く、実用に適せざるを極言す。司農も亦た未だ甚だしくは之を信ぜず。墨夷の事興るに及びて、一として予が嘗て論ずる所の如くならざるは無し。是に於て始めて深く予が言を納る。一日予に謂ひて曰く、子言ふ所有らんと欲せば、吾能く之を閣老に達せん。予曰く、僕の言はんと欲する所の者は、君の為に傾倒して幾んど尽くせり。君能く之を言ひ、君能く之を行はば、天下の福なり。僕は但だ天下の福を求むるのみ。上書して名を釣るは、其の本心に非ざるなりと。人材を選び、船を海外に購ふの策を論ずるに及びて、司農沮色有り。予曰く、是れ当今の先務の急にして、君猶ほ故常に率掣して、発言する能はず。他は尚ほ何をか望まん。僕当に上書して以て之を道ふべしと。乃ち急務十事を条疏し、司農に因りて之を阿部閣老に上る。報ぜず。吉田生の獄起こるに至りて、亦た少しも明察を蒙らず。故常の変じ易からず、時勢の明らかにすべからざること、此くの如し。天下の大計を知らず、将に何れの日にか能く立たん。
現代語訳
川路司農は、大阪市尹から転任して、防海の事に関わるようになりました。私とは古くから厚い交わりがありました。そこで、上書の案の旧稿を出して見せ、都の近くの防塁の築造が法にかなわず、実用に適さないことを極言しました。司農もそのときはあまり信じませんでした。墨夷の事が起こると、すべてが私がかつて論じたとおりになりました。そこではじめて深く私の言葉を受け入れました。ある日、私に、あなたが言いたいことがあるなら、私が閣老に伝えましょう、と言いました。私は答えました。私の言いたいことは、あなたのために心を傾けて、ほとんど言い尽くしました。あなたがそれを言い、あなたがそれを行えば、天下の福です。私はただ天下の福を求めるだけです。上書して名をつり上げるのは、私の本心ではありません、と。人材を選び、外国から船を購入する策を論じる段になると、司農はためらう様子を見せました。私は言いました。これは今の最も急ぐべき務めなのに、あなたはなお古い慣例にとらわれて、口に出せない。ほかに何を望めましょう。私が上書して、これを述べましょう、と。そこで急務十か条を箇条書きにし、司農を通じて阿部閣老に上げましたが、返事はありませんでした。吉田生の獄が起こるに至っても、やはり十分に明らかな見きわめは得られませんでした。古い慣例が変わりにくく、時勢が明らかにならないことは、これほどです。天下の大計を知らなければ、いつの日に事を立てることができるでしょうか。
解説
この章句が説くこと
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『省諐録』第52条襄に予一二の友生と偕に、鎌倉の遊を為し、遂に海に泛かび、荒岬を過ぎ、城島に抵り、三崎に泊し、松輪を歴て、宮田に宿し、浦賀に次り、猿嶼に上り、金澤を観、本牧に出でて都に還る。其の往来由る所、設くる所の防堵を観ること、海寇に備ふるもの、無慮十余所、而して錯置は皆法を得ず、一も防截の選に当たるべき者無し。此に至りて、覚えず天を仰ぎて浩歎し、胸を擗ちて涕を流す者、久し。夫れ江都は、天下の咽喉なり。富津の洲觜、称して天険と曰ふと雖も、海口は猶ほ闊し。戦艦水軍有るに非ざれば、固より以て敵人の侵攘窺伺を遏め難し。今は是れを務めず、癡堵呆堞を設け、高く之を海表に掲ぐ。此れ我が海外に謀る無きを示すなり。頃年東西の諸蕃、舶を寄せて遊偵す、豈に我を軽んずるの心を開かざらんや。吏員は庸流、固より謫むるに足らず。其の金鞍華鞲、綾衣肉食、自ら謂ひて高く等類に出づる者は、天下の大計を知らず、国の財用を糜して、此の無益の務めを為す、抑も何ぞや。如し虜舶馳突すること有らば、将た何を以て折衝禦侮せん。因りて上疏して海防の利病を論じ、以て時政の万一を裨けんと欲し、草を具して之を先公に請ふ。先公許さず、遂に止む。是れ嘉永庚戌の首夏なり。後四年、果たして墨夷の事起こる。登時先公の予が上書を尼むるは、蓋し触忤して罪に抵るを懼れしならん。其の蓋覆の仁、亦た大なり。今日、先公をして在世せしめば、予が拘囚を知らば、則ち其の憂労、又当に何如なるべき。
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『省諐録』第50条・第3段本藩の武功の盛名、此の輩の為に壊隳せらる。豈に忍ぶべけんや。乃ち望月と謀り、人をして之に謂はしむ、公等の区処する所の如くんば、是れ我が兵を以て夷虜に備ふるに非ず、夷虜の為に、邦民を禁呵するのみ。邦民を禁呵するは、固より士大夫を煩はすべからず、亦た兵器を用ふる無し。径路毎に、健児一二名を出し、青竹杖を執りて誰何すれば足らん。但だ江戸に受けし所の命は、則ち応接の日を廃すべからず。吾が藩当に別に士卒を出し、陣を山閒に整へ、以て非時の変に備ふべきのみ。此れ公等の事を敗らず、又吾が職を墜とさず、豈に亦た両つながら得ざらんや、と。官吏復た曰く、言皆理に当たる。然れども官両藩の人士を発するの事、吾輩既に之を夷人に告ぐ。若し其の人を出さずして、陣を隠僻の地に設くれば、夷人必ず吾に異志有るかと疑はん。応接諧はず、是れ亦た官の累ひなり。必ず吾が言に曲従せよ。其の布陣収散離合の如きは、唯だ意の命ずる所なり。吾輩敢へて掣肘せずと。予と望月、憤愠して楽しまずと雖も、亦た奈何ともする無し。当日一哨を作して、之を田畝の閒に置き、以て其の責を塞ぐ。嗚呼、国用を耗損し、士卒を勤労し、思慮計画を尽くして、同じく児戯を為す。浩歎に付すべきのみ。
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『省諐録』第51条・第2段自ら已む能はず。警衛守禦の方も、亦た自ら厳ならざるを得ず。又親しく彼の長ずる所を観て、以て我が智巧を速進すべし。是れ其の多利たる所以なり。如し下田に退かば、人心必ず弛み、守衛必ず懈らん。而して虜舶は迅速にして、繋縻し難し。横浜に在ると下田に在ると、其の江戸腹心の患たること、則ち閒、髪を以てする能はず。故に吾謂へらく、横浜を以て之に仮すを愈れりと為すに如かずと。是れ天下の大計なり。君士卒を総べて茲に在り、以て黙すべからず。上書して公に乞ひ、献策有るべしと。望月曰く、然り。然れども吾が上書は子の上言に如かずと。乃ち予に命じて江戸に還らしめ、之を公に告ぐ。沮む者有りて、果たさず。公、予の自ら之を為すを許す。是に於て竊かに建白する有り。又門人長岡の小林虎をして其の主侯に上書し、大計を開陳せしむ。又之をして阿部閣老の親幸する所に見えしめ、為に其の利害を論じ、時に因りて規諫し、挽回する所有らんと欲す。並びに皆行はれず。小林生此を以て主侯の譴を獲、遂に辞して国に帰る。
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『省諐録』第54条・第2段而して左なる者は右を拯ふ能はず、右なる者は左を救ふ能はず。不幸にして賊船中閒に出づれば、左右の臺、相ひ為に障礙して、礟を用ふる能はず。悪くにか其の利たるに在らんや。且つ礟艘置くこと乏しければ、進剿に術無し。如し賊、船を相房の閒に連ねて、以て我が海運を絶たば、何を以て之を卻けん。是の時に当たりては、縦令ひ内港に百の礟臺有りとも、亦た無用に属す。戦はずして屈すること無からんと欲すと雖も、得べからず。若し乃ち多く礟艘を備へ、訓練するに時を以てし、戦を開き策応すれば、可ならざる所無し。以て洋賊を讋服し、其の死命を制するに足る。又何ぞ苦しみて海中に此の許多の礟臺を以て為さんや。多事の際、其の経費も亦た甚だ惜しむべし。某地の県令某氏、小しく才幹有れども、素より学問無し。西洋陸戦の塁図を見て、其の解を知らず、杜撰牽合して、以て海口を守る策を成す。当道も亦た深く之を究めず、以て是と為して施行す。予深く其の非を識り、屡しば之を川路司農に言ふ。司農稍や信ずれども、然れども遂に救ふ能はず。是れも亦た慨くべきなり。
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