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政談 / 刑罰の事

刑罰の事右三代の時、墨劓輫宮大碎の五刑を、極刑として、五刑を一等宥むる時流罪なり、五刑疑はしきは贖也の罪疑と云ことありて、是後世の從罪也、笞杖罪と云ことは此時はなきこと也、漢の文帝の時より墨劓輫宮の肉刑の代に笞杖を用ひて笞數五百にのほる、罪重くなれは千に及ふ、徒罪も重きは十年に及ふ、此時は笞と徒流と各當り前有て强ちに輕重の次第に非す、宇文周隋唐に至て五刑の名を笞杖從流死と立替て輕重の次第とす、夫より明朝まても此通りなり、日本の古も唐律の通りなり、

新字:刑罰の事右三代の時、墨劓輫宮大砕の五刑を、極刑として、五刑を一等宥むる時流罪なり、五刑疑はしきは贖也の罪疑と云ことありて、是後世の従罪也、笞杖罪と云ことは此時はなきこと也、漢の文帝の時より墨劓輫宮の肉刑の代に笞杖を用ひて笞数五百にのほる、罪重くなれは千に及ふ、徒罪も重きは十年に及ふ、此時は笞と徒流と各当り前有て強ちに軽重の次第に非す、宇文周隋唐に至て五刑の名を笞杖従流死と立替て軽重の次第とす、夫より明朝まても此通りなり、日本の古も唐律の通りなり、

書き下し

刑罰の事右三代の時、墨劓輫宮大砕の五刑を、極刑として、五刑を一等宥むる時流罪なり、五刑疑はしきは贖也の罪疑と云ことありて、是後世の従罪也、笞杖罪と云ことは此時はなきこと也、漢の文帝の時より墨劓輫宮の肉刑の代に笞杖を用ひて笞数五百にのほる、罪重くなれは千に及ふ、徒罪も重きは十年に及ふ、此時は笞と徒流と各当り前有て強ちに軽重の次第に非す、宇文周隋唐に至て五刑の名を笞杖従流死と立替て軽重の次第とす、夫より明朝まても此通りなり、日本の古も唐律の通りなり、

現代語訳

刑罰のこと。夏・殷・周の三代のときは、墨(いれずみ)・劓(はなきり)・剕(あしきり)・宮(去勢)・大辟(死刑)の五刑を極刑とし、五刑を一等軽くするときは流罪である。五刑が疑わしいときは贖う(金で償う)という「罪の疑わしき」ということがあって、これが後世の従罪(徒罪か)である。笞罪・杖罪ということはこのときはなかった。漢の文帝のときから、墨・劓・剕・宮の肉刑の代わりに笞・杖を用いて、笞の数は五百にのぼった。罪が重くなれば千に及んだ。徒罪も重いものは十年に及んだ。このときは笞と徒・流とがそれぞれ当てはまる罪があって、必ずしも軽重の順序ではなかった。宇文氏の周(北周)・隋・唐に至って、五刑の名を笞・杖・徒・流・死と立て替えて、軽重の順序とした。それから明朝までもこの通りである。日本の古もこの唐律の通りである。

解説

徂徠は刑罰の歴史を概観する。古代の五刑は身体を損なう肉刑だったが、漢の文帝が肉刑を廃して笞・杖に替え、北周から隋唐にかけて笞・杖・徒・流・死の五段階に整えられ、日本の律令もこれに倣ったという。刑の体系が、残酷な刑罰の廃止を経て、軽重の段階として整理されてきた過程を押さえている。現代の組織の懲戒規程も、処分の段階が整理されていてこそ公平に運用できる。制度の来歴を知ることが、今の制度を評価する出発点になる。

この章句が説くこと

刑罰五刑律制度歴史文帝

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