政談 / 妾を御部屋と號する事
古に母は子を以て貴しと云は實子の代に成てのこと也、御先々前御代の未た御部屋住にて御座なされしときに、御家老とも桂昌院樣へ御登城あるへしと申上けたれは、何と名のりてか登城はすへき、大猷院樣の御召しつかいなりと名のるへきか、舘林殿の母なりと名のるへきか、なにとなのりても大猷院樣の御をもてふせなり、舘林殿の御てもてふせなりと御意これあり、靑梅院さまへ御袋母樣は折々御登城ありけれとも、桂昌院樣は終に御登城なかりしなり、此段某し幼少のときに承はる、此時分までは御女中方も箇樣の理筋を御存しなり、今時は左樣の理筋絕え果てたり、彼の御部屋と云はるゝもの多くは踊子風情のもの也、夫を寵愛する男も不學にして而も無智なれは今は定法の如くなりぬ、
新字:古に母は子を以て貴しと云は実子の代に成てのこと也、御先々前御代の未た御部屋住にて御座なされしときに、御家老とも桂昌院様へ御登城あるへしと申上けたれは、何と名のりてか登城はすへき、大猷院様の御召しつかいなりと名のるへきか、舘林殿の母なりと名のるへきか、なにとなのりても大猷院様の御をもてふせなり、舘林殿の御てもてふせなりと御意これあり、青梅院さまへ御袋母様は折々御登城ありけれとも、桂昌院様は終に御登城なかりしなり、此段某し幼少のときに承はる、此時分までは御女中方も箇様の理筋を御存しなり、今時は左様の理筋絶え果てたり、彼の御部屋と云はるゝもの多くは踊子風情のもの也、夫を寵愛する男も不学にして而も無智なれは今は定法の如くなりぬ、
書き下し
古に母は子を以て貴しと云は実子の代に成てのこと也、御先々前御代の未た御部屋住にて御座なされしときに、御家老とも桂昌院様へ御登城あるへしと申上けたれは、何と名のりてか登城はすへき、大猷院様の御召しつかいなりと名のるへきか、舘林殿の母なりと名のるへきか、なにとなのりても大猷院様の御をもてふせなり、舘林殿の御てもてふせなりと御意これあり、青梅院さまへ御袋母様は折々御登城ありけれとも、桂昌院様は終に御登城なかりしなり、此段某し幼少のときに承はる、此時分までは御女中方も箇様の理筋を御存しなり、今時は左様の理筋絶え果てたり、彼の御部屋と云はるゝもの多くは踊子風情のもの也、夫を寵愛する男も不学にして而も無智なれは今は定法の如くなりぬ、
現代語訳
古に「母は子によって貴し」と言うのは、実子の代になってからのことである。先々前の御代(綱吉公)がまだ部屋住みでいらしたとき、御家老たちが桂昌院様に御登城なさるべきだと申し上げたところ、「何と名のって登城すればよいのか。大猷院様(家光公)の召使いと名のるべきか、館林殿の母と名のるべきか。何と名のっても大猷院様の御面目を潰すことになり、館林殿の御面目を潰すことになる」とのお言葉があった。青梅院様のほうの御母様は折々登城されたが、桂昌院様はついに登城されなかった。この件は私が幼少のときに聞いたことである。このころまでは奥向きの女性方もこのような道理をご存じであった。今はそうした道理は絶え果てた。あの「御部屋」と呼ばれる者の多くは踊り子程度の者である。それを寵愛する男も学問がなく、しかも無知なので、今では定まった法のようになってしまった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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言志四録・言志後録 第七十六条 貴賤各分有り人は須らく貴賤各分有るを知るべし。貴人にして賤者の態を摸倣し、賤者にして貴人の事を僭窃す。吾知る、辱の招くに非ずんば、則ち菑の及ぶなりと。
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『武教小学』衣食居悪衣悪食を恥じ、居の安きを求むるは、則ち志士に非ず。(論語に曰く、士道に志して、悪衣悪食を恥ずる者は、未だ与に議るに足らず、と。又曰く、君子は食に飽くを求むること無く、居に安きを求むること無し、と。)衣食及び居には各々分有り。三者其の位を出づれば、則ち度量相違い、費え多く財竭きて、武備を成すこと克わず。三者及ばざれば、則ち志必ず吝嗇に在りて、又正しからず。能く其の節を守るは、是れ士の用法なり。凡そ士の衣服には分有り、唯武備に称うを以て用と為し、長短縫裁皆則有り。食は麁糲を以て用と為し、唯士卒と滋味を同じくせんと欲するのみ。(三略に曰く、昔者良将の兵を用うるや、簞醪を饋る者有れば、諸を河に投ぜしめ、士卒と流れを同じくして飲む。夫れ一簞の醪、一河の水を味わわしむる能わず。而れども三軍の士、死を致さんと思う者は、滋味の己に及ぶを以てなり、と。)然れども気質病多く、脾胃調和せざるの士は、又身を養い生を全うして、死を全道に守るの量有るべし。(七十なる者は以て肉を食すべしと言う。是れ年老いて肉に非ざれば飽かざるなり。人生気の稟くる所、厚薄有り。年若しと雖も、其の脾胃七十に同じければ、則ち麁糲の食は用に足らず。)室宅は必ず軽薄を以て用と為す。(費敝の飾り無し。)居安く室美なれば、則ち志家を思うに在り。是れ志士の意に非ず。家宅の広狭用所、尤も武式を守るべし。伝に曰く、帝堯の天下に王たる時、錦繍文綺を衣ず、宮垣屋宅堊せず、甍桷椽楹劉らず、茅茨偏庭剪らず、鹿裘寒を禦ぎ、布衣形を掩い、糲粱の飯、藜藿の羹、役作の故を以て民の耕織の時を害せず、心を削り志を約し、無為に従事す、云云、と。
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論語・八佾篇子曰く、『管仲の器、小なる哉!』或曰く、『管仲は倹なりや。』曰く、『管氏に三帰有り。』曰く、『然らば礼を知るや。』曰く、『邦君、塞門を樹つ、管氏も亦塞門を樹つ。邦君、二君の好を為すに反坫有り、管氏も亦反坫有り。管仲、その器小なる哉!』
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『春秋左氏伝』昭公二十一年 無射の鐘二十一年春、天王將に無射を鑄んとす。泠州鳩曰く、「王其れ心疾を以って死せんか。夫れ樂は、天子の職なり。夫れ音は、樂の輿なり。而して鐘は、音の器なり。天子風を省みて以って樂を作り、器以って之を鐘(あつ)め、輿以って之を行る。小なる者は窕(ちょう)ならず、大なる者は槬(くわ)ならざれば、則ち物に和す。物和すれば則ち嘉成る。故に和聲耳に入りて、心に藏る。心億(やす)ければ則ち樂し。窕なれば則ち咸(あまね)からず、總なれば則ち容れず、心是を以って感く。感けば實に疾を生ず。今鐘槬なり、王の心堪へず、其れ能く久しからんや」と。三月、蔡の平公を葬る。蔡の大子朱位を失ひ、位卑きに在り。大夫の葬を送る者、歸りて昭子に見ゆ。昭子蔡の故を問ふ。以って告ぐ。昭子歎じて曰く、「蔡其れ亡びんか。若し亡びずんば、是の君や必ず終へざらん。詩に曰く、『位に解らず、民の塈(いこ)ふ攸なり』と。今蔡侯始めて位に即きて、卑きに適く。身將に之に從はんとす」と。夏、晉の士鞅來聘す。叔孫政を為す。季孫諸を晉に惡ましめんと欲し、有司をして齊の鮑國の費を歸すの禮を以って士鞅の為にせしむ。士鞅怒りて曰く、「鮑國の位は下にして、其の國は小なり。而るに鞅をして其の牢禮に從はしむ、是れ敝邑を卑しむるなり。將に諸を寡君に復さんとす」と。魯人恐れ、四牢を加へ、十一牢と為す。
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『春秋左氏伝』僖公三十年 周公閲、備物の饗を辞す初め、鄭の公子蘭出でて晉に奔り、晉侯に從ひて鄭を伐つ。鄭を圍むに與ること無からんことを請ふ。之を許し、命を東に待たしむ。鄭の石甲父・侯宣多逆へて以って大子と為し、以って成を晉に求む。晉人之を許す。冬、王周公閱をして來聘せしむ。饗に昌歜(しゃうさん)・白・黑・形鹽有り。辭して曰く、「國君は、文は以って昭らかにするに足り、武は畏る可きなり。則ち備物の饗有りて、以って其の德に象る。五味を薦め、嘉穀を羞(すす)め、鹽は虎の形にして、以って其の功を獻ず。吾何を以ってか之に堪へん」と。東門襄仲將に周に聘せんとし、遂に初めて晉に聘す。
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『慎思録』巻之五卑幼の輩、居れば則ち長者の位を避け、行けば則ち随ひ行き、言語応対は、則ち恂恂として謙遜す。是れ礼の当に然るべき所なり。後世の卑幼は此の礼に循はず。往往長者の位に居り、先生と並び行き、言語応対は、則ち尊長と抗敵す。唯速やかに成人の列に進まんことを欲し、等を躐え節を凌ぐ。分に安んぜざるの甚だしきなり。是を以て驕惰の心を養成して、教ふべからざるに至る。歎ずべきかな。
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