政談 / 御觸の廻狀早速行屆ざる事
御ふれの廻狀當時は翌日の晝頃まても行き渡らす、明日惣出仕と云ふに出仕は濟めとも廻狀は未た行きわたらす、又鳴りもの停止なとの御ふれもかた〳〵にては知りて物音を立てぬに、かた〳〵にては亂舞琴三味線最中なる家もあり、公儀のことは大樣なることゝて譽むる人もあれとも、國家の御ふれには急用も必すしもあるましきことにあらす、かやうにはあるましきことなり、されとも當時は屋數割惡しき故斯の如く不埒あるなり、異國の法五千一萬の軍兵へも號令即時に行きわたること、何れも頭より支配へふれ、その上異國の組割のやう頭に頭あり、支配に支配ありて段々重りて七八段もあれとも、斯の如く神速なることは皆その組その支配を一所にさし置くこと故斯の如くなり、當時も一組を一町に置ことならは此不埒はあるまし、
新字:御ふれの廻状当時は翌日の昼頃まても行き渡らす、明日惣出仕と云ふに出仕は済めとも廻状は未た行きわたらす、又鳴りもの停止なとの御ふれもかた〳〵にては知りて物音を立てぬに、かた〳〵にては乱舞琴三味線最中なる家もあり、公儀のことは大様なることゝて誉むる人もあれとも、国家の御ふれには急用も必すしもあるましきことにあらす、かやうにはあるましきことなり、されとも当時は屋数割悪しき故斯の如く不埒あるなり、異国の法五千一万の軍兵へも号令即時に行きわたること、何れも頭より支配へふれ、その上異国の組割のやう頭に頭あり、支配に支配ありて段々重りて七八段もあれとも、斯の如く神速なることは皆その組その支配を一所にさし置くこと故斯の如くなり、当時も一組を一町に置ことならは此不埒はあるまし、
書き下し
御ふれの廻状当時は翌日の昼頃まても行き渡らす、明日惣出仕と云ふに出仕は済めとも廻状は未た行きわたらす、又鳴りもの停止なとの御ふれもかた〳〵にては知りて物音を立てぬに、かた〳〵にては乱舞琴三味線最中なる家もあり、公儀のことは大様なることゝて誉むる人もあれとも、国家の御ふれには急用も必すしもあるましきことにあらす、かやうにはあるましきことなり、されとも当時は屋数割悪しき故斯の如く不埒あるなり、異国の法五千一万の軍兵へも号令即時に行きわたること、何れも頭より支配へふれ、その上異国の組割のやう頭に頭あり、支配に支配ありて段々重りて七八段もあれとも、斯の如く神速なることは皆その組その支配を一所にさし置くこと故斯の如くなり、当時も一組を一町に置ことならは此不埒はあるまし、
現代語訳
御触の回状は、今は翌日の昼ごろまでも行き渡らない。明日総出仕というのに、出仕は済んでも回状はまだ行き渡らない。また、鳴り物停止などの御触も、一方では知って物音を立てないのに、一方では乱舞や琴・三味線の最中という家もある。公儀のことはおおらかなものだと言ってほめる人もいるが、国家の御触には急用も必ずしもないとは言えないのだから、このようではあってはならない。けれども今は屋敷割が悪いので、このような不始末があるのである。異国の法では、五千、一万の軍兵へも号令が即時に行き渡る。どれも頭から支配下へ触れ、そのうえ異国の組割りのように頭の上に頭があり、支配の上に支配があって、段々に重なって七、八段もあっても、このように神速であるのは、皆その組その支配を一か所に置いているからである。今でも一組を一町に置くならば、この不始末はあるまい。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『政談』江戶町中並に武家屋敷の締りの事総して武家屋敷も元来一組を一町に置たることなり、大御番十二組にて番町一番町より六番町まで各々表裏これあり、古は飯田町の上に土手これあるなり、御番衆に与力同心も元来一組一町にあつまり居たることなり、されども役ぬけ御番入り小ぶしん入りより混乱し、特に権威ある人屋敷をえり取りにする故此の法乱れ、今は同組所々に分れ居るやうになりたるなり、これによりて別御役別組の人となりと成り、武家の人から内証の事知るべきやうなし、一町の内のことは家内の微細なることまで何事も知れざることは悪しき事なり、微細に知るれども他役他組の人なれば、一屋敷の面々こうにて、武家ことのほかに我まゝになり、諸事とりしまりなく、埓もなくなりたること、これによりてなり、ことにかろき同心のたくひの一組のうちをひきわけて牛込本郷離れ〳〵にさし置くこと、そのもの平生何をするかも同組も知らぬことにて吟味すべきやうなし、願ふ所は古法の通り御番衆も与力同心も一くみを一所に置き、その頭をも一所に置き、役入り番入り等のとき入り替るやうにするときは、組下の人抦も何も委細に知るゝことにて、盗賊奉行などの下の悪事を知ぬやうなることは決してなきことなり、
-
『政談』官位爵祿の次第並に勳階頭助允目の事何役にも頭役添役下役留役と四段に立てゝ、或は軽き役には添役を除きて、三段にも立て、或は特の外に軽き役は添役下役を除きて一段にも立て置き、頭役は是非ともに一人にすれはその役のこと締り我々にならす、身に踏込みて勤めで叶はさることなり、添役は一人或は両人頭役に僅か一階ほと下にて、さのみは劣らぬものを申し付置く時は、相談の相手にも成り、又目付にもなり、又病気差合のときもこと欠けず、下役は添役に一階も下なる人を二人なりと三人四人なりとも役儀によりて五人六人も申し付け置く時は、其役儀のこと品を別けて掌とりて丁寧なり、留役は軽き役にて、一役のことを帳にかき留さすへし、されは頭役は惣〆くゝりとなりて重きことを掌り、又惣しめをするなり、下役は細かなるかと〳〵を品を別けて掌とる故、をの〳〵身にかけてつとめ身に入ること是れ古の法なり、
-
司馬法・定爵将は身なり、卒は支(し)なり、伍は指拇(しぼ)なり。
-
『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・これを散ずれば明なりこれを集むれば暗なり私にありては智なり、官にありては愚なり。これを散ずれば明なり、これを集むれば暗なり。政府は衆智者の集まるところにして、一愚人の事を行なうものと言うべし。あに怪しまざるを得んや。畢竟その然る所以は、かの気風なるものに制せられて、人々みずから一個の働きを逞しゅうすること能わざるによりて致すところならんか。維新以来、政府にて学術、法律、商売等の道を興さんとして効験なきも、その病の原因はけだしここにあるなり。しかるにいま一時の術を用いて下民を御し、その知徳の進むを待つとは、威をもって人を文明に強ゆるものか、しからざれば欺きて善に帰せしむるの策なるべし。政府威を用うれば人民は偽をもってこれに応ぜん、政府欺を用うれば人民は容を作りてこれに従わんのみ。これを上策と言うべからず。たといその策は巧みなるも、文明の事実に施して益なかるべし。ゆえにいわく、世の文明を進むるには、ただ政府の力のみに依頼すべからざるなり。
-
史記 匈奴列伝東胡初め冒頓を軽んじ、備へを為さず。冒頓兵を以て至り、撃つに及びて、大いに東胡王を破滅し、而して其の民人及び畜産を虜にす。既に帰りて、西のかた月氏を撃ち走らせ、南のかた楼煩・白羊の河南王を并す。燕代を侵し、悉く復た秦の蒙恬をして匈奴より奪はしめし所の地を収め、漢と故の河南の塞を関とし、朝那・膚施に至り、遂に燕・代を侵す。是の時漢の兵項羽と相距ぎ、中国兵革に罷る。故を以て冒頓自ら彊くするを得、控弦の士三十余万。淳維より以て頭曼に至るまで千有余歳、時に大きく時に小さく、別散分離すること、尚し。其の世伝得て次すべからずと云ふ。然れども冒頓に至りて匈奴最も彊大にして、尽く北夷を服従せしめ、而して南のかた中国と敵国と為る。其の世伝国官の号乃ち得て記すべしと云ふ。左右の賢王、左右の谷蠡王、左右の大将、左右の大都尉、左右の大当戸、左右の骨都侯を置く。匈奴は賢を謂ひて「屠耆」と曰ふ。故に常に太子を以て左屠耆王と為す。左右の賢王より以下当戸に至るまで、大なる者は万騎、小なる者は数千、凡そ二十四長、号を立てて「万騎」と曰ふ。諸大臣は皆世官なり。呼衍氏、蘭氏、其の後に須卜氏有り。此の三姓は其の貴種なり。諸々の左方の王将は東方に居り、上谷に直りて以往なる者は、東のかた穢貉・朝鮮に接す。右方の王将は西方に居り、上郡に直りて以西は、月氏・氐・羌に接す。而して単于の庭は代・雲中に直る。各々分地有り、水草を逐ひて移徙す。而して左右の賢王・左右の谷蠡王最も大為り。左右の骨都侯政を輔く。諸々の二十四長も亦各々自ら千長・百長・什長・裨小王・相・封都尉・当戸・且渠の属を置く。歳の正月、諸長小しく単于の庭に会し、祠る。
-
言志四録・南洲手抄三軍和せずば、以て戦を言ひ難し。百官和せずば、以て治を言ひ難し。書に云ふ、寅を同じうし恭を協せ和衷せよやと。唯だ一の和字、治乱を一串す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る