政談 / 御番衆御敷居の外へ搆はさる事
當時は行儀にばかりかゝはりて、御番衆をは御敷居の內にかしこませ置きてつく〳〵ほうしのやうにならへ置くこと何の所用にてかくの如くなすることそや、一ころ水野隼人正か毛利主水に切りかけしとき、毛利次は南部幼少なり、家來三人か付き出つる、隼人萬一南部にきりかけば家來もぬき合はすへし、そのとき目付の手にあまるへし、かやうのことあるまじと云ふへからす、所詮のところ御番衆は警衞の役也と云ふ根本を忘れて、行儀をばかりせむる故、武士武用を忘れて公家のやうになるは上のせしむる所なり、警衞役なることを知らは上の御催促なくとも身のかきなれは劔術取り手のやうなることは人々たしなむへきこと也、
新字:当時は行儀にばかりかゝはりて、御番衆をは御敷居の内にかしこませ置きてつく〳〵ほうしのやうにならへ置くこと何の所用にてかくの如くなすることそや、一ころ水野隼人正か毛利主水に切りかけしとき、毛利次は南部幼少なり、家来三人か付き出つる、隼人万一南部にきりかけば家来もぬき合はすへし、そのとき目付の手にあまるへし、かやうのことあるまじと云ふへからす、所詮のところ御番衆は警衛の役也と云ふ根本を忘れて、行儀をばかりせむる故、武士武用を忘れて公家のやうになるは上のせしむる所なり、警衛役なることを知らは上の御催促なくとも身のかきなれは剣術取り手のやうなることは人々たしなむへきこと也、
書き下し
当時は行儀にばかりかゝはりて、御番衆をは御敷居の内にかしこませ置きてつく〳〵ほうしのやうにならへ置くこと何の所用にてかくの如くなすることそや、一ころ水野隼人正か毛利主水に切りかけしとき、毛利次は南部幼少なり、家来三人か付き出つる、隼人万一南部にきりかけば家来もぬき合はすへし、そのとき目付の手にあまるへし、かやうのことあるまじと云ふへからす、所詮のところ御番衆は警衛の役也と云ふ根本を忘れて、行儀をばかりせむる故、武士武用を忘れて公家のやうになるは上のせしむる所なり、警衛役なることを知らは上の御催促なくとも身のかきなれは剣術取り手のやうなることは人々たしなむへきこと也、
現代語訳
今は行儀にばかりこだわって、御番衆を敷居の内にかしこまらせておき、つくつくぼうしのように並べておくのは、何の用があってこうするのか。一時、水野隼人正が毛利主水に斬りかかったとき、毛利の次の席は南部で、南部は幼少であった。家来が三人付いて出ていた。もし隼人正が南部に斬りかかれば、家来も刀を抜き合わせるだろう。そのときは御目付の手に余ったはずである。このようなことはあるまいと言ってはならない。結局のところ、御番衆は警衛の役だという根本を忘れて、行儀ばかりを責めるから、武士が武用を忘れて公家のようになるのは、上がそうさせているのである。警衛の役であることを知れば、上の催促がなくても身の嗜みとして、剣術や捕り手のようなことは人々が心がけるはずである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 項羽本紀今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。
-
史記 孝景本紀三月丁酉、天下に赦し、爵一級を賜ひ、中二千石・諸侯の相に爵右庶長を賜ふ。四月、大いに酺す。五月丙戌、地動く、其の蚤食の時復た動く。上庸地動くこと二十二日、城垣を壊す。七月乙巳、日食す。丞相劉舎免ぜらる。八月壬辰、御史大夫綰を以て丞相と為し、建陵侯に封ず。後二年正月、地一日に三たび動く。郅将軍匈奴を撃つ。酺すること五日。内史の郡をして馬に粟を食ましむるを得ず、県官に没入せしむ。徒隷をして七緵の布を衣しむ。馬舂を止む。歳の登らざるが為に、天下の歳を造らざるに食するを禁ず。列侯を省きて之を国に遣る。三月、匈奴雁門に入る。十月、長陵の田を租す。大いに旱す。衡山国・河東・雲中郡の民疫す。後三年十月、日月皆(食)赤きこと五日。十二月晦、雷あり。日紫の如し。五星逆行して太微を守る。月天廷の中を貫く。
-
史記 春申君列伝春申君相たること二十五年、楚の考烈王病む。朱英、春申君に謂ひて曰く、「世に毋望の福有り、また毋望の禍有り。今、君は毋望の世に処り、毋望の主に事ふ、安んぞ以て毋望の人無かるべけんや」と。春申君曰く、「何をか毋望の福と謂ふ」と。曰く、「君楚に相たること二十余年、名は相国と雖も、実は楚王なり。今、楚王病み、旦暮に且に卒せんとす、而して君は少主に相たらん。因りて代はり立ちて国に当たること、伊尹・周公の如くし、王長じて政を反さん。即ち遂に南面して孤と称して楚国を有たざらんや。此れ所謂毋望の福なり」と。春申君曰く、「何をか毋望の禍と謂ふ」と。曰く、「李園は国を治めずして君の仇なり、兵を為さずして死士を養ふの日久し。楚王卒せば、李園必ず先に入りて権に拠りて君を殺して以て口を滅せん。此れ所謂毋望の禍なり」と。春申君曰く、「何をか毋望の人と謂ふ」と。対へて曰く、「君、臣を郎中に置け。楚王卒せば、李園必ず先に入らん、臣君の為に李園を殺さん。此れ所謂毋望の人なり」と。春申君曰く、「足下これを置け。李園は弱人なり、仆またこれを善くす、且つまた何ぞ此に至らん」と。朱英、言の用ひられざるを知り、禍の身に及ばんことを恐れ、乃ち亡げ去る。
-
説苑・建本豊牆磽下は未だ必ずしも崩れざるも、流行潦至れば、壊るること必ず先んず。樹の本浅く、根垓深からざるは、未だ必ずしも橛れざるも、飄風起こり暴雨至れば、抜けること必ず先んず。君子是の国に居りて、仁義を崇めず賢臣を尊ばざるも、未だ必ずしも亡びざるも、然れども一旦非常の変有らば、車馳せ人走り、指して禍至れば、乃ち始めて喉を干し唇を燋がし、天を仰ぎて歎じ、庶幾わくは天其れ之を救わんと、亦難からずや。孔子曰わく、「其の前を慎まずして其の後を悔ゆれば、悔ゆると雖も及ぶ無し」と。詩に曰わく、「其れ啜りて泣く、何ぞ嗟くも及ばん」と。本を先に正さずして末に憂いを成すを言うなり。
-
孟子・離婁章句下孟子曰く、「罪無くして士を殺さば、則ち大夫以て去る可し。罪無くして民を戮せば、則ち士以て徙る可し。」
-
史記 田単列伝田単は、斉の諸田の疏属なり。湣王の時、単は臨菑の市掾と為るも、知られず。燕、楽毅をして斉を伐ち破らしむるに及び、斉の湣王出奔し、已にして莒城を保つ。燕の師長駆して斉を平らぐ。而して田単は安平に走り、其の宗人をして尽く其の車軸の末を断ちて鉄籠を傅けしむ。已にして燕軍安平を攻め、城壊れ、斉人走りて塗を争ひ、轊の折るるを以て車敗れ、燕の虜とする所と為る。唯だ田単の宗人のみ鉄籠の故を以て脱るるを得、東して即墨を保つ。燕既に尽く斉の城を降し、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る