政談 / 金銀錢員數減少する仔細の事
ひとゝせの豐年百年以來の豐年なりなとゝ沙汰すれとも、それは何をきつかけにして云ふことやらん、買物をし賣物をすることは家々にて帳にも付置くものなれとも、それさへ五六十年以前のものゝ直段は今覺えたる人なし、况して田地より收納する米の多少を帳に付けたる百姓ともなし、只二三十年以來の豐年なるへきを、殊の外に下直なるにて百年以來の豐年とは取沙汰するなり、某し田舍に居住して見たるに百姓程取締りなき埒もなきものはなし、米秋には米をめつたに食し、麥秋には麥をめつたに食し、年貢に納め種子に殘すへき了簡は曾て之なきものなり、左樣なるものか何として百年以來になき豐年の、二三十年以來の豐年のと云ふほとらいの覺えのあるへき、其上昔は在々に錢殊の外に拂底にて、一切のものを錢にては買はす、皆な米麥にて買たること某し田舍にて覺えたることなり、近年の樣子を聞合はするに、元祿の頃より田舍へも錢行きわたりて、錢にて物を買ふ事に成りたり、されは斯の如く妄りに米麥をつかふ田舍にて收納の限量を百姓も覺え居て、百年以來の豐年と知るへきやうは曾て之なし、唯た下直なるにて左樣に云ふを不案內なる御城下の人の聞て眞かと思ひたるなり、
新字:ひとゝせの豊年百年以来の豊年なりなとゝ沙汰すれとも、それは何をきつかけにして云ふことやらん、買物をし売物をすることは家々にて帳にも付置くものなれとも、それさへ五六十年以前のものゝ直段は今覚えたる人なし、況して田地より収納する米の多少を帳に付けたる百姓ともなし、只二三十年以来の豊年なるへきを、殊の外に下直なるにて百年以来の豊年とは取沙汰するなり、某し田舎に居住して見たるに百姓程取締りなき埒もなきものはなし、米秋には米をめつたに食し、麦秋には麦をめつたに食し、年貢に納め種子に残すへき了簡は曽て之なきものなり、左様なるものか何として百年以来になき豊年の、二三十年以来の豊年のと云ふほとらいの覚えのあるへき、其上昔は在々に銭殊の外に払底にて、一切のものを銭にては買はす、皆な米麦にて買たること某し田舎にて覚えたることなり、近年の様子を聞合はするに、元禄の頃より田舎へも銭行きわたりて、銭にて物を買ふ事に成りたり、されは斯の如く妄りに米麦をつかふ田舎にて収納の限量を百姓も覚え居て、百年以来の豊年と知るへきやうは曽て之なし、唯た下直なるにて左様に云ふを不案内なる御城下の人の聞て真かと思ひたるなり、
書き下し
ひとゝせの豊年百年以来の豊年なりなとゝ沙汰すれとも、それは何をきつかけにして云ふことやらん、買物をし売物をすることは家々にて帳にも付置くものなれとも、それさへ五六十年以前のものゝ直段は今覚えたる人なし、況して田地より収納する米の多少を帳に付けたる百姓ともなし、只二三十年以来の豊年なるへきを、殊の外に下直なるにて百年以来の豊年とは取沙汰するなり、某し田舎に居住して見たるに百姓程取締りなき埒もなきものはなし、米秋には米をめつたに食し、麦秋には麦をめつたに食し、年貢に納め種子に残すへき了簡は曽て之なきものなり、左様なるものか何として百年以来になき豊年の、二三十年以来の豊年のと云ふほとらいの覚えのあるへき、其上昔は在々に銭殊の外に払底にて、一切のものを銭にては買はす、皆な米麦にて買たること某し田舎にて覚えたることなり、近年の様子を聞合はするに、元禄の頃より田舎へも銭行きわたりて、銭にて物を買ふ事に成りたり、されは斯の如く妄りに米麦をつかふ田舎にて収納の限量を百姓も覚え居て、百年以来の豊年と知るへきやうは曽て之なし、唯た下直なるにて左様に云ふを不案内なる御城下の人の聞て真かと思ひたるなり、
現代語訳
今年の豊作は百年来の豊作だなどと取り沙汰するが、それは何を手がかりにして言うことであろうか。買い物をし売り物をすることは家々で帳面にも付けておくものだが、それでさえ五六十年前の物の値段は今覚えている人がいない。まして田地から収める米の多少を帳面に付けている百姓などいない。ただ二三十年来の豊作であろうというところを、ことのほか安いので、百年来の豊作と取り沙汰するのである。私が田舎に住んで見たところ、百姓ほど締まりのない、だらしのないものはない。米の取り入れ時には米をむやみに食べ、麦の取り入れ時には麦をむやみに食べ、年貢に納め種籾に残すべき思慮はまったくないものである。そのような者が、どうして百年来ない豊作だの、二三十年来の豊作だのと言えるほどの覚えがあろうか。そのうえ昔は村々に銭がことのほか乏しく、一切の物を銭では買わず、みな米や麦で買っていたことは、私が田舎で覚えていることである。近年の様子を聞き合わせると、元禄の頃から田舎へも銭が行き渡って、銭で物を買うようになった。それならば、このようにむやみに米麦を使う田舎で、収穫の量を百姓が覚えていて百年来の豊作と知るはずはまったくない。ただ値が安いのでそのように言うのを、事情を知らない御城下の人が聞いて本当かと思ったのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第十四又信玄衆さいががけへおちたると申す、批判もぶせんさくにて、我みかたをそしる心なり、子細は家康衆信長武者のく所を、信玄衆おふてゆかば、先づ浜松方さいががけへ飛びこみたらんにこそ、武田方の軍兵もがけへ飛びこまんずれ、敵右へにぐるに何とて甲州勢左のさいががけへ飛びいらん、縦へ飛び入りてもそれが武士のよはみになることにてもなし、只町人の批判に相似たる儀なり、
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『韓非子』外儲說左上第三十二右御の冶工王に言ひて曰く、「臣聞く人主に十日燕せざるの斎無しと。今王の久しく斎して以て無用の器を観ること能はざるを知る、故に三月を以て期と為す。凡そ刻削する者は、其の以て削る所必ず小なり。今臣は冶人なり、以て之が削を為すこと無し、此れ然らざるの物なり、王必ず之を察せよ。」王因りて囚へて之を問ふ、果して妄なり、乃ち之を殺す。冶人王に謂ひて曰く、「計に度量無ければ、言談の士に棘刺の説多きなり。」一に曰く、燕王微巧を好む。衛人曰く、「能く棘刺の端を以て母猴を為る。」燕王之を説び、之を養ふに五乗の奉を以てす。王曰く、「吾試みに客の棘刺の母猴を為るを観ん。」客曰く、「人主之を観んと欲せば、必ず半歳宮に入らず、酒を飲み肉を食はず。雨霽れ日出でて、之を晏陰の間に視れば、棘刺の母猴乃ち見るべきなり。」燕王因りて衛人を養ふも、其の母猴を観ること能はず。鄭に台下の冶者有り燕王に謂ひて曰く、「臣は削る者なり、諸々の微物は必ず削を以て之を削る、而して削る所は必ず削より大なり。今棘刺の端は削鋒を容れず、以て棘刺の端を治め難し。王試みに客の削を観よ、能と不能と知るべきなり。」王曰く、「善し。」衛人に謂ひて曰く、「客棘刺の母猴を為るや、何を以て之を理むる。」曰く、「削を以てす。」
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『甲陽軍鑑』品第十四又信長長篠にて柵の木ゆひ給ふこと、强敵にあふて智略賢き誉なるを、武田武者馬をいるゝと云ふ儀それも虚言なり、長篠合戦馬塲を十騎と並べて乗所にてなし、殊に信玄公の御時四年以前に、元亀三年壬申極月二十二日に、遠州みかたが原にて敵の大将家康三十一歳の時、信長衆も佐久間右衛門·平手·林·水野を始各来て此合戦にあふ、味方が原足がゝりなけれども、是にさへ馬をいれず候、それは敵にても家康衆よく存ずべし、尾州にても平手討死なれば、此衆は定めてしり候はん、馬をならべて入事あるは、先無案内なる批判なり、家康かた九手に余そなへて、平手ともに十手なるが家康のうち、酒井左衛門丞の手に鎗あはずしてくづるゝ、其夜は九手ながらにて鑓のあふに、馬上にての鑓を鑓と申すべく候哉、是れもつて武家に未聞の取りさたなり、
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史記 孝武本紀泰一の用ゐる所は、雍の一畤の物の如く、而して醴棗脯の属を加へ、一犛牛を殺して以て俎豆の牢具と為す。而して五帝は独り俎豆醴の進有り。其の下の四方の地は、餟食の為に群神の従者及び北斗を云ふ。已に祠れば、胙の余は皆之を燎く。其の牛の色は白、鹿其の中に居り、彘鹿の中に在り、水にて之を洎(ひた)す。日を祭るに牛を以てし、月を祭るに羊彘特を以てす。泰一の祝宰は則ち紫及び繡を衣る。五帝は各々其の色の如くし、日は赤、月は白。十一月辛已朔旦冬至、昧爽、天子始めて郊して泰一を拝す。朝に日を朝し、夕に月を夕すれば、則ち揖す。而して泰一に見ゆること雍の礼の如くす。其の贊饗に曰く、「天始めて宝鼎神筴を以て皇帝に授く、朔にして又朔、終はりて復た始まる、皇帝敬ひて拝し焉に見ゆ。」と。而して衣は黄を上ぶ。其の祠火を列ねて壇に満たし、壇の旁に烹炊の具あり。有司云ふ「祠上に光有り」と。公卿言ふ「皇帝始めて泰一に雲陽に郊見す、有司瑄玉嘉牲を奉じて薦饗す。是の夜美光有り、昼に及びて、黄気上りて天に属す。」と。太史公・祠官寛舒等曰く、「神霊の休、祐福兆祥なり、宜しく此の地の光域に因りて泰畤の壇を立て以て応を明らかにすべし。太祝をして領せしめ、(祀)[秋]及び臘の間に祠らしめん。三歳に天子一たび郊見せん。」と。其の秋、南越を伐たんが為に、泰一に告禱し、牡荊を以て幡に日月北斗登龍を画き、以て天一三星に象り、泰一の鋒と為し、名づけて「霊旗」と曰ふ。兵の為に禱れば、則ち太史奉じて以て伐つ所の国を指す。而して五利将軍使ひして敢へて海に入らず、泰山に之きて祠る。上人をして微かに随ひて験せしむるに、実に見る所無し。五利妄りに其の師を見たりと言ふ、其の方尽き、多く讎(あた)らず。上乃ち五利を誅す。其の冬、公孫卿神を河南に候ひ、僊人の跡を緱氏城の上に見る、物有り雉の若く、城上を往来す。天子親ら緱氏城に幸して跡を視る。卿に問ふ、「文成・五利に効ふこと毋きを得んや。」と。
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『墨子』節葬下是の故に子墨子曰く、郷に吾が本と言えらく、意うに亦た其の言をして、其の謀を用いて、厚葬久喪を計るに、誠に以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からんか。則ち仁なり、義なり、孝子の事なり。人の為に謀る者は、勸めざる可からざるなり。意うに亦た其の言に法り、其の謀を用いて、人の若きの厚葬久喪、實に以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からざらんか。則ち仁に非ざるなり、義に非ざるなり、孝子の事に非ざるなり。人の為に謀る者は、沮まざる可からざるなり。是の故に以て國家を富まさんことを求むるも、甚だ貧を得たり。以て人民を衆くせんと欲するも、甚だ寡を得たり。以て刑政を治めんと欲するも、甚だ亂を得たり。以て大國の小國を攻むるを禁止せんことを求むるも、既已に不可なり。以て上帝鬼神の福を千めんと欲するも、又た禍を得たり。上、之を堯舜禹湯文武の道に稽うるに、政、之に逆らう。下、之を桀紂幽厲の事に稽うるに、猶お節を合わするがごとし。若し此を以て觀れば、則ち厚葬久喪は、其れ聖王の道に非ざるなり。
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史記 扁鵲倉公列伝潘満如の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切するに深く小さく弱く、其の卒然として合合するなり。是れ脾気なり。右の脈口の気至ること緊小にして、瘕気を見るなり。次を以て相乗ず。故に三十日にして死す。三陰倶に摶つ者は、法の如し。倶には摶たざる者は、決は急期に在り。一たび摶ち一たび代はる者は、近し。故に其の三陰摶ち、血を溲すること前の如くして止む。陽虚侯の相趙章病み、臣意を召す。衆医皆以て寒中と為す。臣意其の脈を診して曰く、「迵風なり」と。迵風なる者は、飲食嗌を下りて輒ち出でて留まらず。法に曰く、「五日にして死す」と。而るに後十日にして乃ち死す。病は之を酒に得たり。趙章の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切するに、脈来ること滑なり。是れ内風の気なり。飲食嗌を下りて輒ち出でて留まらざる者は、法として五日にして死す。皆前の分界の法なり。後十日にして乃ち死し、期を過ぐる所以の者は、其の人粥を嗜む。故に中蔵実す。中蔵実す、故に期を過ぐ。師言ひて曰く、「穀に安んずる者は期を過ぎ、穀に安んぜざる者は期に及ばず」と。済北王病み、臣意を召して其の脈を診せしむ。曰く、「風蹶して胸満つ」と。即ち為に薬酒を為る。三石を尽くして、病已ゆ。之を汗出でて地に伏すに得たり。済北王の病を知る所以の者は、臣意其の脈を切する時、風気なり、心脈濁る。病法に「過ぎて其の陽に入り、陽気尽きて陰気入る」と。陰気入りて張れば、則ち寒気上りて熱気下る。故に胸満つ。汗出でて地に伏す者は、其の脈を切するに、気陰なり。陰気なる者は、病必ず中に入り、出づること瀺水に及ぶなり。斉の北宮司空の命婦出於病む。衆医皆以て風中に入り、病は主として肺に在りと為し、其の足の少陽の脈を刺す。臣意其の脈を診して曰く、「病は気疝にして、膀胱に客たり。前後に溲するに難くして、溺赤し。病寒気を見れば則ち遺溺し、人をして腹腫れしむ」と。出於の病は之を溺せんと欲して得ず、因りて以て接内するに得たり。
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