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甲陽軍鑑 / 品第十四

又信長長篠にて柵の木ゆひ給ふこと、强敵にあふて智畧賢き譽なるを、武田武者馬をいるゝと云ふ儀それも虛言なり、長篠合戰馬塲を十騎と並べて乘所にてなし、殊に信玄公の御時四年以前に、元龜三年壬申極月二十二日に、遠州みかたが原にて敵の大將家康三十一歳の時、信長衆も佐久間右衞門·平手·林·水野を始各來て此合戰にあふ、味方が原足がゝりなけれども、是にさへ馬をいれず候、それは敵にても家康衆よく存ずべし、尾州にても平手討死なれば、此衆は定めてしり候はん、馬をならべて入事あるは、先無案内なる批判なり、家康かた九手に餘そなへて、平手ともに十手なるが家康のうち、酒井左衞門丞の手に鎗あはずしてくづるゝ、其夜は九手ながらにて鑓のあふに、馬上にての鑓を鑓と申すべく候哉、是れもつて武家に未聞の取りさたなり、

新字:又信長長篠にて柵の木ゆひ給ふこと、強敵にあふて智略賢き誉なるを、武田武者馬をいるゝと云ふ儀それも虚言なり、長篠合戦馬塲を十騎と並べて乗所にてなし、殊に信玄公の御時四年以前に、元亀三年壬申極月二十二日に、遠州みかたが原にて敵の大将家康三十一歳の時、信長衆も佐久間右衛門·平手·林·水野を始各来て此合戦にあふ、味方が原足がゝりなけれども、是にさへ馬をいれず候、それは敵にても家康衆よく存ずべし、尾州にても平手討死なれば、此衆は定めてしり候はん、馬をならべて入事あるは、先無案内なる批判なり、家康かた九手に余そなへて、平手ともに十手なるが家康のうち、酒井左衛門丞の手に鎗あはずしてくづるゝ、其夜は九手ながらにて鑓のあふに、馬上にての鑓を鑓と申すべく候哉、是れもつて武家に未聞の取りさたなり、

書き下し

又信長長篠にて柵の木ゆひ給ふこと、强敵にあふて智略賢き誉なるを、武田武者馬をいるゝと云ふ儀それも虚言なり、長篠合戦馬塲を十騎と並べて乗所にてなし、殊に信玄公の御時四年以前に、元亀三年壬申極月二十二日に、遠州みかたが原にて敵の大将家康三十一歳の時、信長衆も佐久間右衛門·平手·林·水野を始各来て此合戦にあふ、味方が原足がゝりなけれども、是にさへ馬をいれず候、それは敵にても家康衆よく存ずべし、尾州にても平手討死なれば、此衆は定めてしり候はん、馬をならべて入事あるは、先無案内なる批判なり、家康かた九手に余そなへて、平手ともに十手なるが家康のうち、酒井左衛門丞の手に鎗あはずしてくづるゝ、其夜は九手ながらにて鑓のあふに、馬上にての鑓を鑓と申すべく候哉、是れもつて武家に未聞の取りさたなり、

現代語訳

また信長が長篠で柵の木を結われたことは、強敵にあって智略の賢い誉れであるのに、武田武者が馬を入れたという話、それも虚言である。長篠の合戦場は馬場を十騎と並べて乗れる所ではない。ことに信玄公の御時、四年前の元亀三年十二月二十二日に遠州三方ヶ原で、敵の大将家康が三十一歳の時、信長衆も佐久間右衛門・平手・林・水野をはじめ各々が来てこの合戦にあった。三方ヶ原は足がかりがなかったけれども、これにさえ馬を入れなかった。それは敵でも家康衆がよく知っているはずである。尾州でも平手が討死したので、この衆はきっと知っていよう。馬を並べて入れることがあるというのは、まず事情を知らない批判である。家康方は九手に余る備えで、平手とともに十手であったが、家康の内の酒井左衛門尉の手に鑓も合わずに崩れ、その夜は九手ながらで鑓を合わせたのに、馬上での鑓を鑓と申すべきであろうか。これをもって武家に未聞の取り沙汰である。

解説

長篠で武田が騎馬を並べて突っ込んだという話を、高坂は地形と先例から虚言と退ける。三方ヶ原でも馬を入れず、下馬して鑓を合わせたと、敵の家康衆も知っているはずだという。柵を結った信長の智略は認めつつ、事実でない誇張は正す。後世に流布する話ほど、当事者の証言や地形に当てて確かめる必要がある。誤った話が定着すると、敗因の分析そのものを誤らせることになる。

この章句が説くこと

虚言検証長篠三方ヶ原騎馬判断

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