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政談 / 當時制度之なき事

御先々前御代に易の御講釋拜聞仰せ付けられ、某登城して御講釋の座に列なりし時熟々とあたりを見廻したるに、御老中若老中も大名も御旗本百官無官ともに某等か衣服と何の變りもなし、之を見て餘りのことに淚こぼして茫然と成りたりしなり、兎角金さへあれば賤しき民も大名の如くしても何の咎めもなし、只悲しきは金を持たす手前惡ければ自から人に劣り肩身すほらしくなるは今の世界なり、これによりて人々我れ勝に奢りをして人に優らんとす、夫を見やう見まねに我れ立派をせん立派をせんと思ふより世間次第に奢りになり、其の奢り年久しければ風俗となり、其內に生るゝ人は奢りなりと云ふことを知らす、唯々有へき筈のことなりと思ふ、偖今の代には眞の禮と云ふものはなくて、小笠原と云ふ者を禮のやうに覺ゆるなり、

新字:御先々前御代に易の御講釈拝聞仰せ付けられ、某登城して御講釈の座に列なりし時熟々とあたりを見廻したるに、御老中若老中も大名も御旗本百官無官ともに某等か衣服と何の変りもなし、之を見て余りのことに涙こぼして茫然と成りたりしなり、兎角金さへあれば賤しき民も大名の如くしても何の咎めもなし、只悲しきは金を持たす手前悪ければ自から人に劣り肩身すほらしくなるは今の世界なり、これによりて人々我れ勝に奢りをして人に優らんとす、夫を見やう見まねに我れ立派をせん立派をせんと思ふより世間次第に奢りになり、其の奢り年久しければ風俗となり、其内に生るゝ人は奢りなりと云ふことを知らす、唯々有へき筈のことなりと思ふ、偖今の代には真の礼と云ふものはなくて、小笠原と云ふ者を礼のやうに覚ゆるなり、

書き下し

御先々前御代に易の御講釈拝聞仰せ付けられ、某登城して御講釈の座に列なりし時熟々とあたりを見廻したるに、御老中若老中も大名も御旗本百官無官ともに某等か衣服と何の変りもなし、之を見て余りのことに涙こぼして茫然と成りたりしなり、兎角金さへあれば賤しき民も大名の如くしても何の咎めもなし、只悲しきは金を持たす手前悪ければ自から人に劣り肩身すほらしくなるは今の世界なり、これによりて人々我れ勝に奢りをして人に優らんとす、夫を見やう見まねに我れ立派をせん立派をせんと思ふより世間次第に奢りになり、其の奢り年久しければ風俗となり、其内に生るゝ人は奢りなりと云ふことを知らす、唯々有へき筈のことなりと思ふ、偖今の代には真の礼と云ふものはなくて、小笠原と云ふ者を礼のやうに覚ゆるなり、

現代語訳

先々代の御代に易の御講釈を拝聴するよう仰せ付けられ、私が登城して御講釈の座に連なったとき、つくづくと辺りを見回すと、御老中・若年寄も大名も御旗本も、官位のある者もない者も、私どもの衣服と何の変わりもなかった。これを見て、あまりのことに涙をこぼして茫然となったのである。とにかく金さえあれば、賤しい民も大名のようにふるまって何の咎めもない。ただ悲しいのは、金を持たず暮らし向きが悪ければ、おのずと人に劣り、肩身が狭くみすぼらしくなるのが今の世の中である。これによって人々は我先にと奢りをして人に勝ろうとする。それを見よう見まねで、自分も立派にしよう、立派にしようと思うことから、世間はしだいに奢りになり、その奢りが長年続けば風俗となり、その中に生まれる人は、それが奢りだということを知らず、ただあって当然のことだと思う。さて今の代には真の礼というものはなく、小笠原(小笠原流の礼法)というものを礼のように思っているのである。

解説

徂徠自身の体験が語られる。将軍の前での易の講釈の座で、老中から無官の者まで衣服が自分と変わらないのを見て涙したという。身分の見分けがつかず、金の有無だけが人の格を決める世では、誰もが見栄の張り合いに走り、奢りは風俗となって、その中で育つ者には当たり前になる。この指摘は鋭い。組織でも、行き過ぎた慣行は代替わりするうちに誰も疑わなくなる。新しく入った人の違和感を、組織の健康診断として聞く仕組みを持ちたい。

この章句が説くこと

奢り風俗制度礼法見栄易

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