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政談 / 遊女河原者の種姓の分事並に乞食の締りの事

偖て穢多のたぐひに火を一つにせぬと云ふは神國の風俗是非なし、癩病人に火を一つとせぬと云ふこと聞えぬ事なり、孔子の門人にも德行の料に名を得たる丹伯牛もあるなり、わづらひなれば如何なる貴人にもあるまじきにもあらざるを、悲田院に棄てゝ火を一つにせざりし昔の風俗もかたくなに愚かなることなり、夫よりして乞食の類ひに火を一つにせぬと云ふこと聞えぬことなり、乞食は道心者と左まで變りのなきものなり、佛法にて釋迦のときの出家の仕方は皆乞食なり、肉食をも嫌はず人に熟食を乞ひ三衣一鉢より外に身に持たず、住する宿もなく樹下にも三宿せずと云ふこと是れ佛弟子の作法なり、今に至るまで律宗の比丘我が居る間にて火をたかぬは古熟食を乞ひて火をたき飯を拵へさる形はかりを遺したるなり、されば乞食は佛弟子の所作なり、これによりて雲居禪師は三年乞食の內に入て居られたり、善七は團左衛門手下なる故火を一つにせすと云ふことなれば、傾城野郞も團左衛門手下なるを、夫を搆はす唯々ゑりもとを見て思ひたる賤しき風俗と云へし、

新字:偖て穢多のたぐひに火を一つにせぬと云ふは神国の風俗是非なし、癩病人に火を一つとせぬと云ふこと聞えぬ事なり、孔子の門人にも徳行の料に名を得たる丹伯牛もあるなり、わづらひなれば如何なる貴人にもあるまじきにもあらざるを、悲田院に棄てゝ火を一つにせざりし昔の風俗もかたくなに愚かなることなり、夫よりして乞食の類ひに火を一つにせぬと云ふこと聞えぬことなり、乞食は道心者と左まで変りのなきものなり、仏法にて釈迦のときの出家の仕方は皆乞食なり、肉食をも嫌はず人に熟食を乞ひ三衣一鉢より外に身に持たず、住する宿もなく樹下にも三宿せずと云ふこと是れ仏弟子の作法なり、今に至るまで律宗の比丘我が居る間にて火をたかぬは古熟食を乞ひて火をたき飯を拵へさる形はかりを遺したるなり、されば乞食は仏弟子の所作なり、これによりて雲居禅師は三年乞食の内に入て居られたり、善七は団左衛門手下なる故火を一つにせすと云ふことなれば、傾城野郎も団左衛門手下なるを、夫を搆はす唯々ゑりもとを見て思ひたる賤しき風俗と云へし、

書き下し

偖て穢多のたぐひに火を一つにせぬと云ふは神国の風俗是非なし、癩病人に火を一つとせぬと云ふこと聞えぬ事なり、孔子の門人にも徳行の料に名を得たる丹伯牛もあるなり、わづらひなれば如何なる貴人にもあるまじきにもあらざるを、悲田院に棄てゝ火を一つにせざりし昔の風俗もかたくなに愚かなることなり、夫よりして乞食の類ひに火を一つにせぬと云ふこと聞えぬことなり、乞食は道心者と左まで変りのなきものなり、仏法にて釈迦のときの出家の仕方は皆乞食なり、肉食をも嫌はず人に熟食を乞ひ三衣一鉢より外に身に持たず、住する宿もなく樹下にも三宿せずと云ふこと是れ仏弟子の作法なり、今に至るまで律宗の比丘我が居る間にて火をたかぬは古熟食を乞ひて火をたき飯を拵へさる形はかりを遺したるなり、されば乞食は仏弟子の所作なり、これによりて雲居禅師は三年乞食の内に入て居られたり、善七は団左衛門手下なる故火を一つにせすと云ふことなれば、傾城野郎も団左衛門手下なるを、夫を搆はす唯々ゑりもとを見て思ひたる賤しき風俗と云へし、

現代語訳

さて、穢多の類いと火を一緒にしないというのは、神国の風俗で是非もない。だが癩病の人と火を一緒にしないというのは筋の通らないことである。孔子の門人にも、徳行で名を得た冉伯牛(ぜんはくぎゅう、悪疾を患ったと伝えられる)がいる。病気であれば、どんな貴い人でもかからないとは限らないのに、悲田院に棄てて火を一緒にしなかった昔の風俗も、頑なで愚かなことである。そこから乞食の類いと火を一緒にしないというのも筋の通らないことである。乞食は道心者とそれほど変わりのないものである。仏法では、釈迦の時代の出家のあり方はみな乞食であった。肉食も嫌わず、人に煮炊きした食べ物を乞い、三衣一鉢(三枚の衣と一つの鉢)のほかは身に持たず、住む宿もなく、同じ木の下に三晩と泊まらないというのが仏弟子の作法である。今に至るまで律宗の比丘が自分の居所で火を焚かないのは、昔、煮炊きした食を乞うて自ら火を焚いて飯を作らなかった形だけを残したものである。そうであれば、乞食は仏弟子の所作である。それゆえ雲居禅師(江戸初期の禅僧)は三年の間、乞食の中に入っておられた。善七は団左衛門の手下なので火を一緒にしないということなら、傾城(遊女)や野郎も団左衛門の手下なのに、それは構わずにいる。ただ表面の身なりを見て思い込んだ賤しい風俗というべきである。

解説

病者や乞食を「火を一つにせぬ」と隔てる慣習を、筋が通らないと退けた条である。徂徠は孔子の高弟冉伯牛も悪疾を患ったことを挙げ、病は貴人にも及ぶもので、隔離して棄てるのは愚かだと言い切る。さらに釈迦の弟子はみな托鉢で生きたのだから乞食は仏弟子の所作だと論じ、遊女は咎めず乞食だけを隔てる矛盾も突く。穢多への差別は是非なしとして残しており、時代の限界は明らかである。それでも、外見で人を判断する「ゑりもと」の風俗への批判は、今日の偏見を点検する鏡になる。

この章句が説くこと

偏見差別乞食仏法孔子慣習

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