三字経 / 『三字経』南北朝から隋唐へ
宋齊繼,梁陳承,為南朝,都金陵; 北元魏,分東西,宇文周,與高齊; 迨至隋,一土宇,不再傳,失統緒。 唐高祖,起義師,除隋亂,創國基。 二十傳,三百載,梁滅之,國乃改;
新字:宋斉継,梁陳承,為南朝,都金陵; 北元魏,分東西,宇文周,与高斉; 迨至隋,一土宇,不再伝,失統緒。 唐高祖,起義師,除隋乱,創国基。 二十伝,三百載,梁滅之,国乃改;
書き下し
宋・斉継ぎ、梁・陳承け、南朝と為り、金陵に都す。 北の元魏は、東西に分かれ、宇文の周と、高氏の斉あり。 隋に迨至りて、一たび土宇を一にするも、再び伝えず、統緒を失う。 唐の高祖、義師を起こし、隋の乱を除き、国基を創る。 二十伝、三百載、梁これを滅ぼし、国乃ち改まる。
現代語訳
宋と斉が続き、梁と陳が受け継いで南朝となり、金陵に都を置きました。 北では元氏の魏が東西に分かれ、宇文氏の周と、高氏の斉が立ちました。 隋に至って、ひとたび天下が統一されましたが、二代で続かず、系統を失いました。 唐の高祖が義の軍を起こし、隋末の乱を除いて、国の基を築きました。 二十代、三百年続いて、梁が滅ぼし、国号が改まりました。
解説
南北朝から隋の統一、唐の創業と滅亡までの長い流れを短くまとめています。南朝の都は金陵、今の南京に当たります。隋は統一したものの、わずか二代で終わりました。唐は三百年近く続き、これは歴代でも長い部類です。短命な統一と長命な王朝を並べて見ると、規模を急に拡大しても基盤が追いつかなければ崩れるという点が見えてきます。急成長した会社が内部の仕組みの整備に追われる話と重なります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
南北朝隋唐高祖金陵統緒
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