柳子新論抄録 / 山縣昌貞の識・古い函から見つかった書の由来
駒嶽之陽。鞴水之曲。吾家居之六世焉。享保之初數被水患。修築不及。因移其宅。故地種以菽麥。畝間偶獲一石函。中藏錢刀。皆元明以上所鑄者。函底有一古書。題曰柳子新論。腐爛之餘。不便披閲。先人乃謄寫一本。凡十三篇。當時旣有歷校定者云。後廿餘歲。先人沒矣。余得而讀之。其言率論政體可不。間有可取者焉。亦多憤勵之語。意者中葉以降之作耶。觀其斥耶蘇。幾何之類。蓋亦有織田之時耶。按之國史傳記。勝國以上。姓柳者不一而足。則亦未以定何人所爲也。余且惜衰亂之際尚能有斯人。亦有斯文。而湮滅至于此也。但以先人手澤存焉。憚示諸外人。於是更繕寫一本爲副。共藏之巾笥。庶乎俟良友論定。以爲永世家藏也。寶曆己卯春二月峽中 山縣昌貞識
新字:駒嶽之陽。鞴水之曲。吾家居之六世焉。享保之初数被水患。修築不及。因移其宅。故地種以菽麦。畝間偶獲一石函。中蔵銭刀。皆元明以上所鋳者。函底有一古書。題曰柳子新論。腐爛之余。不便披閲。先人乃謄写一本。凡十三篇。当時既有歴校定者云。後廿余歳。先人没矣。余得而読之。其言率論政体可不。間有可取者焉。亦多憤励之語。意者中葉以降之作耶。観其斥耶蘇。幾何之類。蓋亦有織田之時耶。按之国史伝記。勝国以上。姓柳者不一而足。則亦未以定何人所為也。余且惜衰乱之際尚能有斯人。亦有斯文。而湮滅至于此也。但以先人手沢存焉。憚示諸外人。於是更繕写一本為副。共蔵之巾笥。庶乎俟良友論定。以為永世家蔵也。宝暦己卯春二月峡中 山県昌貞識
書き下し
駒嶽の陽、鞴水の曲に、吾が家居ること六世なり。享保の初め、數しば水患を被り、修築及ばず。因りて其の宅を移し、故地に種うるに菽麥を以てす。畝間に偶たま一つの石函を獲たり。中に錢刀を藏す。皆元明以上の鑄る所の者なり。函底に一古書有り。題して柳子新論と曰ふ。腐爛の餘、披閲に便ならず。先人乃ち謄寫して一本と爲す。凡そ十三篇。當時旣に歷校定する者有りと云ふ。後廿餘歲にして、先人沒す。余得て之を讀む。其の言は率ね政體の可不を論ず。間ま取るべき者有り、亦憤勵の語多し。意ふに中葉以降の作か。其の耶蘇、幾何の類を斥くるを觀れば、蓋し亦織田の時有るか。國史傳記に按ずるに、勝國以上、姓の柳なる者一つにして足らず、則ち亦未だ以て何人の爲る所なるかを定めず。余且つ惜しむ、衰亂の際に尚ほ能く斯の人有り、亦斯の文有りて、湮滅して此に至れることを。但だ先人の手澤存するを以て、諸を外人に示すを憚る。是に於いて更に一本を繕寫して副と爲し、共に之を巾笥に藏す。庶はくは良友の論定を俟ち、以て永世の家藏と爲さん。寶曆己卯春二月、峽中山縣昌貞識す。
現代語訳
駒ヶ岳の南、鞴水(ふいごみず)のほとりに、わが家は六代にわたって住んできました。享保の初め、たびたび水害を受け、修築が間に合いませんでした。そこで家を移し、元の地には豆や麦を植えました。畑の畝の間でたまたま一つの石の箱を見つけました。中には銭と刀が納められていて、いずれも元・明以前に鋳造されたものでした。箱の底に一冊の古い書があり、題を『柳子新論』といいました。腐り傷んでおり、広げて読むには不便でした。亡き父がそこで書き写して一本にしました。全部で十三篇です。当時すでに校訂して定めた者がいたといいます。その後二十年余りして父は亡くなり、私がこれを得て読みました。その内容は、おおむね政治のあり方の可否を論じています。ところどころ取るべきところがあり、憤りを励ます言葉が多くあります。思うに中世以降の作でしょうか。耶蘇(キリスト教)や幾何(幾何学)の類を退けているのを見ると、織田の時代のものかもしれません。国史や伝記に当たると、前の世代以前に、姓が柳の者は一人ではなく、誰の作かはまだ定められません。私は、衰え乱れた時代にこのような人がいて、このような文があったのに、埋もれて滅びかけたことを惜しみます。ただ亡き父の手の跡が残っているので、外の人に示すのはためらわれます。そこでさらに一本を写して副本とし、ともに巾笥(書物箱)に納めました。よき友に論じて定めてもらうのを待ち、永く家の蔵書としたいと思います。宝暦己卯(1759年)の春二月、峡中の山縣昌貞が記す。
解説
この章句が説くこと
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