柳子新論抄録 / 勧士・才能を生かす登用と士を勧める道
靡々褻慢。中冓之言。尚可聞也。斯言之鄙。不可聞也。亦唯上之所好。下必有甚焉者。則其移風易俗。疾於置郵傳命。諸如此類。可恥而不愧。可惡而不憎。士氣之衰窮矣。夫士非忠信。則不可以與政。非廉恥則不可以處事。此四者志以固之。氣以達之。若志氣兩衰。則皮之不存。毛將何屬果如此耶。假令其有才有藝。文以衣冠。而唯是優孟耳。何以爲君子。何以爲士夫。是豈非編伍無法而雜于猶良之弊耶。唯如巫醫百工與藝苑衆技之流。則有異焉者。何則以其爲國家之用也。夫人之於技藝有好惡。斯有能不。其好而能焉。則妙手或稱奇異。不好能焉。則薰習由紛。奚可以誣乎。故先王之立敎。有師有官。選而擧之。登而庸之。而後天下無有遺才矣。叔世則不然。凡名一才一藝者。幸一蒙擢拔。則無問能與不能。子孫奕葉。相嗣爲一家之業。欲已而不能。是以强治其事。則不以此爲桎梏者。蓋鮮矣。亦奚得能窮其蘊而成其名者乎哉。後世官家。寥々乎無出奇才。而素餐居多者。職此之由。且也技藝之有嗜好。不徒如酒色。則布衣韋帶之士。破產學屠龍之術。殺身習彫蟲之事者。比肩接武乎宇宙之間。則其在今日。篳門圭竇寧無俶儻豪邁之才哉。而唯是冀兆之群。未曾遇伯樂一顧。則慷慨悲歌。徒憤怨于岩穴艸莽之中者。亦幾計人也。昔者燕王聽郭隗之言。而能信駿骨値千金。則天下之賢士無不應其徵矣。可見好賢之至驗。疾於影響焉。雖今之時。苟有能好之如燕王者。士亦豈不願造其門哉。唯夫科擧之無法。而使能者屈而不伸。不能者强爲不欲之事。而貴以無其人者何耶。是特揚無益于國家者。而抑有用于天下者。曷以爲勸士之道。亦曷以爲安民之道也。
新字:靡々褻慢。中冓之言。尚可聞也。斯言之鄙。不可聞也。亦唯上之所好。下必有甚焉者。則其移風易俗。疾於置郵伝命。諸如此類。可恥而不愧。可悪而不憎。士気之衰窮矣。夫士非忠信。則不可以与政。非廉恥則不可以処事。此四者志以固之。気以達之。若志気両衰。則皮之不存。毛将何属果如此耶。仮令其有才有芸。文以衣冠。而唯是優孟耳。何以為君子。何以為士夫。是豈非編伍無法而雑于猶良之弊耶。唯如巫医百工与芸苑衆技之流。則有異焉者。何則以其為国家之用也。夫人之於技芸有好悪。斯有能不。其好而能焉。則妙手或称奇異。不好能焉。則薫習由紛。奚可以誣乎。故先王之立教。有師有官。選而挙之。登而庸之。而後天下無有遺才矣。叔世則不然。凡名一才一芸者。幸一蒙擢抜。則無問能与不能。子孫奕葉。相嗣為一家之業。欲已而不能。是以強治其事。則不以此為桎梏者。蓋鮮矣。亦奚得能窮其蘊而成其名者乎哉。後世官家。寥々乎無出奇才。而素餐居多者。職此之由。且也技芸之有嗜好。不徒如酒色。則布衣韋帯之士。破産学屠竜之術。殺身習彫虫之事者。比肩接武乎宇宙之間。則其在今日。篳門圭竇寧無俶儻豪邁之才哉。而唯是冀兆之群。未曽遇伯楽一顧。則慷慨悲歌。徒憤怨于岩穴艸莽之中者。亦幾計人也。昔者燕王聴郭隗之言。而能信駿骨値千金。則天下之賢士無不応其徴矣。可見好賢之至験。疾於影響焉。雖今之時。苟有能好之如燕王者。士亦豈不願造其門哉。唯夫科挙之無法。而使能者屈而不伸。不能者強為不欲之事。而貴以無其人者何耶。是特揚無益于国家者。而抑有用于天下者。曷以為勧士之道。亦曷以為安民之道也。
書き下し
靡々褻慢、中冓の言も、尚ほ聞くべきなり。斯の言の鄙なるは、聞くべからざるなり。亦唯だ上の好む所、下に必ず甚だしき者有れば、則ち其の風を移し俗を易ふること、置郵傳命より疾し。諸れ此の如きの類、恥づべくして愧ぢず、惡むべくして憎まず、士氣の衰へ窮まれり。夫れ士は忠信に非ざれば、則ち以て政に與るべからず。廉恥に非ざれば、則ち以て事に處るべからず。此の四者は志以て之を固くし、氣以て之を達す。若し志氣兩つながら衰ふれば、則ち皮の存せざる、毛將に何にか屬せんとす。果して此の如くならんや。假令ひ其れ才有り藝有り、文るに衣冠を以てするも、唯だ是れ優孟のみ。何を以て君子と爲し、何を以て士夫と爲さんや。是れ豈に編伍に法無くして、猶良に雜はるの弊に非ずや。唯だ巫醫百工と藝苑衆技の流の如きは、則ち異なる者有り。何となれば、其の國家の用爲るを以てなり。夫れ人の技藝に於けるや好惡有り。斯に能不有り。其の好みて能くすれば、則ち妙手或いは奇異と稱せらる。好まずして能くすれば、則ち薰習紛に由る。奚ぞ以て誣ふべけんや。故に先王の敎を立つる、師有り官有り、選びて之を擧げ、登して之を庸ふ。而る後に天下に遺才有ること無きなり。叔世は則ち然らず。凡そ一才一藝を名づくる者、幸ひに一たび擢拔を蒙れば、則ち能と不能とを問ふこと無く、子孫奕葉、相嗣ぎて一家の業と爲す。已めんと欲して能はず。是を以て强ひて其の事を治むれば、則ち此を以て桎梏と爲さざる者、蓋し鮮なし。亦奚ぞ能く其の蘊を窮めて其の名を成す者を得んや。後世の官家、寥々乎として奇才を出す無く、素餐居ること多きは、職として此に之れ由る。且つや技藝の嗜好有るは、徒に酒色の如くならざれば、則ち布衣韋帶の士、產を破りて屠龍の術を學び、身を殺して彫蟲の事を習ふ者、肩を比べ武を接して宇宙の間に在り。則ち其の今日に在りては、篳門圭竇、寧ぞ俶儻豪邁の才無からんや。而るに唯だ是れ冀兆の群、未だ曾て伯樂の一顧に遇はず、則ち慷慨悲歌して、徒に岩穴艸莽の中に憤怨する者、亦た幾ばくか人を計らんや。昔者燕王郭隗の言を聽きて、能く駿骨を千金に値すと信ず。則ち天下の賢士其の徵に應ぜざる無し。好賢の至驗、影響よりも疾きを見るべし。今の時と雖も、苟くも能く之を好むこと燕王の如き者有らば、士も亦豈に其の門に造らんことを願はざらんや。唯だ夫れ科擧の法無く、能者をして屈して伸びざらしめ、不能者をして强ひて不欲の事を爲さしめ、而して貴ぶに其の人無きを以てするは何ぞや。是れ特に國家に益無き者を揚げて、天下に用有る者を抑ふ。曷ぞ以て士を勸むるの道と爲し、亦曷ぞ以て民を安んずるの道と爲さんや。
現代語訳
だらしなくなれ馴れしい言葉や、閨房のひそひそ話でも、まだ聞くことができます。しかしこの(芸人たちの)言葉の卑しさは、聞くに堪えません。ただ、上の者が好むことは、下の者が必ずそれを激しく行うものですから、風俗を移し変える速さは、早馬で伝える命令よりも速いのです。こうしたことは、恥じるべきなのに恥じず、憎むべきなのに憎まず、士気の衰えは極まりました。士は忠信がなければ政治に関与できず、廉恥がなければ事に当たれません。この四つは、志で固め、気で行き届かせます。もし志と気がともに衰えれば、皮がなくなれば毛がどこにつくでしょう(基盤を失うということです)。たとえ才や芸があり、衣冠で飾っていても、ただの役者にすぎません。これでどうして君子といえ、士大夫といえるでしょうか。これは、戸籍の編成に法がなく、良と雑が混じり合う弊害ではないでしょうか。ただ、巫・医・職人や芸能の技の人々は異なります。なぜなら、国家の役に立つからです。人は技芸に好き嫌いがあり、そこに能と不能があります。好んでよくすれば、名手は奇才とも称されます。好まずにするなら、修練は乱れます。偽ることはできません。ですから先王は教えを立て、師と官を置き、選んで挙げ、登用しました。その結果、天下に遺された才能はありませんでした。末世はそうではありません。一つの才・一つの芸で名を知られた者が、幸いに一度抜擢されると、能力の有無を問わず、子孫が代々継いで一家の業とします。やめたくてもできません。そこで無理にその事を治めれば、それを足かせと思わない者はまれです。どうしてその奥義を極めて名を成す者が得られるでしょうか。後世の官家に、優れた才が出ず、無為徒食の者が多いのは、まさにこのためです。しかも技芸への嗜好は、酒や色の好みのようなものではないので、庶民の士で、財産を傾けて竜を屠る技を学び、身をすり減らして小技を習う者が、肩を並べ足を接して世にいるでしょう。今日にあっても、粗末な家に才気あふれる人がいないはずはありません。それなのに、民の群れは一度も伯楽(名馬を見抜く人)の目に留まらず、憤り悲しんで歌い、岩穴や草むらの中でむなしく怒る者が、どれほどいることでしょう。昔、燕王は郭隗の言葉を聞いて、名馬の骨に千金を払えると信じました。すると天下の賢士はみなその招きに応じました。賢者を好む験(しるし)は、影や響きよりも速く現れるものです。今の時でも、燕王のように賢者を好む者がいれば、士もまたその門を訪れることを望むでしょう。ただ、科挙の法がなく、有能な者が屈して伸びず、無能な者が好まない仕事を無理にさせられ、貴ぶのにその人がいないのはなぜでしょうか。これは国家に益のない者を引き上げ、天下に役立つ者を抑えるものです。どうしてこれを士を勧める道とでき、民を安んじる道とできましょうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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史記 呉王濞列伝司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。
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『長短経』知人〔桓範曰く「夫れ帝王の君、歴代相踵ぎ、覇王の賢に任ずるを慕い、亡国の士を失うを悪まざるは莫し。然り而して猶お凶愚に任を授け、破亡相属くは、其の故は何ぞや。人を取るに道に合うを求めずして、己に合うを求むるに由るなり」と。
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史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
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史記 張丞相列伝年十歳なり。高祖、即(も)し万歳の後に全からざらんことを憂ふ。趙堯は年少くして、符璽御史為り。趙人方与公、御史大夫周昌に謂ひて曰く、「君の史趙堯は、年少しと雖も、然れども奇才なり。君必ず之を異とせよ。是れ且に君の位に代はらんとす」と。周昌笑ひて曰く、「堯は年少く、刀筆の吏のみ。何ぞ能く是に至らんや」と。居ること頃之(しばらく)して、趙堯、高祖に侍す。高祖独り心楽しまず、悲歌す。群臣、上の然る所以を知らず。趙堯進みて請ひ問ひて曰く、「陛下の楽しまざる所以は、趙王年少くして戚夫人と呂后と卻(げき)有るが為に非ずや。万歳の後に趙王自ら全うすること能はざらんことを備ふるにあらずや」と。高祖曰く、「然り。吾私かに之を憂ふれども、出づる所を知らず」と。堯曰く、「陛下独り宜しく趙王の為に貴彊の相を置くべし。呂后・太子・群臣の素より敬憚する所に及べば乃ち可なり」と。高祖曰く、「然り。吾之を念ひて是くの如くせんと欲す。而れども群臣誰か可なる者ぞ」と。堯曰く、「御史大夫周昌、其の人堅忍質直にして、且つ呂后・太子及び大臣より皆素より之を敬憚す。独り昌のみ可なり」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち周昌を召して、謂ひて曰く、「吾固く公を煩はさんと欲す。公彊ひて我が為に趙王に相たれ」と。周昌泣きて曰く、「臣初めて起ちて陛下に従ふ。陛下独り柰何ぞ中道にして之を諸侯に棄つるや」と。高祖曰く、「吾極めて其の左遷なるを知る。然れども吾私かに趙王を憂ふ。念ふに公に非ずんば可なる者無し。公已むを得ず彊ひて行け」と。是に於て御史大夫周昌を徙して趙の相と為す。既に行きて之を久しくして、高祖御史大夫の印を持ちて之を弄びて曰く、「誰か以て御史大夫と為すべき者ぞ」と。趙堯を孰視して曰く、「以て堯に易ふる無し」と。遂に趙堯を拝して御史大夫と為す。堯も亦前に軍功の食邑有り。御史大夫を以て従ひて陳豨を撃ちて功有るに及び、封ぜられて江邑侯と為る。高祖崩じ、呂太后、使をして趙王を召さしむ。其の相周昌、王をして疾と称して行かざらしむ。
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