呂氏春秋 / 長見④
呂太公望封於齊,周公旦封於魯,二君者甚相善也。相謂曰“何以治國”?太公望曰:“尊賢上功。”周公旦曰:“親親上恩。”太公望曰:“魯自此削矣。”周公旦曰:“魯雖削,有齊者亦必非呂氏也。”其後齊日以大,至於霸,二十四世而田成子有齊國;魯日以削,至於覲存,三十四世而亡。
新字:呂太公望封於斉,周公旦封於魯,二君者甚相善也。相謂曰“何以治国”?太公望曰:“尊賢上功。”周公旦曰:“親親上恩。”太公望曰:“魯自此削矣。”周公旦曰:“魯雖削,有斉者亦必非呂氏也。”其後斉日以大,至於覇,二十四世而田成子有斉国;魯日以削,至於覲存,三十四世而亡。
書き下し
呂太公望、齊に封ぜられ、周公旦、魯に封ぜらる。二君は甚だ相善し。相謂いて曰く、「何を以て國を治めん。」太公望曰く、「賢を尊び功を上ばん。」周公旦曰く、「親を親しみ恩を上ばん。」太公望曰く、「魯、此れ自り削られん。」周公旦曰く、「魯削らると雖も、齊を有つ者も亦た必ず呂氏に非ざらん。」其の後齊は日に以て大に、霸に至り、二十四世にして田成子、齊國を有てり。魯は日に以て削られ、覲存に至り、三十四世にして亡ぶ。
現代語訳
呂の太公望は斉に封ぜられ、周公旦は魯に封ぜられました。二君はたいそう仲がよく、互いに問いました、「どうやって国を治めるか」。太公望は「賢者を尊び、功績ある者を重んじよう」と言いました。周公旦は「親族を親しみ、恩義を重んじよう」と言いました。太公望は「魯はこれからしだいに衰えるだろう」と言いました。周公旦は「魯は衰えるとしても、斉を保つ者もまた必ずや呂氏ではなくなるだろう」と言いました。その後、斉は日ましに大きくなり、覇者にまで至りましたが、二十四代目に田成子が斉の国を奪い取りました。魯は日ましに衰え、かろうじて存続するだけになり、三十四代目に滅びました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『淮南子』齊俗訓昔 太公望・周公旦 封を受けて相い見ゆ。太公 周公に問いて曰く、「何を以て魯を治むるか」と。周公曰く、「尊きを尊び親しきを親しむ」と。太公曰く、「魯は此れより弱からん」と。周公 太公に問いて曰く、「何を以て齊を治むるか」と。太公曰く、「賢を舉げて功を上ぶ」と。周公曰く、「後世 必ず劫殺の君有らん」と。其の後、齊は日々に以て大に、霸に至り、二十四世にして田氏 之に代わる。魯は日々に以て削られ、三十二世に至りて亡ぶ。故に『易』に曰く、「霜を履めば、堅冰 至る」と。聖人の終始を見ること微なるかな。故に糟丘は象箸より生じ、炮烙は熱斗より生ず。子路 溺るるを撜いて牛の謝を受く。孔子曰く、「魯國 必ず人を患いより救うを好まん」と。子贛 人を贖いて金を府より受けず。孔子曰く、「魯國 復た人を贖わざらん」と。子路は受けて德を勸め、子贛は讓りて善を止む。孔子の明、小を以て大を知り、近きを以て遠きを知る。論に通ずる者なり。
-
『智囊』知微・周公・姜太公太公が斉に封ぜられ、五月にして政を報じた。周公は曰く、「何と速いのか」と。曰く、「吾はその君臣を簡にし、礼はその俗に従わせたのです」と。伯禽は魯に至り、三年にして政を報じた。周公は曰く、「何と遅いのか」と。曰く、「その俗を変え、その礼を革め、喪は三年にして後に除かせました」と。周公は曰く、「後世、其れ北面して斉に事えようか。そもそも政は簡ならず易ならざれば、民は近づけない。平易にして民に近づけば、民は必ず帰する」と。周公が太公に何を以て斉を治めるかと問うと、曰く、「賢を尊んで功を尚びます」と。周公は曰く、「後世に必ず篡弑の臣が有ろう」と。太公が周公に何を以て魯を治めるかと問うと、曰く、「賢を尊んで親を尚びます」と。太公は曰く、「後に寝弱しよう」と。〔馮述評〕二公は斉・魯の敝を数百年の後に断じながら、預め維ぐことができなかった。維ぐことを欲しなかったのではなく、治道の為すべき所がここに止まるのみだからである。帝王の法といえども、固より久しくして敝れないものは未だない。敝れてこれを更めることも、後の人に俟つだけである。ゆえに孔子に「斉を変え、魯を変える」との説がある。陸葵日は曰く、「もし夫子の志が行われたならば、姫・呂の言は験されなかっただろう」と。そもそも孔子が果たして志を行ったとしても、今の斉・魯を変えて昔の斉・魯にするに過ぎず、二公に勝ることは必ずしもない。二公の子孫が、苟しくも日々二公の言に儆懼するならば、どうして孔子の出るのを俟って始めて変を議することがあろうか。
-
史記 魯周公世家魯公伯禽の初めて封を受けて魯に之くや、三年にして後に政を周公に報ず。周公曰く、「何ぞ遅きや」と。伯禽曰く、「其の俗を変じ、其の礼を革む、喪三年にして然る後に之を除く、故に遅し」と。太公も亦た斉に封ぜらる、五月にして政を周公に報ず。周公曰く、「何ぞ疾きや」と。曰く、「吾其の君臣の礼を簡にし、其の俗に従ひて為すのみ」と。乃ち嘆じて曰く、「嗚呼、魯の後世其れ北面して斉に事へんかな。夫れ政簡ならず易ならざれば、民近づく有らず、平易にして民に近づけば、民必ず之に帰す」と。
-
説苑・政理延陵季子、晋に游ぶ。其の境に入りて曰く、「嘻、暴なるかな国や。」其の都に入りて曰く、「嘻、力屈するかな、国や。」其の朝に立ちて曰く、「嘻、乱れたるかな国や。」従者曰く、「夫子の境に入りてより未だ久しからざるに、何ぞ其の名づくることの疑わざるや。」延陵季子曰く、「然り。吾其の境に入るに田畝荒穢して休まらず、雑草崇高を増す、吾是を以て其の国の暴なるを知る。吾其の都に入るに、新室悪くして故室美しく、新牆卑くして故牆高し、吾是を以て其の民力の屈するを知る。吾其の朝に立つに、君能く視れども下問せず、其の臣善く伐れども上諫めず、吾是を以て其の国の乱るるを知る。」斉の魯に如かざる所以は、太公の賢、伯禽に如かざればなり。伯禽と太公と俱に封を受け、各々其の国に之くこと三年にして、太公来朝す。周公問いて曰く、「何ぞ治むることの疾きや。」対えて曰く、「賢を尊び、疏を先にして親を後にし、義を先にして仁を後にす。」此れ覇者の跡なり。周公曰く、「太公の沢五世に及ばん。」五年にして伯禽来朝す。周公問いて曰く、「何ぞ治むることの難きや。」対えて曰く、「親を親しみ、内を先にして外を後にし、仁を先にして義を後にす。」此れ王者の跡なり。周公曰く、「魯の沢十世に及ばん。」故に魯に王者の跡有るは仁厚なればなり。斉に覇者の跡有るは武政なればなり。
-
呂氏春秋・長利③辛寬、魯の繆公に見えて曰く、「臣、而今而後、吾が先君周公の太公望の封の知に若かざるを知るなり。昔者、太公望、營丘に封ぜらる。海に渚ぎられ山に阻まれ、險固の地なり、是の故に地は日々に廣く、子孫彌々隆し。吾が先君周公は魯に封ぜらる。山林谿谷の險無く、諸侯四面よりして以て達す。是の故に地日々に削られ、子孫彌々殺う。」辛寬出づ。南宮括入りて見ゆ。公曰く、「今、寬や周公を非る。其の辭是の若きなり。」南宮括對えて曰く、「寬は少者にして、識らざるなり。君獨り成王の成周を定むるの說を聞かざるか。其の辭に曰く、『惟れ余一人、居を成周に營む。惟れ余一人、善有れば得て見れ易く、不善有れば得て誅せられ易きなり。』故に曰く、『善者は之を得、不善者は之を失うは、古の道なり。』夫れ賢者は豈に其の子孫の山林の險を阻みて以て長く無道を為すを欲せんや。小人なるか寬や。」今、燕爵をして鴻鵠鳳皇の慮を為さしめば、則ち必ず得ず。其の求むる所の者は、瓦の間隙、屋の翳蔚なり。一たび舉ぐれば則ち千里の志有るも、德盛ならず、義大ならずんば、則ち其の郊に至らざるに、與れぞ。
-
史記 斉太公世家太史公曰く、「吾斉に適き、膏壤二千里、其の民闊達にして匿知多し、其の天性なり。太公の聖を以て、国本を建て、桓公の盛にして、善政を修め、以て諸侯の会盟を為し、伯と称す、亦た宜ならずや。洋洋たるかな、固より大国の風なり」と。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る