説苑 / 政理
延陵季子游於晉,入其境曰:「嘻,暴哉國乎!」入其都曰:「嘻,力屈哉,國乎!」立其朝曰:「嘻,亂哉國乎!」從者曰:「夫子之入境未久也,何其名之不疑也?」延陵季子曰:「然,吾入其境田畝荒穢而不休,雜增崇高,吾是以知其國之暴也。吾入其都,新室惡而故室美,新牆卑而故牆高,吾是以知其民力之屈也。吾立其朝,君能視而不下問,其臣善伐而不上諫,吾是以知其國之亂也。齊之所以不如魯者,太公之賢不如伯禽,伯禽與太公俱受封,而各之國三年,太公來朝,周公問曰:「何治之疾也?」對曰:「尊賢,先疏後親,先義後仁也。」此霸者之跡也。周公曰:「太公之澤及五世。」五年伯禽來朝,周公問曰:「何治之難?」對曰:「親親者,先內後外,先仁後義也。」此王者之跡也。周公曰:「魯之澤及十世。」故魯有王跡者,仁厚也;齊有霸跡者,武政也;齊之所以不如魯也,太公之賢不如伯禽也。
新字:延陵季子游於晉,入其境曰:「嘻,暴哉国乎!」入其都曰:「嘻,力屈哉,国乎!」立其朝曰:「嘻,乱哉国乎!」従者曰:「夫子之入境未久也,何其名之不疑也?」延陵季子曰:「然,吾入其境田畝荒穢而不休,雑增崇高,吾是以知其国之暴也。吾入其都,新室悪而故室美,新牆卑而故牆高,吾是以知其民力之屈也。吾立其朝,君能視而不下問,其臣善伐而不上諫,吾是以知其国之乱也。斉之所以不如魯者,太公之賢不如伯禽,伯禽与太公倶受封,而各之国三年,太公来朝,周公問曰:「何治之疾也?」対曰:「尊賢,先疏後親,先義後仁也。」此覇者之跡也。周公曰:「太公之沢及五世。」五年伯禽来朝,周公問曰:「何治之難?」対曰:「親親者,先内後外,先仁後義也。」此王者之跡也。周公曰:「魯之沢及十世。」故魯有王跡者,仁厚也;斉有覇跡者,武政也;斉之所以不如魯也,太公之賢不如伯禽也。
書き下し
延陵季子、晋に游ぶ。其の境に入りて曰く、「嘻、暴なるかな国や。」其の都に入りて曰く、「嘻、力屈するかな、国や。」其の朝に立ちて曰く、「嘻、乱れたるかな国や。」従者曰く、「夫子の境に入りてより未だ久しからざるに、何ぞ其の名づくることの疑わざるや。」延陵季子曰く、「然り。吾其の境に入るに田畝荒穢して休まらず、雑草崇高を増す、吾是を以て其の国の暴なるを知る。吾其の都に入るに、新室悪くして故室美しく、新牆卑くして故牆高し、吾是を以て其の民力の屈するを知る。吾其の朝に立つに、君能く視れども下問せず、其の臣善く伐れども上諫めず、吾是を以て其の国の乱るるを知る。」斉の魯に如かざる所以は、太公の賢、伯禽に如かざればなり。伯禽と太公と俱に封を受け、各々其の国に之くこと三年にして、太公来朝す。周公問いて曰く、「何ぞ治むることの疾きや。」対えて曰く、「賢を尊び、疏を先にして親を後にし、義を先にして仁を後にす。」此れ覇者の跡なり。周公曰く、「太公の沢五世に及ばん。」五年にして伯禽来朝す。周公問いて曰く、「何ぞ治むることの難きや。」対えて曰く、「親を親しみ、内を先にして外を後にし、仁を先にして義を後にす。」此れ王者の跡なり。周公曰く、「魯の沢十世に及ばん。」故に魯に王者の跡有るは仁厚なればなり。斉に覇者の跡有るは武政なればなり。
現代語訳
延陵の季子(呉の公子季札)が晋に旅した。国境に入ると「ああ、暴虐な国だな」と言った。都に入ると「ああ、民力が疲弊した国だな」と言った。朝廷に立つと「ああ、乱れた国だな」と言った。従者が「先生は国境に入ってからまだ日も浅いのに、どうしてそう断定して疑わないのですか」と尋ねた。延陵季子は言った。「その通りだ。私が国境に入ったとき、田畑は荒れて手入れされておらず、雑草ばかりが高く生い茂っていた。これによってこの国の政治の暴虐さを知った。私が都に入ったとき、新しい家は粗末で古い家は立派であり、新しい塀は低く古い塀は高かった。これによって民の力が疲弊していることを知った。私が朝廷に立ったとき、君主はよく見ていても下に問うことをせず、臣下は自分の功をひけらかすばかりで上に諫言しない。これによってこの国の政治の乱れを知ったのだ。」斉が魯に及ばない理由は、太公望の賢さが伯禽に及ばなかったからである。伯禽と太公望は共に領地を受け、それぞれの国に赴いて三年後、太公望が参内した。周公が「なぜそんなに早く治まったのか」と尋ねると、太公望は「賢者を尊び、疎遠な者を先にして近親者を後にし、正義を先にして仁愛を後にしました」と答えた。これは覇者のやり方である。周公は「太公の恩恵は五代までしか及ばないだろう」と言った。五年後、伯禽が参内した。周公が「なぜそんなに治めるのに時間がかかったのか」と尋ねると、伯禽は「近親者を親愛し、身内を先にして外を後にし、仁愛を先にして正義を後にしました」と答えた。これは王者のやり方である。周公は「魯の恩恵は十代まで及ぶだろう」と言った。それゆえ魯に王者としての実績があるのは仁愛に篤かったからであり、斉に覇者としての実績があるのは武による政治だったからである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 魯周公世家魯公伯禽の初めて封を受けて魯に之くや、三年にして後に政を周公に報ず。周公曰く、「何ぞ遅きや」と。伯禽曰く、「其の俗を変じ、其の礼を革む、喪三年にして然る後に之を除く、故に遅し」と。太公も亦た斉に封ぜらる、五月にして政を周公に報ず。周公曰く、「何ぞ疾きや」と。曰く、「吾其の君臣の礼を簡にし、其の俗に従ひて為すのみ」と。乃ち嘆じて曰く、「嗚呼、魯の後世其れ北面して斉に事へんかな。夫れ政簡ならず易ならざれば、民近づく有らず、平易にして民に近づけば、民必ず之に帰す」と。
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呂氏春秋・長見④呂太公望、齊に封ぜられ、周公旦、魯に封ぜらる。二君は甚だ相善し。相謂いて曰く、「何を以て國を治めん。」太公望曰く、「賢を尊び功を上ばん。」周公旦曰く、「親を親しみ恩を上ばん。」太公望曰く、「魯、此れ自り削られん。」周公旦曰く、「魯削らると雖も、齊を有つ者も亦た必ず呂氏に非ざらん。」其の後齊は日に以て大に、霸に至り、二十四世にして田成子、齊國を有てり。魯は日に以て削られ、覲存に至り、三十四世にして亡ぶ。
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『淮南子』齊俗訓昔 太公望・周公旦 封を受けて相い見ゆ。太公 周公に問いて曰く、「何を以て魯を治むるか」と。周公曰く、「尊きを尊び親しきを親しむ」と。太公曰く、「魯は此れより弱からん」と。周公 太公に問いて曰く、「何を以て齊を治むるか」と。太公曰く、「賢を舉げて功を上ぶ」と。周公曰く、「後世 必ず劫殺の君有らん」と。其の後、齊は日々に以て大に、霸に至り、二十四世にして田氏 之に代わる。魯は日々に以て削られ、三十二世に至りて亡ぶ。故に『易』に曰く、「霜を履めば、堅冰 至る」と。聖人の終始を見ること微なるかな。故に糟丘は象箸より生じ、炮烙は熱斗より生ず。子路 溺るるを撜いて牛の謝を受く。孔子曰く、「魯國 必ず人を患いより救うを好まん」と。子贛 人を贖いて金を府より受けず。孔子曰く、「魯國 復た人を贖わざらん」と。子路は受けて德を勸め、子贛は讓りて善を止む。孔子の明、小を以て大を知り、近きを以て遠きを知る。論に通ずる者なり。
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説苑・尊賢春秋の時、天子微弱にして、諸侯力を政め、皆叛きて朝せず。衆は寡を暴し、強は弱を劫かし、南夷と北狄と交々侵し、中国の絶えざること線のごとし。桓公是に於いて管仲・鮑叔・隰朋・賓胥無・甯戚を用い、三たび亡国を存し、一たび絶世を継ぎ、中国を救い、戎狄を攘い、卒に荊蛮を脅し、以て周室を尊び、諸侯に霸たり。晋の文公は咎犯・先軫・陽処父を用い、中国を強くし、強楚を敗り、諸侯を合わせ、天子に朝し、以て周室を顕す。楚の荘王は孫叔敖・司馬子反・将軍子重を用い、陳を征し鄭に従い、強晋を敗り、天下に敵無し。秦の穆公は百里子・蹇叔子・王子廖及び由余を用い、雍州を拠有し、西戎を攘敗す。呉は延州萊季子を用い、翼州を并せ、威を雞父に揚ぐ。鄭の僖公は千乘の国を富有し、貴きこと諸侯たれども、義を治めて人心に順わず、臣に弑せらるる者は、先に賢を得ざればなり。簡公に至りて子産・裨諶・世叔・行人子羽を用い、賊臣除かれ、正臣進み、強楚を去り、中国を合わせ、国家安寧にして、二十余年、強楚の患い無し。故に虞に宮之奇有りて、晋の献公之が為に終夜寝ねず。楚に子玉得臣有りて、文公之が為に側席して坐す。賢者の厭難折衝を遠ざくればなり。夫れ宋の襄公は公子目夷の言を用いず、大いに楚に辱めらる。曹は僖負羈の諫めを用いず、戎に敗死す。故に共に五始の要、治乱の端を惟うに、己を審らかにして賢に任ずるに在り。国家の賢に任じて吉なり、不肖に任じて凶なるは、往世を案じて己の事を視るに、其れ必然なり、符を合するがごとし。此れ人君たる者、慎まざるべからざるなり。国家惛乱にして良臣見わる。魯国大いに乱れ、季友の賢見わる。僖公即位して季子に任じ、魯国安寧にして、外内憂い無く、行政二十一年、季子の卒するの後、邾其の南を撃ち、斉其の北を伐ち、魯其の患いに勝えず、将に師を楚に乞いて以て全きを取らんとするのみ。故に伝に曰く、患いの起こるは必ず此れより始まると。公子買をして衛に戍らしむべからず、公子遂は君命を聴かずして擅に晋に之く、内は臣下に侵され、外は兵乱に困しむ、弱の患いなり。僖公の性、前二十一年常に賢なるに非ずして、後乃ち漸く変じて不肖と為るに非ず、此れ季子の存する所の益、亡ぶる所の損なり。夫れ賢を得、賢を失うこと、其の損益の験此くのごとし。而るに人主の用うる所に忽なる、甚だ疾痛むべきなり。夫れ智賢を見るに足らざるは、如何ともする無し。若し智能く之を見るも、強いて決する能わず、猶予して用いず、大は死亡し、小は乱傾す、此れ甚だ悲哀すべきなり。宋の殤公孔父の賢を知らざるかを以てせんか、安んぞ孔父死せば己必ず死せんことを知りて、趨りて之を救わん。趨りて之を救う者は、是れ其の賢を知ればなり。魯の荘公季子の賢を知らざるかを以てせんか、安んぞ疾死せんとして季子を召して之に国政を授けん。之に国政を授くる者は、是れ其の賢を知ればなり。此の二君賢を知り見る能くして皆用うる能わず、故に宋の殤公は殺されて死し、魯の荘公は賊嗣す。宋の殤をして蚤く孔父に任ぜしめ、魯の荘をして素より季子を用いしめば、乃ち将に隣国を靖んずべし、而るを況んや自ら存するをや。
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説苑・政理武王、太公に問いて曰く、「賢君の國を治むること何如。」對えて曰く、「賢君の國を治むるや、其の政平らかに、其の吏苛からず、其の賦斂節あり、其の自ら奉ずること薄く、私善を以て公法を害せず、賞賜は功無きに加えず、刑罰は罪無きに施さず、喜びに因りて賞せず、怒りに因りて誅せず、民を害する者は罪有り、賢を進め過を舉ぐる者は賞有り、後宮荒れず、女謁聽かず、上に婬慝無く、下陰かに害せず、宮室を幸にして以て財を費やさず、觀游臺池を多くして以て民を罷らせず、文を彫り鏤を刻みて以て耳目を逞しくせず、宮に腐蠹の藏無く、國に流餓の民無し。此れ賢君の國を治むるなり。」武王曰く、「善いかな。」
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史記 斉太公世家太史公曰く、「吾斉に適き、膏壤二千里、其の民闊達にして匿知多し、其の天性なり。太公の聖を以て、国本を建て、桓公の盛にして、善政を修め、以て諸侯の会盟を為し、伯と称す、亦た宜ならずや。洋洋たるかな、固より大国の風なり」と。