呂氏春秋 / 長見⑤
吳起治西河之外,王錯譖之於魏武侯,武侯使人召之。吳起至於岸門,止車而望西河,泣數行而下。其僕謂吳起曰:“竊觀公之意,視釋天下若釋(足麗),今去西河而泣,何也?”吳起抿泣而應之曰:“子不識。君知我而使我畢能西河可以王。今君聽讒人之議,而不知我,西河之為秦取不久矣,魏從此削矣。”吳起果去魏入楚。有間,西河畢入秦,秦日益大,此吳起之所先見而泣也。
新字:吳起治西河之外,王錯譖之於魏武侯,武侯使人召之。吳起至於岸門,止車而望西河,泣数行而下。其僕謂吳起曰:“竊観公之意,視釈天下若釈(足麗),今去西河而泣,何也?”吳起抿泣而応之曰:“子不識。君知我而使我畢能西河可以王。今君聴讒人之議,而不知我,西河之為秦取不久矣,魏従此削矣。”吳起果去魏入楚。有間,西河畢入秦,秦日益大,此吳起之所先見而泣也。
書き下し
吳起、西河の外を治む。王錯、之を魏の武侯に譖る。武侯、人をして之を召さしむ。呉起岸門に至り、車を止めて西河を望み、泣數行下る。其の僕、呉起に謂いて曰く、「竊かに公の意を觀るに、天下を釋つるを視ること躧を釋つるが若し。今西河を去りて泣くは、何ぞや。」呉起泣を抿いて之に應えて曰く、「子は識らず。君、我を知りて、我をして能を畢くさしめば、西河以て王たる可し。今、君讒人の議を聽きて、我を知らず。西河の秦の為に取られんこと久しからず。魏此れ從り削られん。」呉起果して魏を去り楚に入る。間有りて、西河畢く秦に入り、秦日に益々大なり、此れ呉起の先見して泣く所なり。
現代語訳
呉起が西河の地方を治めていました。王錯が魏の武侯に呉起を讒言しました。武侯は使いをやって呉起を召し返しました。呉起は岸門まで来て、車を止めて西河を望み、涙を幾すじも流しました。従者が呉起に言いました、「ひそかにあなたのお心を拝見しますと、天下を捨てることさえ、まるで履物を脱ぎ捨てるように軽く見ておられます。それが今、西河を去るのに涙を流されるのはなぜですか」。呉起は涙をぬぐって答えました、「お前には分かるまい。君が私を信じ、私に存分に力を尽くさせてくれれば、西河を拠点に王者となることもできたのだ。今、君は讒言する者の言を聞いて、私を信じない。西河が秦に奪われるのも遠くはあるまい。魏はこれから衰えていくだろう」。呉起は結局魏を去って楚に入りました。しばらくして、西河はことごとく秦の手に落ち、秦は日ましに強大になりました。これが呉起が先を見通して涙を流したわけです。
解説
この章句が説くこと
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