論衡 / 『論衡』齊世篇第五十六・遠くを貴び近くを賤しむ人の性
貴鵠賤雞、鵠遠而雞近也。使當今說道深於孔、墨、名不得與之同;立行崇於曾、顏、聲不得與之鈞。何則?世俗之性、賤所見貴所聞也。有人於此、立義建節、實核其操、古無以過。為文書者、肯載於篇籍、表以為行事乎?作奇論、造新文、不損於前人、好事者肯舍久遠之書、而垂意觀讀之乎?揚子雲作《太玄》、造《法言》、張伯松不肯壹觀、與之并肩、故賤其言。
新字:貴鵠賤鶏、鵠遠而鶏近也。使当今説道深於孔、墨、名不得与之同;立行崇於曽、顔、声不得与之鈞。何則?世俗之性、賤所見貴所聞也。有人於此、立義建節、実核其操、古無以過。為文書者、肯載於篇籍、表以為行事乎?作奇論、造新文、不損於前人、好事者肯舎久遠之書、而垂意観読之乎?揚子雲作《太玄》、造《法言》、張伯松不肯壱観、与之并肩、故賤其言。
書き下し
鵠を貴び雞を賤しむ、鵠は遠くして雞は近ければなり。当今の説く道をして孔・墨より深からしむるも、名は之と同じきを得ず。行いを立つること曾・顔より崇きも、声は之と鈞しきを得ず。何となれば、世俗の性は、見る所を賤しみ聞く所を貴べばなり。人此に有り、義を立て節を建て、実に其の操を核むるに、古も以て過ぐる無し。文書を為る者、肯えて篇籍に載せ、表して以て行事と為さんや。奇論を作り、新文を造り、前人に損せざるも、好事者肯えて久遠の書を舎てて、意を垂れて之を観読せんや。揚子雲『太玄』を作り、『法言』を造るも、張伯松肯えて壱たびも観ず、之と肩を并ぶるが故に其の言を賤しむ。
現代語訳
鵠を尊び雞を軽んじるのは、鵠は遠くにいて雞は近くにいるからです。たとえ今の世の人が説く道が孔子や墨子より深くても、名声は同じにはなれず、立てた行いが曾子や顔回より高くても、評判は並べられません。なぜか。世俗の性は、目の前のものを軽んじ、伝え聞くものを尊ぶからです。ここに人がいて、義を立て節を守り、その操を確かめてみると、古人でも超えられないほどだとします。しかし文章を書く者は、それを書物に載せ、模範の行いとして示すでしょうか。奇抜な論を立て新しい文章を作り、前人に劣らなくても、物好きな者が古く遠い書を捨てて、心を留めて読むでしょうか。揚子雲が『太玄』『法言』を著しても、張伯松は一度も見ようとしませんでした。肩を並べる同時代の人だったので、その言葉を軽んじたのです。
解説

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