論衡 / 『論衡』效力篇第三十七・蕭何は猟人、樊噲は猟犬
樊、酈有攻城野戰之功、高祖行封、先及蕭何、則比蕭何於獵人、同樊、酈於獵犬也。夫蕭何安坐、樊、酈馳走、封不及馳走而先安坐者、蕭何以知為力、而樊、酈以力為功也。
新字:樊、酈有攻城野戦之功、高祖行封、先及蕭何、則比蕭何於猟人、同樊、酈於猟犬也。夫蕭何安坐、樊、酈馳走、封不及馳走而先安坐者、蕭何以知為力、而樊、酈以力為功也。
書き下し
樊・酈は攻城野戦の功有り。高祖の封を行うや、先ず蕭何に及ぶ。則ち蕭何を猟人に比し、樊・酈を猟犬に同じくするなり。夫れ蕭何は安坐し、樊・酈は馳走す。封の馳走に及ばずして先ず安坐に及ぶは、蕭何は知を以て力と為し、樊・酈は力を以て功と為せばなり。
現代語訳
樊噲と酈商には、城攻めや野戦の功がありました。ところが高祖が恩賞を与えるとき、まず蕭何に及びました。つまり蕭何を猟師になぞらえ、樊噲・酈商を猟犬と同じに見たのです。蕭何は安らかに座り、樊噲らは駆け回ります。駆け回った者に先に及ばず、座っていた者に先に恩賞が及んだのは、蕭何が知恵を力とし、樊噲らは腕力を功としたからです。
解説
效力篇は、人の力にはさまざまな種類があると説く篇です。ここでは漢の高祖が功臣に領地を与えるとき、戦場で働いた樊噲や酈商より先に、後方で策を練った蕭何を重く賞したことを取り上げます。王充は、これを猟師と猟犬の関係にたとえ、知恵で全体を動かす者と、体を動かして成果を出す者の違いとして示しました。現代の組織でも、目に見える現場の働きは評価しやすい一方、仕組みや見通しをつくる仕事は見落とされがちです。どちらの貢献も見たうえで、役割の重さをどう測るかを考えさせられます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
蕭何樊噲知恵と腕力論功行賞猟人と猟犬評価
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史記 留侯世家且つ夫れ楚唯彊きこと無からしめば、六国の立つ者復た橈みて之に従はん、陛下焉んぞ得て之を臣とせん。誠に客の謀を用ひば、陛下の事去らん」と。漢王食を輟め哺を吐き、罵りて曰く、「豎儒、幾ど而公の事を敗らんとす」と。趣やかに印を銷さしむ。漢四年、韓信斉を破りて自ら立ちて斉王と為らんと欲す、漢王怒る。張良漢王に説き、漢王良をして斉王信に印を授けしむ、語は淮陰の事の中に在り。其の秋、漢王楚を追ひて陽夏の南に至り、戦ひ利あらずして固陵に壁す、諸侯期して至らず。良漢王に説く、漢王其の計を用ひ、諸侯皆至る。語は項籍の事の中に在り。漢六年正月、功臣を封ず。良未だ嘗て戦闘の功有らず、高帝曰く、「策を帷帳の中に運らし、勝ちを千里の外に決するは、子房の功なり。自ら斉の三万戸を択べ」と。良曰く、「始め臣下邳に起こり、上と留に会す、此れ天臣を以て陛下に授くるなり。陛下臣の計を用ひ、幸ひにして時に中る、臣願はくは留に封ぜらるれば足れり、敢へて三万戸に当たらず」と。乃ち張良を封じて留侯と為し、蕭何等と倶に封ず。六年、上已に大功臣二十余人を封ず、其の余は日夜功を争ひて決せず、未だ封を行ふを得ず。上雒陽の南宮に在り、複道より諸将の往往に相与に沙中に坐して語るを望み見る。上曰く、「此れ何をか語る」と。留侯曰く、「陛下知らざるか。此れ反を謀るのみ」と。上曰く、「天下属々安定す、何の故にか反せん」と。留侯曰く、「陛下布衣より起こり、此の属を以て天下を取る、今陛下天子と為り、而して封ずる所は皆蕭・曹の故人の親愛する所、而して誅する所は皆生平の仇怨する所なり。今軍吏功を計り、天下を以て遍く封ずるに足らずとす、此の属陛下の尽く封ずる能はざるを畏れ、恐らくは又平生の過失を疑はれて誅せられんことを恐る、故に即ち相聚まりて反を謀るのみ」と。上乃ち憂ひて曰く、「之を為すこと奈何」と。留侯曰く、「上の平生憎む所にして、羣臣の共に知る所、誰か最も甚だしき者ぞ」と。
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史記 衛将軍驃騎列伝悉く李敢等を以て大校と為し、裨将に当て、代・右北平より出づること千余里、左方の兵に直り、斬捕する所の功已に大将軍より多し。軍既に還る。天子曰く、「驃騎将軍去病師を率ゐ、躬ら獲る所の葷粥の士を将ゐ、軽齎を約し、大幕を絶り、渉りて章渠を獲、以て比車耆を誅し、転じて左大将を撃ち、旗鼓を斬獲し、離侯を歴渉す。弓閭を済り、屯頭王・韓王等三人、将軍・相国・当戸・都尉八十三人を獲、狼居胥山に封じ、姑衍に禅し、登りて翰海に臨む。鹵を執へ醜を獲ること七万有四百四十三級、師率減ずること什に三。食を敵に取り、間行殊に遠くして糧絶えず。五千八百戸を以て驃騎将軍に益封す」と。右北平の太守路博徳驃騎将軍に属し、与城に会し、期を失はず、従ひて檮余山に至り、首を斬り虜を捕ふること二千七百級。千六百戸を以て博徳を封じて符離侯と為す。北地の都尉邢山驃騎将軍に従ひて王を獲たり。千二百戸を以て山を封じて義陽侯と為す。故の帰義の因淳王復陸支・楼専王伊即靬皆驃騎将軍に従ひて功有り。千三百戸を以て復陸支を封じて壮侯と為し、千八百戸を以て伊即靬を封じて衆利侯と為す。従驃侯破奴・昌武侯安稽驃騎に従ひて功有り、益封すること各々三百戸。校尉敢旗鼓を得て、関内侯と為し、食邑二百戸。校尉自為爵大庶長。軍吏卒官と為り、賞賜甚だ多し。而して大将軍は益封を得ず、軍吏卒皆封侯せらるる者無し。両軍の塞を出づるや、塞に官及び私馬を閲すること凡そ十四万匹、而して復た塞に入る者三万匹に満たず。乃ち益々大司馬の位を置き、大将軍・驃騎将軍皆大司馬と為る。令を定め、驃騎将軍の秩禄をして大将軍と等しからしむ。是より後、大将軍青日に退き、而して驃騎日に益々貴し。大将軍の故人門下を挙げて多く去りて驃騎に事へ、輒ち官爵を得。唯任安のみ肯ぜず。
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『春秋左氏伝』定公九年 東郭書と犁彌、功を譲る秋、齊侯、晉の夷儀を伐つ。敝無存の父、將に之に室せんとす。辭して以て其の弟に與へて曰く、「此の役や、死せずんば、反りて必ず高・國に取らん」と。先登して、門より出でんことを求め、霤下に死す。東郭書、登るを讓る。犁彌、之に從ひて曰く、「子は讓りて左せよ、我は讓りて右せん。登る者をして絕えしめて後に下らん」と。書は左し、彌は先に下る。書、王猛と息ふ。猛曰く、「我、先に登れり」と。書、甲を斂めて曰く、「曩者の難あり、今又難ぜんとす」と。猛、笑ひて曰く、「吾、子に從はん、驂の靳に如かん」と。晉の車千乘、中牟に在り。衛侯、將に五氏に如かんとし、之を過ぐることを卜す。龜焦ぐ。衛侯曰く、「可なり。衛の車、其の半ばに當たり、寡人、其の半ばに當たらば、敵せん」と。乃ち中牟を過ぐ。中牟の人、之を伐たんと欲す。衛の褚師圃、亡げて中牟に在り。曰く、「衛は小なりと雖も、其の君在り、未だ勝つべからざるなり。齊の師は城に克ちて驕り、其の帥又賤し。遇はば必ず之を敗らん。齊に從ふに如かず」と。乃ち齊の師を伐ちて之を敗る。齊侯、禚・媚・杏を衛に致す。齊侯、犁彌を賞す。犁彌辭して曰く、「先に登る者有り、臣、之に從ふ。皙幘にして貍製を衣る」と。公、東郭書を視しむ。曰く、「乃ち夫子なり。吾、子に貺らん」と。公、東郭書を賞す。辭して曰く、「彼は賓旅なり」と。乃ち犁彌を賞す。齊の師の夷儀に在るや、齊侯、夷儀の人に謂ひて曰く、「敝無存を得る者は、五家を以て免ぜん」と。乃ち其の尸を得。公、三たび之に襚し、之に犀軒と直蓋とを與へて、先づ之を歸す。引く者を坐せしめ、師を以て之を哭し、親ら之を推すこと三たびす。