論衡 / 『論衡』命祿篇第三・命を信じても努力は捨てない
信命者、則可幽居俟時、不須勞精苦形求索之也。猶珠玉之在山澤、天命難知、人不耐審、雖有厚命、猶不自信、故必求之也。如自知、雖逃富避貴、終不得離。故曰:力勝貧、慎勝禍。勉力勤事以致富、砥才明操以取貴;廢時失務、欲望富貴、不可得也。雖云有命、當須索之。如信命不求、謂當自至、可不假而自得、不作而自成、不行而自至。夫命富之人、筋力自強;命貴之人、才智自高、若千里之馬、頭目蹄足自相副也。有求而不得者矣、未必不求而得之者也。精學不求貴、貴自至矣:力作不求富、富自到矣。富貴之福、不可求致;貧賤之禍、不可苟除也。由此言之、有富貴之命、不求自得。
新字:信命者、則可幽居俟時、不須労精苦形求索之也。猶珠玉之在山沢、天命難知、人不耐審、雖有厚命、猶不自信、故必求之也。如自知、雖逃富避貴、終不得離。故曰:力勝貧、慎勝禍。勉力勤事以致富、砥才明操以取貴;廃時失務、欲望富貴、不可得也。雖云有命、当須索之。如信命不求、謂当自至、可不仮而自得、不作而自成、不行而自至。夫命富之人、筋力自強;命貴之人、才智自高、若千里之馬、頭目蹄足自相副也。有求而不得者矣、未必不求而得之者也。精学不求貴、貴自至矣:力作不求富、富自到矣。富貴之福、不可求致;貧賤之禍、不可苟除也。由此言之、有富貴之命、不求自得。
書き下し
命を信ずる者は、則ち幽居して時を俟つべく、精を労し形を苦しめて、これを求索するを須いざるなり。猶お珠玉の山沢に在るがごとし。天命は知り難く、人は審らかにするに耐えず、厚き命有りと雖も、猶お自ら信ぜず、故に必ずこれを求むるなり。如し自ら知らば、富を逃れ貴を避くと雖も、終に離るるを得ず。故に曰く、力は貧に勝ち、慎みは禍に勝つと。力を勉めて事に勤めて以て富を致し、才を砥ぎ操を明らかにして以て貴を取る。時を廃し務めを失いて、富貴を望まんと欲するも、得べからざるなり。命有りと云うと雖も、当に須く之を索むべし。如し命を信じて求めず、当に自ずから至るべしと謂い、仮らずして自ずから得、作さずして自ずから成り、行かずして自ずから至るべしとせば、夫れ命富の人は、筋力自ずから強く、命貴の人は、才智自ずから高く、千里の馬の、頭目蹄足の自ずから相い副うが若し。求めて得ざる者有り、未だ必ずしも求めずして得る者ならず。精しく学びて貴を求めざれば、貴自ずから至り、力作して富を求めざれば、富自ずから到る。富貴の福は、求め致すべからず。貧賤の禍は、苟くも除くべからず。此れに由りて之を言わば、富貴の命有れば、求めずして自ずから得ん。
現代語訳
命を信じる人は、ひっそり暮らして時を待てばよく、精神を労し身体を苦しめて追い求める必要はありません。珠玉が山や沢にあるようなもので、天命は知りにくく、人は確かめきれないため、厚い命を持っていても自分を信じきれず、だから必ず求めるのです。もし自分でわかっていれば、富を逃れ貴さを避けても、結局離れられません。ですから「力は貧しさに勝ち、慎みは災いに勝つ」と言います。力を尽くして仕事に励んで富を得、才を磨き志操を明らかにして貴さを得る。時を無駄にして務めを怠りながら富貴を望んでも、得られません。命があると言っても、やはり求めるべきです。もし命を信じて求めず、自然にやって来るはずだと考え、頼らずに得られ、行わずに成り、動かずに至ると言うなら、それは違います。富の命を持つ人は筋力が自然に強く、貴の命を持つ人は才智が自然に高く、千里の馬の頭と目と足が自然に揃っているようなものです。求めて得られない人はいますが、求めずに得る人が必ずいるとは言えません。ひたすら学んで貴さを求めなければ、貴さは自然にやって来ます。力を尽くして働いて富を求めなければ、富は自然にやって来ます。富貴の福は求めて招けるものではなく、貧賤の禍はいい加減に取り除けるものではありません。こう言えば、富貴の命を持つ人は、求めなくても自然に得るのです。
解説

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