論語と算盤 / 成敗と運命・失敗らしき成功
是等の事実より推して考へると、世の謂ゆる成功は必ずしも成功でなく、世の謂ゆる失敗は必ずしも失敗でないといふことが頗る明瞭になるが、会社事業其他一般営利事業の如き、物質上の効果を挙げるのを目的とするものにあつては、若し失敗すると、出資者其他の多くの人にも迷惑を及ぼし多大の損害を掛ける事があるから、何が何でも成功するやうに努めねばならぬものであるが、精神上の事業に於ては、成功を眼前に収めやうとする如き浅慮を以てすれば、世の糟を喫するが如き弊に陥つて、毫も世道人心の向上に貢献するを得ず、永遠の失敗に終るものである、例へば新聞雑誌の如きものを発行して、一世を覚醒せんとしても、此目的を達するが為に時流に逆つて反抗すれば、時に或は奇禍を買つて、世の謂ゆる失敗に陥り、苦い経験を甞めねばならぬ如き場合がないとも限らぬのである、併しそれは決して失敗ではない、
書き下し
これらの事実より推して考えると、世のいわゆる成功は必ずしも成功でなく、世のいわゆる失敗は必ずしも失敗でないということがすこぶる明瞭になるが、会社事業その他一般営利事業のごとき、物質上の効果を挙げるのを目的とするものにあっては、もし失敗すると、出資者その他の多くの人にも迷惑を及ぼし多大の損害を掛ける事があるから、何が何でも成功するように努めねばならぬものであるが、精神上の事業においては、成功を眼前に収めようとするごとき浅慮をもってすれば、世の糟を喫するがごとき弊に陥って、毫も世道人心の向上に貢献するを得ず、永遠の失敗に終わるものである。例えば新聞雑誌のごときものを発行して、一世を覚醒せんとしても、この目的を達するがために時流に逆らって反抗すれば、時にあるいは奇禍を買って、世のいわゆる失敗に陥り、苦い経験をなめねばならぬごとき場合がないとも限らぬのである。しかしそれは決して失敗ではない。
現代語訳
これらの事実から推して考えると、世間でいう成功は必ずしも成功ではなく、世間でいう失敗は必ずしも失敗ではないということが、たいへん明らかになる。ただし、会社の事業その他一般の営利事業のように、物質上の成果を挙げることを目的とするものの場合は、もし失敗すると、出資者をはじめ多くの人に迷惑を及ぼし、多大な損害をかけることがあるから、何が何でも成功するように努めなければならない。しかし精神上の事業においては、成功を目の前で手に入れようとするような浅はかな考えで臨めば、世の酒かすを食らうような弊害に陥って、少しも世の道義や人心の向上に貢献できず、永遠の失敗に終わるものである。たとえば新聞や雑誌のようなものを発行して世の中を目覚めさせようとしても、その目的を達するために時流に逆らって反抗すれば、ときには思いがけない災難を招いて世間でいう失敗に陥り、苦い経験をなめなければならない場合もないとは限らない。しかし、それは決して失敗ではない。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』成敗と運命・失敗らしき成功文筆言論、その他すべて精神的方面の事業に従事する者が、今のいわゆる成功を生前に収めようとしてもがけば、かえって時流に阿り、効果を急ぐがために、社会に益を与えぬようなことになる。さればとていかに精神的事業でも、いたずらに大言壮語して、人生の根本に触るることの出来ぬ大きな目論見ばかり立てて、毫も努力する所がないようでは、百載の後、たとい黄河の澄む期節があっても、到底失敗に終わり、最後の成功を収め得らるべきものでない。渾身の努力をさえ尽くしていれば、精神的事業においての失敗は決して失敗ではない。あたかも孔夫子の遺業が、今日世界幾百千万の人に安心立命の基礎を与えつつあるごとく、後昆を裨益し、人心の向上発達に貢献し得ることになり得るものである。
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『論語と算盤』成敗と運命・成敗は身に残る糟粕世の中には悪運が強くて成功したかのごとくに見える人がないでもない。しかし人を見るに、単に成功とかまたは失敗とかを標準とするのが根本的誤りではあるまいか。人は人たるの務めを標準として一身の行路を定めねばならぬので、いわゆる失敗とか成功とかいうものは問題外で、仮に悪運に乗じて成功したものがあろうが、善人が運拙くして失敗した者があろうが、それを見て失望したり悲観したりするには及ばないではないか。成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである。現代の人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことのみを眼中に置いて、それよりももっと大切な天地間の道理を見ていない。彼らは実質を生命とすることが出来ないで、糟粕に等しい金銭財宝を主としているのである。人はただ人たるの務めを完うすることを心掛け、自己の責務を果たし行いて、もって安んずることに心掛けねばならぬ。
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『論語と算盤』成敗と運命・失敗らしき成功眼前に現れた事柄のみを根拠として、成功とか失敗とかを論ずれば、湊川に矢尽き刀折れて戦死した楠正成は失敗者で、征夷大将軍の位に登って勢威四海を圧するに至った足利尊氏は確かに成功者である。しかし今日において尊氏を崇拝する者はないが、正成を尊崇する者は天下に絶えぬのである。しからば生前の成功者たる尊氏はかえって永遠の失敗者で、生前の失敗者たりし正成はかえって永遠の成功者である。菅原道真と藤原時平とについて見ても、時平は当時の成功者で、太宰府に罪なくして配所の月を眺めねばならなかった道真公は、当時の失敗者であったに相違ないが、今日では一人として時平を尊む者なく、道真公は天満大自在として全国津々浦々の端においても祀られている。道真公の失敗は決して失敗でない。これはかえって真の成功者である。
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『論語と算盤』成敗と運命・成敗は身に残る糟粕一時の成敗は長い人生、価値の多い生涯における泡沫のごときものである。しかるにこの泡沫のごときものに憧れて、目前の成敗のみを論ずる者が多いようでは、国家の発達進歩も思いやられる。よろしくそのような浮薄な考えは一掃し去りて、社会に処して実質のある生活をするがよい。いやしくも事の成敗以外に超然として立ち、道理に則って一身を終始するならば、成功失敗のごときは愚か、それ以上に価値ある生涯を送ることが出来るのである。いわんや成功は人たるの務めを完うしたるより生ずる糟粕たるにおいては、なおさら意に介するに足らぬではないか。
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『論語と算盤』成敗と運命・失敗らしき成功たとい一時は失敗のごとくに見えても、長い時間のうちには努力の功空しからず、社会はこれによって益せられ、結局その人は必ずしも千載の後を待たずとも、十年二十年あるいは数十年を経過すれば、必ずその功を認められることになる。
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『論語と算盤』成敗と運命・成敗は身に残る糟粕とにかく人は誠実に努力黽勉して、自ら運命を開拓するがよい。もしそれで失敗したら、自己の智力が及ばぬためと諦め、また成功したら智恵が活用されたとして、成敗にかかわらず天命に托するがよい。かくて敗れてもあくまで勉強するならば、いつかは再び好運に際会する時が来る。人生の行路は様々で、時に善人が悪人に負けたごとく見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである。ゆえに成敗に関する是非善悪を論ずるよりも、まず誠実に努力すれば、公平無私なる天は、必ずその人に福し運命を開拓するように仕向けてくれるのである。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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