自警録 / 第二十三章 若返りの工夫・いつも若い人(2)
事たれば足るにまかせて事たらず足らで事たる身こそ安けれ という歌は子供も知っているが、月給の増すのをもって目的とし人生の理想なりと解釈しておるならば、「事たる身こそ安けれ」というような、安心の時代はとうてい到来せぬであろう。 しかるに理想はこれとは別方面のところに存するものである。月給等の形而下のことをのみ欲するを理想と呼ぶのは大なる誤りであろう。ゆえに右のごとき月給の増減によって理想の例に用うるは当を得ないことで、理想といわゆる成功とは必ずしも同一方面に共存するものでない。 なんとならば月給とかその他の物質的形而下の事柄については不足を甘んずるのがむしろ理想ある人のすることである。ゆえに俸給が上がって喜ぶはよいが、それだけのために喜ぶのは感服できぬ。上がらなくとも喜んでいたい。否下がっても喜びたい。であるから、いわゆる立身したとて、たちまち、「吾は得たり、成功したり」と考えるのはまことに望ましからぬことである。これすなわち彼の「精神の井戸が水枯れした」のである、遼遠なるべき前途を放棄したのである。 彼の「青年の前途は遼遠なり」とは青年は理想に生きるという意味である。彼がたとえ若死をすればとてこの遠大なる理想を有するにおいては、これをもってただちに長命と呼ぶ、なんの不可か是れあらんやである。老人においてもまたしかりで、もし年齢において行きづまるも理想において行きづまらずんば、その老人の前途たるや等しく遼遠なりといわねばならぬ。その偉大なる希望において生くるの点よりはこれを青年であると呼んでよかろう。もし人、年をとりたくなかったならばよろしく大いに鵬大なる理想をいだくべきである。
書き下し
事たれば足るにまかせて事たらず足らで事たる身こそ安けれ という歌は子供も知っているが、月給の増すのをもって目的とし人生の理想なりと解釈しておるならば、「事たる身こそ安けれ」というような、安心の時代はとうてい到来せぬであろう。 しかるに理想はこれとは別方面のところに存するものである。月給等の形而下のことをのみ欲するを理想と呼ぶのは大なる誤りであろう。ゆえに右のごとき月給の増減によって理想の例に用うるは当を得ないことで、理想といわゆる成功とは必ずしも同一方面に共存するものでない。 なんとならば月給とかその他の物質的形而下の事柄については不足を甘んずるのがむしろ理想ある人のすることである。ゆえに俸給が上がって喜ぶはよいが、それだけのために喜ぶのは感服できぬ。上がらなくとも喜んでいたい。否下がっても喜びたい。であるから、いわゆる立身したとて、たちまち、「吾は得たり、成功したり」と考えるのはまことに望ましからぬことである。これすなわち彼の「精神の井戸が水枯れした」のである、遼遠なるべき前途を放棄したのである。 彼の「青年の前途は遼遠なり」とは青年は理想に生きるという意味である。彼がたとえ若死をすればとてこの遠大なる理想を有するにおいては、これをもってただちに長命と呼ぶ、なんの不可か是れあらんやである。老人においてもまたしかりで、もし年齢において行きづまるも理想において行きづまらずんば、その老人の前途たるや等しく遼遠なりといわねばならぬ。その偉大なる希望において生くるの点よりはこれを青年であると呼んでよかろう。もし人、年をとりたくなかったならばよろしく大いに鵬大なる理想をいだくべきである。
現代語訳
「事足れば足るにまかせて事足らず足らで事足る身こそ安けれ」という歌は、子供でも知っていますが、月給が増えることを目的とし、それを人生の理想だと考えているなら、「事足る身こそ安けれ」というような安心の時代は、とうてい訪れないでしょう。 ところが、理想はこれとは別の方面にあるものです。月給などの形のある物事ばかりを望むことを理想と呼ぶのは、大きな誤りでしょう。ですから、月給の増減を理想の例に用いるのは当を得ておらず、理想といわゆる成功とは、必ずしも同じ方面にあるものではありません。 なぜなら、月給やその他の物質的なことについては、不足に甘んじるのがむしろ理想のある人のすることだからです。ですから、俸給が上がって喜ぶのはよいけれども、それだけを理由に喜ぶのには感心できません。上がらなくても喜んでいたい。いや、下がっても喜びたいのです。したがって、いわゆる立身をしたからといって、すぐに「私は得た、成功した」と考えるのは、まことに望ましくないことです。これこそ「精神の井戸が水枯れした」ということで、はるかに遠いはずの前途を放棄したことになります。 「青年の前途は遼遠である」とは、青年は理想に生きるという意味です。たとえ若くして死んでも、この遠大な理想を持っているなら、それを長命と呼んで、何の差し支えがあるでしょうか。老人についても同じことで、年齢の上では行きづまっても、理想において行きづまっていないなら、その老人の前途もまた遼遠だと言わなければなりません。その大きな希望に生きている点からは、青年と呼んでよいでしょう。もし人が年をとりたくなければ、大いに大きな理想を抱くのがよいのです。
解説

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『論語と算盤』成敗と運命・失敗らしき成功これらの事実より推して考えると、世のいわゆる成功は必ずしも成功でなく、世のいわゆる失敗は必ずしも失敗でないということがすこぶる明瞭になるが、会社事業その他一般営利事業のごとき、物質上の効果を挙げるのを目的とするものにあっては、もし失敗すると、出資者その他の多くの人にも迷惑を及ぼし多大の損害を掛ける事があるから、何が何でも成功するように努めねばならぬものであるが、精神上の事業においては、成功を眼前に収めようとするごとき浅慮をもってすれば、世の糟を喫するがごとき弊に陥って、毫も世道人心の向上に貢献するを得ず、永遠の失敗に終わるものである。例えば新聞雑誌のごときものを発行して、一世を覚醒せんとしても、この目的を達するがために時流に逆らって反抗すれば、時にあるいは奇禍を買って、世のいわゆる失敗に陥り、苦い経験をなめねばならぬごとき場合がないとも限らぬのである。しかしそれは決して失敗ではない。
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