論語と算盤 / 教育と情誼・人物過剰の一大原因
此の如くんば人物の供給過剰も寧ろ当然のことではあるまいか。今更、寺小屋時代の教育を例に引いて論ずる訳ではないが、人物養成の点は不完全ながらも昔の方が巧くいつて居た、今日に比較すれば教育の方法なぞは極めて簡単なもので、教科書と言つた所で、高尚なのが四書五経に八大家文位が関の山であつたが、それに依つて養成された人物は、決して同一類型の人物ばかりでは無かつた、それは勿論教育の方針が全然異つて居たからではあらうけれども、学生は各〻其の長ずる所に向うて進み、十人十色の人物となつて現はれたのであつた、例へば、秀才はどん〳〵上達して高尚な仕事に向うたが、愚鈍の者は非望を懐かずに下賤の仕事に安んじて行くといふ風であつたから、人物の応用に困るといふやうな心配は少かつた、
書き下し
かくのごとくんば人物の供給過剰もむしろ当然のことではあるまいか。今更、寺小屋時代の教育を例に引いて論ずる訳ではないが、人物養成の点は不完全ながらも昔の方がうまくいっていた。今日に比較すれば教育の方法などは極めて簡単なもので、教科書と言ったところで、高尚なのが四書五経に八大家文くらいが関の山であったが、それによって養成された人物は、決して同一類型の人物ばかりではなかった。それはもちろん教育の方針が全然異なっていたからではあろうけれども、学生はおのおのその長ずる所に向かって進み、十人十色の人物となって現れたのであった。例えば、秀才はどんどん上達して高尚な仕事に向かったが、愚鈍の者は非望を懐かずに下賤の仕事に安んじて行くという風であったから、人物の応用に困るというような心配は少なかった。
現代語訳
このような有様であれば、人物の供給過剰もむしろ当然のことではあるまいか。今さら寺子屋時代の教育を例に引いて論じるわけではないが、人物を養成するという点では、不完全ながらも昔のほうがうまくいっていた。今日に比べれば教育の方法などはきわめて簡単なもので、教科書といっても、高尚なものでせいぜい四書五経に唐宋八大家の文章くらいが関の山であった。それでも、それによって養成された人物は、決して同じ型の人物ばかりではなかった。それはもちろん教育の方針がまったく違っていたからではあろうが、学生はめいめい自分の得意なところに向かって進み、十人十色の人物となって世に現れたのであった。たとえば秀才はどんどん上達して高尚な仕事に向かったが、愚鈍な者は身の程を越えた望みを抱かず、卑しいとされる仕事に安んじていくという風であったから、人物の使い道に困るという心配は少なかった。
解説
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『論語と算盤』教育と情誼・人物過剰の一大原因しかるに今日の学生の一般は、その少数しか必要とされない、人を使役する側の人物たらんと志している。つまり学問して高尚な理窟を知って来たから、馬鹿らしくて人の下などに使われることは出来ないようになってしまっている。同時に教育の方針もまた若干その意義を取り違え、無闇に詰込主義の智識教育で能事足れりとするから、同一類型の人物ばかり出来上がり、精神修養を閑却した悲しさには、人に屈するということを知らぬので、いたずらに気位ばかり高くなって行くのだ。
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『論語と算盤』教育と情誼・人物過剰の一大原因しかるに今日では教育の方法は極めてよいが、その精神を穿き違えているために、学生は自己の才不才、適不適をも弁えず、彼も人なり我も人なり、彼と同一の教育を受けた以上、彼のやるくらいのことは自分にもやれるとの自負心を起こし、自ら卑しい仕事に甘んずる者が少ないという傾向である。これ昔の教育が百人中一人の秀才を出したに反し、今日は九十九人の普通的人物を造るという教育法の長所ではあるが、遺憾ながらその精神を誤ったので、ついに現在のごとく中流以上の人物の供給過剰を見るの結果をもたらしたのである。しかし同じ教育の方針を執りつつある、欧米先進国の有様を見るに、教育によってかかる弊害を生ずることは少ないように思う。ことに英国のごときは我が国における現時の状態とは大いに違うて、十分なる常識の発達に意を用い、人格ある人物を造るという点に注意しているように見える。もとより教育のことに関してその多くを知らぬ余のごとき者の容易に容喙さるべき問題ではないが、大体から観て今日のような結果を得る教育は、あまり完全なるものであるとは言われまいと思う。
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『論語と算盤』教育と情誼・現代教育の得失昔の武士および上流の百姓町人は、その青年時代に多く漢学教育を受けたもので、初めは小学とか孝経とか近思録とか、さらに進んでは論語、大学、孟子等を修め、一方身体の鍛錬とともに武士的精神を鼓吹したものである。そして一般の町人百姓はいかなる教育を受けたかと言えば、極めて卑近な実語教とか庭訓往来とかまた加減乗除の九々等を学んだに過ぎない。したがって高尚な漢学教育を受けた武士は、理想も高く見識もあったものであるが、百姓町人は通俗な手習いに過ぎなかったので、概して無学者が多かったのである。しかるに今は四民平等となり、貴賤貧富の差別なく、ことごとく教育を受くることとなり、すなわち岩崎三井の息子も九尺二間の長屋の息子も、皆同一の教育を受くるという有様であるから、その多数の青年中の品性の劣等な、学問のできない青年のあるのは、けだし止むを得ないことである。ゆえに今の一般の青年と昔の少数なる武士階級の青年とを比較してかれこれと非難するは、当を得ないことである。
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『論語と算盤』教育と情誼・人物過剰の一大原因経済界に需要供給の原則があるごとく、実社会に投じて活動しつつある人間にも、またこの原則が応用されるようである。言うまでもなく、社会における事業には一定の範囲があって、使うだけの人物を雇い入れると、それ以上は不必要になる。しかるに一方人物は年々歳々たくさんの学校で養成するから、いまだ完全に発達せぬ我が実業界には、とてもそれらの人々を満足させるように使い切ることは不可能である。ことに今日の時代は高等教育を受けた人物の供給が過多になっている傾きが見える。学生は一般に高等の教育を受けて、高尚の事業に従事したいとの希望を持ってかかるから、たちまちそこに供給過多を生じなければやまぬことになってしまう。学生がかくのごとき希望を懐くのは、個人としてはもちろん嘉すべき心掛けであるが、これを一般社会から観、あるいは国家的に打算したらいかがであろうか。余は必ずしも喜ぶべき現象として迎えることは出来ないように思われる。要するに、社会は千篇一律のものではない。
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『論語と算盤』教育と情誼・現代教育の得失現今でも高等教育を受けた青年の中には、昔の青年に比較して毫も遜色のない者がいくらもある。昔は少数でもよいから、偉い者を出すという天才教育であったが、今は多数の者を平均して啓発するという常識的教育となっているのである。昔の青年は良師を撰ぶということに非常に苦心したもので、有名な熊沢蕃山のごときは中江藤樹のもとへ行ってその門人たらんことを請い願ったが許されず、三日間その軒端を去らなかったので、藤樹もその熱誠に感じて、ついに門人にしたというほどである。その他新井白石の木下順庵における、林道春の藤原惺窩におけるがごときは、皆その良師を択んで学を修め、徳を磨いたのである。
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『論語と算盤』教育と情誼・人物過剰の一大原因従ってこれに要する人物にも色々の種類が必要で、高ければ一会社の社長たる人物、ひくければ使丁たり車夫たる人物も必要である。人を使役する側の人は少数なのに反し、人に使役される人は無限の需要がある。されば学生がこの需要多き、人に使役さるる側の人物たらんと志しさえすれば、今日の社会といえどもいまだ人物に過剰を生ずるような事はあるまいと考える。
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