論語と算盤 / 教育と情誼・現代教育の得失
昔の武士及び上流の百姓町人は、其の青年時代に多く漢学教育を受けたもので、初めは小学とか孝経とか近思録とか、更に進んでは論語、大学、孟子等を修め、一方身体の鍛錬と共に武士的精神を鼓吹したものである、而して一般の町人百姓は如何なる教育を受けたかと云へば、極めて卑近な実語教とか庭訓往来とか又加減乗除の九々等を学んだに過ぎない、従つて高尚な漢学教育を受けた武士は、理想も高く見識もあつたものであるが、百姓町人は通俗な手習に過ぎなかつたので、概して無学者が多かつたのである、然るに今は四民平等となり、貴賤貧富の差別なく、悉く教育を受くること〻なり、乃ち岩崎三井の息子も九尺二間の長屋の息子も、皆同一の教育を受くるといふ有様であるから、其の多数の青年中の品性の劣等な、学問の出来ない青年のあるのは、蓋し止むを得ないことである、故に今の一般の青年と昔の少数なる武士階級の青年とを比較して彼れ是れと非難するは、当を得ないことである。
書き下し
昔の武士および上流の百姓町人は、その青年時代に多く漢学教育を受けたもので、初めは小学とか孝経とか近思録とか、さらに進んでは論語、大学、孟子等を修め、一方身体の鍛錬とともに武士的精神を鼓吹したものである。そして一般の町人百姓はいかなる教育を受けたかと言えば、極めて卑近な実語教とか庭訓往来とかまた加減乗除の九々等を学んだに過ぎない。したがって高尚な漢学教育を受けた武士は、理想も高く見識もあったものであるが、百姓町人は通俗な手習いに過ぎなかったので、概して無学者が多かったのである。しかるに今は四民平等となり、貴賤貧富の差別なく、ことごとく教育を受くることとなり、すなわち岩崎三井の息子も九尺二間の長屋の息子も、皆同一の教育を受くるという有様であるから、その多数の青年中の品性の劣等な、学問のできない青年のあるのは、けだし止むを得ないことである。ゆえに今の一般の青年と昔の少数なる武士階級の青年とを比較してかれこれと非難するは、当を得ないことである。
現代語訳
昔の武士や上流の百姓町人は、青年時代に多くは漢学の教育を受けたもので、初めは『小学』や『孝経』や『近思録』、さらに進んでは『論語』『大学』『孟子』などを修め、一方で体を鍛えるとともに武士らしい精神を鼓舞したものである。では一般の町人や百姓はどんな教育を受けたかといえば、ごく身近な『実語教』や『庭訓往来』、あるいは足し算・引き算・掛け算・割り算の九九などを学んだにすぎない。したがって高尚な漢学の教育を受けた武士は、理想も高く見識もあったが、百姓町人は通俗な手習いにすぎなかったので、概して学のない者が多かったのである。ところが今は四民平等となり、身分や貧富の差別なく、誰もが教育を受けることになった。つまり岩崎家や三井家の息子も、九尺二間の長屋の息子も、みな同じ教育を受けるという有様だから、その多数の青年の中に品性の劣った者や学問のできない者がいるのは、思うにやむを得ないことである。だから今の一般の青年と、昔の少数の武士階級の青年とを比べてあれこれ非難するのは、当を得ないことである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』教育と情誼・現代教育の得失昔の青年と今の青年とは、昔の社会と今の社会と異なるがごとくに異なっている。余が二十四五歳の頃、すなわち明治維新前の青年と現代の青年とは、その境遇、その教育を全然異にしているがために、いずれが優りいずれが劣っているということは、一口には言い現わせない。しかも一部の人士は、昔の青年は意気もあり、抱負もありて、今の青年より遙かに偉かった、今の青年は軽浮で元気がないと言うが、一概にそうばかりも言えまいと思う。なんとなれば、昔の少数の偉い青年と現今の一般青年とを比較し来りて、かれこれ言うことは少しく誤っている。今の青年の中にも偉い者もあれば、昔の青年にも偉くない者もあった。維新前の士農工商の階級は極めて厳格であった。武士の中にも上士と下士というがごとき階級があり、百姓町人の間にも、代々土地の素封家で庄屋を勤めているような家柄と、普通の百姓町人とは、自ずからその気風教育に異なる所があった。かくのごとき有様であったから、昔の青年といっても、武士と上流の百姓町人と、一般の百姓町人とは、その教育も異なっていたのである。
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『論語と算盤』教育と情誼・現代教育の得失論語にも「その人となりや孝弟にして、上を犯すことを好む者は鮮し。上を犯すことを好まずして、乱をなすことを好む者は、いまだこれあらざるなり」と言い、「君に事えてよくその身を致す」と言いて、忠孝主義を述べ、かつ仁義礼智信の教訓を敷衍しては、また同情心、廉恥心を喚起させるようにし、また礼節を重んずるようにし、あるいは勤倹生活の貴ぶべきことを教えたものであるから、昔の青年は自然と身を修むるとともに、常に天下国家の事を憂い、朴実にして廉恥を重んじ、信義を貴ぶという気風が盛んであった。これに反して、現今の教育は智育を重んずるの結果、すでに小学校の時代から多くの学科を学び、さらに中学大学に進んでますます多くの智識を積むけれども、精神の修養を等閑に付して心の学問に力を尽くさないから、青年の品性は大いに憂うべきものがある。
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『論語と算盤』教育と情誼・現代教育の得失一体現代の青年は学問を修める目的を誤っている。論語にも「古の学者は己のためにし、今の学者は人のためにす」と言って嘆じてあるが、移してもって今の時代に当てはめることが出来る。今の青年はただ学問のために学問をしているのである。初めより確然たる目的なく漠然と学問する結果、実際社会に出てから、我は何のために学びしやというがごとき疑惑に襲われる青年が往々にしてある。学問すれば誰でも皆偉い者になれる、という一種の迷信のために、自己の境遇生活状態をも顧みないで、分不相応の学問をする結果、後悔するがごときことがあるのである。
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『論語と算盤』教育と情誼・現代教育の得失しかるに現代青年の師弟関係は、全く乱れてしまって、美わしい師弟の情誼に乏しいのは寒心の至りである。今の青年は自分の師匠を尊敬しておらぬ。学校の生徒のごときは、その教師を観ること、あたかも落語師か講談師かのごとく、講義が下手だとか、解釈が拙劣であるとか、生徒としてあるまじきことを口にしている。これは一面より観れば、学科の制度が昔と異なり、多くの教師に接するためであろうが、すべて今の師弟の関係は乱れている。同時に教師もまたその子弟を愛しておらぬという嫌いもあるのである。要するに、青年は良師に接して自己の品性を陶冶しなければならない。昔の学問と今の学問とを比較して見ると、昔は心の学問を専一にしたが、現今は智識を得ることにのみ力を注いでいる。昔は読む書籍そのものがことごとく精神修養を説いているから、自然とこれを実践するようになったのである。修身斉家と言い、治国平天下と言い、人道の大義を教えたものである。
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『論語と算盤』教育と情誼・現代教育の得失現今でも高等教育を受けた青年の中には、昔の青年に比較して毫も遜色のない者がいくらもある。昔は少数でもよいから、偉い者を出すという天才教育であったが、今は多数の者を平均して啓発するという常識的教育となっているのである。昔の青年は良師を撰ぶということに非常に苦心したもので、有名な熊沢蕃山のごときは中江藤樹のもとへ行ってその門人たらんことを請い願ったが許されず、三日間その軒端を去らなかったので、藤樹もその熱誠に感じて、ついに門人にしたというほどである。その他新井白石の木下順庵における、林道春の藤原惺窩におけるがごときは、皆その良師を択んで学を修め、徳を磨いたのである。
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『論語と算盤』教育と情誼・人物過剰の一大原因しかるに今日の学生の一般は、その少数しか必要とされない、人を使役する側の人物たらんと志している。つまり学問して高尚な理窟を知って来たから、馬鹿らしくて人の下などに使われることは出来ないようになってしまっている。同時に教育の方針もまた若干その意義を取り違え、無闇に詰込主義の智識教育で能事足れりとするから、同一類型の人物ばかり出来上がり、精神修養を閑却した悲しさには、人に屈するということを知らぬので、いたずらに気位ばかり高くなって行くのだ。
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