論語と算盤 / 実業と士道・此の如き誤解あり
生産利殖は仁義道徳に関係のない人の携はるものとされて居たから、恰かも総て商業は罪悪なりと言はれた昔時と同様の状態であつた、是が殆んど三百年間の風を成した、其れも初めは極く簡単な方法で宜かつたが、次第に智識は減じ気力は衰へ、形式のみ繁多になり、遂に武士の精神廃り、商人は卑屈になつて、虚偽横行の世の中となつたのである。
書き下し
生産利殖は仁義道徳に関係のない人の携わるものとされていたから、あたかもすべて商業は罪悪なりと言われた昔時と同様の状態であった。これがほとんど三百年間の風をなした。それも初めは極く簡単な方法でよかったが、次第に智識は減じ気力は衰え、形式のみ繁多になり、ついに武士の精神は廃り、商人は卑屈になって、虚偽横行の世の中となったのである。
現代語訳
生産や利殖は、仁義道徳とは関係のない人間が携わるものとされていた。だから、すべての商業は罪悪だと言われた昔とほとんど同じ状態だった。これが三百年近く風習となった。初めのうちは簡単なやり方でよかったのだが、次第に知識は減り気力は衰え、形式ばかりが増え、ついに武士の精神は廃れ、商人は卑屈になって、偽りが横行する世の中となったのである。
解説
「仁を為せば富まず、富を為せば仁ならず」——この分断がどこから来たのかを、渋沢は江戸の統治構造に見る。徳川が武で天下を治め、その武士が奉じたのは孔子教だった。治める者は消費者であり生産には従事しない、利殖は人を治める職分に反する。だから「武士は喰はねど高楊枝」の風が保たれた。結果として道徳は治者の側に、商売は道徳の外に置かれた。そして三百年を経て、武士の精神は形式化して廃れ、商人は卑屈になり、偽りが横行した。分断で損をしたのは商人だけではなく、武士の側もだった、という見立てである。この本が二つを並べて題に置く理由が、歴史の側から説明されている。
この章句が説くこと
仁をなせば富まず武士は喰わねど高楊枝生産利殖虚偽横行
関連する章句
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『論語と算盤』実業と士道・此の如き誤解ありすなわち「仁をなせば富まず、富をなせば仁ならず」を事実において行ったのである。人を治める方は消費者であるから生産には従事しない。生産利殖のことをするのは、人を治め、人を教うる者の職分に反するものとして、いわゆる武士は喰わねど高楊枝という風を保った。人を治める者は人に養わるるものなり。ゆえに人の食を喰むものは人の事に死し、人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂うというが彼らの本分と考えられていた。
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『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なりけだし封建時代において、武士道と殖産功利の道と相背馳するがごとく解せられたのは、なおかの儒者が、仁と富とは並び行われざるもののごとく心得たと同一の誤謬であって、両者共に相背馳するものでないとの理由は、今日既に世人の認容し了解された所であろうと思う。孔子のいわゆる「富と貴とはこれ人の欲する所なり、その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪む所なり、その道をもってせずしてこれを得るも去らざるなり」とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義侠等に適合するものではあるまいか。孔子の訓において、賢者が貧賤に処してその道を易えぬというのは、あたかも武士が戦場に臨んで敵に後ろを見せざるの覚悟と相似たるもので、またかのその道をもってするにあらざれば、たとい富貴を得ることがあっても、安んじてこれに処らぬと言うのは、これまた古え武士がその道をもってせざれば一毫も取らなかった意気と、その軌を一にするものと言ってよろしかろう。
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『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なり武士道の神髄は正義、廉直、義侠、敢為、礼譲等の美風を加味したもので、一言にしてこれを武士道と唱えるけれども、その内容に至りてはなかなか複雑した道徳である。そして余がはなはだ遺憾に思うのは、この日本の精華たる武士道が、古来もっぱら士人社会のみに行われて、殖産功利に身を委ねたる商業者間に、その気風のはなはだ乏しかった一事である。古の商工業者は武士道に対する観念を著しく誤解し、正義、廉直、義侠、敢為、礼譲等のことを旨とせんには、商売は立ち行かぬものと考え、かの「武士は食わねど高楊枝」というがごとき気風は、商工業者に取っての禁物であった。おもうにこれは時勢のしからしめた所もあったであろうけれども、士人に武士道が必要であったごとく、商工業者もまたその道が無くてはかなわぬことで、商工業者に道徳は要らぬなぞとは飛んでもない間違いであったのである。
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『論語と算盤』理想と迷信・日新なるを要す商売は己を利することを眼目とするために、自分さえ利すればそれでよい、他人の迷惑は知らぬ存ぜぬという考えを持っている人がある。それゆえに利殖と道徳とは一致せぬという人もあるが、これは間違いで、そんな古い考えは今の世に通用させてはならぬ。維新頃までは、社会の上流、士大夫とも言うべき人は利殖に関係しないで、人格の低いものがこれに当たるというのであった。その後この風習は改まったが、まだ余喘を保っている。孟子は、利殖と仁義道徳とは一致するものであると言った。その後の学者がこの両者を引き離してしまった。仁義をなせば富貴に遠く、富貴なれば仁義に遠ざかるものとしてしまった。町人は素町人と呼びて賤められ、士のともに齢いすべきものでないとせられ、商人も卑屈に流れ、儲け主義一点張りとなった。これがために経済界の進歩は幾十年幾百年遅れたか分からぬ。今日は漸次消滅しつつあるが、まだ不足である。利殖と仁義の道とは一致するものであることを知らせたい。私は論語と十露盤とをもって指導しているつもりである。
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべし日本魂、武士道をもって誇りとする我が国の商工業者に道義的観念の乏しいということは、実に悲しむべきことであるが、そもそもその由って来るところをたずぬれば、従来因襲する教育の弊であると思う。予は歴史家にあらずまた学者にあらざれば、遠くその根源を究むることはできないけれども、かの「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という、朱子派の儒教主義は、近く維新前まで文教の大権を掌握せる林家の学によってその色彩を濃厚にし、被治者階級に属する農工商の生産界は、道徳の天則外に放置せらるるとともに、己れまた自ずから道義に束縛せらるるの必要なしと感ずるに至った。
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『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なりおよそ人としてその処世の本旨を忘れ、非道を行うても私利私欲を充たそうとすることがあったり、あるいは権勢に媚び諂うてもその身の栄達を計らんと欲するは、これ実に人間行為の標準を無視したもので、かくのごときは決してその身、その地位を永遠に維持する所以の道ではないのである。
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