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論語と算盤 / 人格と修養・修養は理論ではない

然るに日本に於ては其の空理空文の死学であつた宋朝の儒教を利用した為め、却つて実学の効験を発揮したのである、之を善く用ゐたのは徳川家康である、元亀天正の頃は日本を廿八天下と称して、国内麻の如くに乱れて、諸侯皆武備にのみ心を尽して居つたのである、その中にて家康は大に達観して、到底武のみを以て治国平天下の策とすべきで無いといふことを悟り、大に心を文事に注いで、支那に於ては死学空文であつた朱子の儒学を採つたのである、当初先づ藤原惺窩を聘し、次で林羅山を用ゐて、切りに学問を実際に応用した、即ち理論と実際とを調和し接近せしめたのである、現に家康が遺訓の一として今日まで人口に膾炙する『人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し、急ぐべからず、不自由を常と思へば不足なく、心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思へ、勝つ事ばかり知りてまくる事を知らざれば、害その身に至る、

書き下し

しかるに日本においてはその空理空文の死学であった宋朝の儒教を利用したため、かえって実学の効験を発揮したのである。これをよく用いたのは徳川家康である。元亀天正の頃は日本を廿八天下と称して、国内麻のごとくに乱れて、諸侯皆武備にのみ心を尽くしておったのである。その中にて家康は大いに達観して、到底武のみをもって治国平天下の策とすべきで無いということを悟り、大いに心を文事に注いで、支那においては死学空文であった朱子の儒学を採ったのである。当初まず藤原惺窩を聘し、次いで林羅山を用いて、しきりに学問を実際に応用した。すなわち理論と実際とを調和し接近せしめたのである。現に家康が遺訓の一として今日まで人口に膾炙する『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし、堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身に至る。

現代語訳

ところが日本では、その空理空文の死んだ学問であった宋の儒教を利用したために、かえって実学の効き目を発揮したのである。これをうまく用いたのは徳川家康である。元亀・天正の頃は、日本を「廿八天下」と称して、国内が麻のように乱れ、諸大名はみな武備にばかり心を尽くしていた。その中で家康は大いに先を見通し、とても武力だけを国を治め天下を平らかにする策とすべきではないと悟って、大いに学問や文事に心を注ぎ、中国では死んだ学問・空文であった朱子の儒学を採り入れたのである。はじめにまず藤原惺窩を招き、次いで林羅山を用いて、しきりに学問を実際に応用した。つまり理論と実際とを調和させ、近づけたのである。現に、家康の遺訓の一つとして今日まで広く人々に語られている「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る。

解説

中国では死学となった朱子学が、日本ではかえって実学の効を発揮した、と渋沢は論を転じる。その担い手が徳川家康である。戦国の世に武だけでは天下は治まらないと悟り、藤原惺窩を招き、その門人林羅山を登用して学問を政治に応用した。そして証拠として、いわゆる「東照宮御遺訓」の「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」を引く。ただしこの遺訓は、今日の研究では家康自身の作ではなく、水戸光圀の「人のいましめ」などをもとに明治期に整えられたものと考えられている。渋沢の時代には家康の遺訓として広く信じられていたのであり、その点は時代の通説として読む必要がある。それでも、学問を書斎にとどめず、治世の現場で使った家康像という渋沢の論旨は変わらない。学んだ理論を現場の言葉に翻訳して定着させることが、実学の要だという見方である。

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