論語と算盤 / 実業と士道・此の如き誤解あり
即ち『仁をなせば富まず、富をなせば仁ならず』を事実に於て行つたのである、人を治める方は消費者であるから生産には従事しない、生産利殖のことをするのは、人を治め、人を教ふる者の職分に反するものとして、謂ゆる武士は喰はねど高楊枝といふ風を保つた、人を治める者は人に養はる〻ものなり、故に人の食を喰むものは人の事に死し、人の楽を楽む者は人の憂を憂ふといふが彼等の本分と考へられて居た、
書き下し
すなわち「仁をなせば富まず、富をなせば仁ならず」を事実において行ったのである。人を治める方は消費者であるから生産には従事しない。生産利殖のことをするのは、人を治め、人を教うる者の職分に反するものとして、いわゆる武士は喰わねど高楊枝という風を保った。人を治める者は人に養わるるものなり。ゆえに人の食を喰むものは人の事に死し、人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂うというが彼らの本分と考えられていた。
現代語訳
つまり「仁をなせば富まず、富をなせば仁ならず」を事実として行ったのである。人を治める側は消費者であるから、生産には従事しない。生産や利殖のことをするのは、人を治め人を教える者の職分に反するものとして、いわゆる「武士は食わねど高楊枝」という気風を保った。人を治める者は人に養われるものである。だから人の食を食む者は人のことに命を捧げ、人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂える、というのが彼らの本分と考えられていた。
解説
江戸の武士は、孟子の引いた「仁をなせば富まず、富をなせば仁ならず」を、そのまま身分の制度として生きた。治める者は消費者であって生産しない。利殖は職分に反する。だから「武士は食わねど高楊枝」、貧しくても体面を保つ気風が守られた。その代わりに武士には重い本分が課せられていた。人に養われる者は人のために死に、人の楽しみを享ける者は人の憂いを憂える、という覚悟である。前半は『史記』淮陰侯列伝で韓信が漢王の恩を語った「人の食を食う者は人の事に死す」に通じる。養われる者の責任という考えには、公に仕える者の気高さがある。問題は、その気高さが生産と切り離され、道徳は武士のもの、利は町人のものと分けられたことだった。渋沢が目指したのは、この覚悟を実業の側に取り戻すことだったと言える。
関連する章句
-
『論語と算盤』実業と士道・此の如き誤解あり生産利殖は仁義道徳に関係のない人の携わるものとされていたから、あたかもすべて商業は罪悪なりと言われた昔時と同様の状態であった。これがほとんど三百年間の風をなした。それも初めは極く簡単な方法でよかったが、次第に智識は減じ気力は衰え、形式のみ繁多になり、ついに武士の精神は廃り、商人は卑屈になって、虚偽横行の世の中となったのである。
-
『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なりけだし封建時代において、武士道と殖産功利の道と相背馳するがごとく解せられたのは、なおかの儒者が、仁と富とは並び行われざるもののごとく心得たと同一の誤謬であって、両者共に相背馳するものでないとの理由は、今日既に世人の認容し了解された所であろうと思う。孔子のいわゆる「富と貴とはこれ人の欲する所なり、その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪む所なり、その道をもってせずしてこれを得るも去らざるなり」とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義侠等に適合するものではあるまいか。孔子の訓において、賢者が貧賤に処してその道を易えぬというのは、あたかも武士が戦場に臨んで敵に後ろを見せざるの覚悟と相似たるもので、またかのその道をもってするにあらざれば、たとい富貴を得ることがあっても、安んじてこれに処らぬと言うのは、これまた古え武士がその道をもってせざれば一毫も取らなかった意気と、その軌を一にするものと言ってよろしかろう。
-
『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なり武士道の神髄は正義、廉直、義侠、敢為、礼譲等の美風を加味したもので、一言にしてこれを武士道と唱えるけれども、その内容に至りてはなかなか複雑した道徳である。そして余がはなはだ遺憾に思うのは、この日本の精華たる武士道が、古来もっぱら士人社会のみに行われて、殖産功利に身を委ねたる商業者間に、その気風のはなはだ乏しかった一事である。古の商工業者は武士道に対する観念を著しく誤解し、正義、廉直、義侠、敢為、礼譲等のことを旨とせんには、商売は立ち行かぬものと考え、かの「武士は食わねど高楊枝」というがごとき気風は、商工業者に取っての禁物であった。おもうにこれは時勢のしからしめた所もあったであろうけれども、士人に武士道が必要であったごとく、商工業者もまたその道が無くてはかなわぬことで、商工業者に道徳は要らぬなぞとは飛んでもない間違いであったのである。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ余が平素の持論としてしばしば言う所のことであるが、従来利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不十分であったために、「仁をなせばすなわち富まず、富めばすなわち仁ならず」、利に就けば仁に遠ざかり、義によれば利を失うというように、仁と富とをまったく別物に解釈してしまったのは、甚だ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないというような所に立ち至らしめた。余はこの点について多年痛嘆措くあたわざるものであったが、要するにこれ後世の学者のなせる罪で、既に数次述べたるごとく、孔孟の訓えが「義利合一」であることは、四書を一読する者のただちに発見する所である。
-
『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なりおよそ人としてその処世の本旨を忘れ、非道を行うても私利私欲を充たそうとすることがあったり、あるいは権勢に媚び諂うてもその身の栄達を計らんと欲するは、これ実に人間行為の標準を無視したもので、かくのごときは決してその身、その地位を永遠に維持する所以の道ではないのである。
-
『論語と算盤』理想と迷信・廓清の急務なる所以旧に復って、治める方の人のみが道義を重んじ、生産殖利に従事する人はなるたけ制限して、ごく小さい範囲に棲息せしむるようにして行ったならば、その弊害を減ずることが出来るか知れないが、それでは国の富の進歩は止まってしまう。そこであくまで富を進め、富を擁護しつつ、その間に罪悪の伴わぬ神聖な富を作ろうとするには、どうしても一の守るべき主義を持たなければならぬ。それはすなわち私が常に言っている所の仁義道徳である。仁義道徳と生産殖利とは決して矛盾しない。だからその根本の理を明らかにして、かくすればこの位置を失わぬということを、我れ人共に十分に考究して、安んじてその道を行うことが出来たならば、あえて相率いて腐敗堕落に陥るということなく、国家的にも個人的にも、正しく富を増進することが出来ると信ずる。その方法として日常の事につき、かかる商売にはかくかく、かかる事業にはかくかくとここに詳述は出来ないが、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る