論語と算盤 / 実業と士道・武士道は即ち実業道なり
蓋し封建時代に於て、武士道と殖産功利の道と相背馳するが如く解せられたのは、猶ほ彼の儒者が、仁と富とは並び行はれざるもの〻如く心得たと同一の誤謬であつて、両者共に相背馳するものでないとの理由は、今日既に世人の認容し了解された所であらうと思ふ、孔子の謂ゆる『富と貴とは是れ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処らざるなり、貧と賤とは是れ人の悪む所なり、其の道を以てせずして之を得るも去らざるなり』とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義俠等に適合するものではあるまいか、孔子の訓に於て、賢者が貧賤に処して其の道を易へぬといふのは、恰かも武士が戦場に臨んで敵に後を見せざるの覚悟と相似たるもので、又彼の其の道を以てするに非ざれば、仮令富貴を得ることがあつても、安んじてこれに処らぬと曰ふのは、これまた古へ武士が其の道を以てせざれば一毫も取らなかつた意気と、その軌を一にするものと謂つて宜しからう、
新字:蓋し封建時代に於て、武士道と殖産功利の道と相背馳するが如く解せられたのは、猶ほ彼の儒者が、仁と富とは並び行はれざるもの〻如く心得たと同一の誤謬であつて、両者共に相背馳するものでないとの理由は、今日既に世人の認容し了解された所であらうと思ふ、孔子の謂ゆる『富と貴とは是れ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処らざるなり、貧と賤とは是れ人の悪む所なり、其の道を以てせずして之を得るも去らざるなり』とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義侠等に適合するものではあるまいか、孔子の訓に於て、賢者が貧賤に処して其の道を易へぬといふのは、恰かも武士が戦場に臨んで敵に後を見せざるの覚悟と相似たるもので、又彼の其の道を以てするに非ざれば、仮令富貴を得ることがあつても、安んじてこれに処らぬと曰ふのは、これまた古へ武士が其の道を以てせざれば一毫も取らなかつた意気と、その軌を一にするものと謂つて宜しからう、
書き下し
けだし封建時代において、武士道と殖産功利の道と相背馳するがごとく解せられたのは、なおかの儒者が、仁と富とは並び行われざるもののごとく心得たと同一の誤謬であって、両者共に相背馳するものでないとの理由は、今日既に世人の認容し了解された所であろうと思う。孔子のいわゆる「富と貴とはこれ人の欲する所なり、その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪む所なり、その道をもってせずしてこれを得るも去らざるなり」とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義侠等に適合するものではあるまいか。孔子の訓において、賢者が貧賤に処してその道を易えぬというのは、あたかも武士が戦場に臨んで敵に後ろを見せざるの覚悟と相似たるもので、またかのその道をもってするにあらざれば、たとい富貴を得ることがあっても、安んじてこれに処らぬと言うのは、これまた古え武士がその道をもってせざれば一毫も取らなかった意気と、その軌を一にするものと言ってよろしかろう。
現代語訳
思うに、封建時代において、武士道と、産業を興し利益を求める道とが互いに相反するもののように解されたのは、ちょうどあの儒者たちが、仁と富とは両立しないもののように心得ていたのと同じ誤りであって、両者がともに相反するものではないという理由は、今日すでに世の人々が認め、理解しているところであろうと思う。孔子のいわゆる「富と高い身分とは人の欲するものである。しかし、正しい道によらずにそれを得たのなら、そこに安住しない。貧しさと卑しい身分とは人の憎むものである。しかし、正しい道によらずにそうなったとしても、そこから逃れようとはしない」という言葉は、まことに武士道の真髄である正義・廉直・義侠などに合致するものではあるまいか。孔子の教えで、賢者が貧しく卑しい境遇にあってもその道を変えないというのは、ちょうど武士が戦場に臨んで敵に背を見せないという覚悟とよく似たものであり、また、正しい道によるのでなければ、たとえ富貴を得ることがあっても安んじてそこにいないと言うのは、これもまた昔の武士が、正しい道によらなければ毛一本ほども取らなかった意気と、同じ筋道のものであると言ってよいだろう。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観従来儒者が孔子の説を誤解していた中にも、その最も甚だしいのは富貴の観念貨殖の思想であろう。彼らが論語から得た解釈によれば、「仁義王道」と「貨殖富貴」との二者は氷炭相容れざるものとなっている。しからば孔子は「富貴の者に仁義王道の心あるものはないから、仁者となろうと心掛けるならば富貴の念を捨てよ」という意味に説かれたかと言うに、論語二十篇を隈なく捜索してもそんな意味のものは一つも発見することは出来ない。否、むしろ孔子は貨殖の道に向かって説をなしておられる。しかしながらその説き方が例の半面観的であるものだから、儒者がこれに向かって全局を解することが出来ず、ついに誤りを世に伝えるようになってしまったのである。
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『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なりいやしくも世に処し身を立てようと志すならば、その職業の何たるを問わず、身分の如何を顧みず、終始自力を本位として須臾も道に背かざることに意を専らにし、然る後に自ら富みかつ栄ゆるの計を怠らざるこそ、真の人間の意義あり価値ある生活ということが出来よう。今や武士道は移してもって実業道とするがよい。日本人はあくまで大和魂の権化たる武士道をもって立たねばならぬ。商業にまれ工業にまれ、この心をもって心とせば、戦争において日本が常に世界の優位を占めつつあるごとく、商工業においてもまた世界に勇を競うに至られるのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観例を挙ぐれば、論語の中に「富と貴とはこれ人の欲する所なり、その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪む所なり、その道をもってせずしてこれを得れば去らざるなり」という句がある。
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『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なりおよそ人としてその処世の本旨を忘れ、非道を行うても私利私欲を充たそうとすることがあったり、あるいは権勢に媚び諂うてもその身の栄達を計らんと欲するは、これ実に人間行為の標準を無視したもので、かくのごときは決してその身、その地位を永遠に維持する所以の道ではないのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観この言葉はいかにも言裡に富貴を軽んじた所があるようにも思われるが、実は側面から説かれたもので、仔細に考えて見れば、富貴を賤しんだところは一つもない。その主旨は富貴に淫するものを誡められたまでで、これをもって直ちに孔子は富貴を厭悪したとするは、誤謬もまた甚だしと言わねばならぬ。孔子の言わんと欲する所は、道理を持った富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならばあえて差支えないとの意である。して見れば富貴を賤しみ貧賤を推称した所はさらにないではないか。この句に対して正当の解釈を下さんとならば、よろしく「道を以てせずして之を得れば」という所によく注意することが肝要である。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ余が平素の持論としてしばしば言う所のことであるが、従来利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不十分であったために、「仁をなせばすなわち富まず、富めばすなわち仁ならず」、利に就けば仁に遠ざかり、義によれば利を失うというように、仁と富とをまったく別物に解釈してしまったのは、甚だ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないというような所に立ち至らしめた。余はこの点について多年痛嘆措くあたわざるものであったが、要するにこれ後世の学者のなせる罪で、既に数次述べたるごとく、孔孟の訓えが「義利合一」であることは、四書を一読する者のただちに発見する所である。
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