論語と算盤 / 仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ
後世儒者の其意を誤り伝へられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に『計を用ゐ数を用ふるは、仮饒ひ功業を立て得るも、只是れ人慾の私にして、聖賢の作処とは天地懸隔す』と説き、貨殖功利のことを貶して居る、其の言葉を押進めて考へて見れば、彼のアリストートルの『総ての商業は罪悪なり』と曰へる言葉に一致する、之を別様の意味から言へば、仁義道徳は仙人染みた人の行ふべきことであつて、利用厚生に身を投ずるものは仁義道徳を外にしても構はぬといふに帰着するのである、此の如きは決して孔孟教の骨髄ではなく、彼の閩洛派の儒者によつて捏造された妄説に外ならぬ、然るに我国では元和寛永の頃より此の学説が盛んに行はれ、学問といへば此の学説より外にはないと云ふまでに至つた、而して此の学説は今日の社会に如何なる余弊を齎らして居るのであらうか。
書き下し
後世儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に「計を用い数を用うるは、たとい功業を立て得るも、ただこれ人欲の私にして、聖賢の作処とは天地懸隔す」と説き、貨殖功利のことを貶している。その言葉を押し進めて考えてみれば、かのアリストートルの「すべての商業は罪悪なり」と言える言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人じみた人の行うべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは仁義道徳を外にしても構わぬというに帰着するのである。かくのごときは決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派の儒者によって捏造された妄説にほかならぬ。しかるに我が国では元和寛永の頃よりこの学説が盛んに行われ、学問といえばこの学説よりほかにはないというまでに至った。そしてこの学説は今日の社会にいかなる余弊をもたらしているのであろうか。
現代語訳
後世の儒者が孔孟の意を誤って伝えた一例を挙げれば、宋の大儒である朱子が『孟子』の序説に「はかりごとを用い術数を用いるのは、たとえ功業を立てられたとしても、ただ人欲の私にすぎず、聖賢のなすところとは天と地ほども隔たっている」と説いて、財を殖やすことや功利を貶めている。その言葉を押し進めて考えてみれば、あのアリストテレスの「すべての商業は罪悪である」という言葉と一致する。これを別の言い方で言えば、仁義道徳は仙人じみた人の行うべきことであって、利用厚生に身を投じる者は仁義道徳を外にしても構わない、ということに帰着するのである。このようなものは決して孔孟の教えの真髄ではなく、あの閩洛派(朱子や程子らの宋学)の儒者によってこしらえられた妄説にほかならない。ところが我が国では元和・寛永のころからこの学説が盛んに行われ、学問といえばこの学説のほかにはないというまでになった。そしてこの学説は、今日の社会にどのような弊害を残しているのであろうか。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』理想と迷信・日新なるを要す商売は己を利することを眼目とするために、自分さえ利すればそれでよい、他人の迷惑は知らぬ存ぜぬという考えを持っている人がある。それゆえに利殖と道徳とは一致せぬという人もあるが、これは間違いで、そんな古い考えは今の世に通用させてはならぬ。維新頃までは、社会の上流、士大夫とも言うべき人は利殖に関係しないで、人格の低いものがこれに当たるというのであった。その後この風習は改まったが、まだ余喘を保っている。孟子は、利殖と仁義道徳とは一致するものであると言った。その後の学者がこの両者を引き離してしまった。仁義をなせば富貴に遠く、富貴なれば仁義に遠ざかるものとしてしまった。町人は素町人と呼びて賤められ、士のともに齢いすべきものでないとせられ、商人も卑屈に流れ、儲け主義一点張りとなった。これがために経済界の進歩は幾十年幾百年遅れたか分からぬ。今日は漸次消滅しつつあるが、まだ不足である。利殖と仁義の道とは一致するものであることを知らせたい。私は論語と十露盤とをもって指導しているつもりである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよしかるにこの場合に際し、もし実業家が我勝ちに私利私慾を計るに汲々として、世間はいかようになろうと、自分さえ利益すれば構わぬと言っていれば、社会はますます不健全となり、嫌悪すべき危険思想は徐々に蔓延するようになるに相違ない。果たしてしからば危険思想醸成の罪は、ひとえに実業家の双肩に負わねばならなくなる。ゆえに一般社会のためにこれを匡正せんとするならば、この際我々の職分として、極力仁義道徳によって利用厚生の道を進めて行くという方針を取り、義利合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ。富みながらかつ仁義を行い得る例はたくさんにある。義利合一に対する疑念は今日ただちに根本から一掃せねばならぬ。
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『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらずかつて某新聞紙上にアリストテレスの言として、「すべての商業は罪悪である」という意味の句があったと記憶しているが、随分極端な言い方であると思ったが、なお再考すれば、すべて得失が伴うものには、人もその利慾に迷いやすく、自然仁義の道は外れる場合が生ずるものであるから、それらの弊害を誡むるためかような過激なる言葉を用いたものかと思われる。どうしても人情の弱点として、物質上の事に眼が着きやすく、精神上のことを忘れて物質を過重する弊害の生ずるはやむを得ないことであるが、思想も幼稚であり、道徳上の観念の卑しい者ほど、この弊害に陥りやすいものである。ゆえに昔は全体から観れば、智識も乏しく道義心も浅薄にして、得失のため罪悪に陥る者が多かったのであると思われるので、ことさらに金銭を卑しむ風が高まったのであろう。
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべしこの学派の師宗朱子その人が、ただ大学者というまでにて、実践躬行、口に道徳を説き、身に仁義を行う底の人物でなかったから、林家の学風も、儒者は聖人の学説を講述する者、俗人はこれを実地に行うべきものとし、説く者と行う者との区別を生じ、これが結果として、孔孟のいわゆる民すなわち被治者階級に属する者は、ただ命これ奉じて、一村一町の公役行事を怠らざれば足るという卑屈根性を馴致し、道徳仁義は治者のなすべきこと、百姓は政府より預りたる田畑を耕し、町人は算盤の目をせせってさえおれば能事了るという考えが、習い性をなして国家を愛するとか、道徳を重んずるとかいう観念は全く欠乏したのである。鮑魚の市に入るものは自らその臭を知らずといえば、かかる数百年の悪風に養われ、いわゆる糞厮の臭きを忘れたるものを薫化し、陶冶し、あっぱれ有道の君子的人物となすは、もとより容易のことでは無いのに、欧米の新文明の輸入は、この道義的観念の欠乏に乗じ、翕然として功利の科学に向かわしめ、いよいよその悪風を助長することとなった。
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべし日本魂、武士道をもって誇りとする我が国の商工業者に道義的観念の乏しいということは、実に悲しむべきことであるが、そもそもその由って来るところをたずぬれば、従来因襲する教育の弊であると思う。予は歴史家にあらずまた学者にあらざれば、遠くその根源を究むることはできないけれども、かの「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という、朱子派の儒教主義は、近く維新前まで文教の大権を掌握せる林家の学によってその色彩を濃厚にし、被治者階級に属する農工商の生産界は、道徳の天則外に放置せらるるとともに、己れまた自ずから道義に束縛せらるるの必要なしと感ずるに至った。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ余が平素の持論としてしばしば言う所のことであるが、従来利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不十分であったために、「仁をなせばすなわち富まず、富めばすなわち仁ならず」、利に就けば仁に遠ざかり、義によれば利を失うというように、仁と富とをまったく別物に解釈してしまったのは、甚だ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないというような所に立ち至らしめた。余はこの点について多年痛嘆措くあたわざるものであったが、要するにこれ後世の学者のなせる罪で、既に数次述べたるごとく、孔孟の訓えが「義利合一」であることは、四書を一読する者のただちに発見する所である。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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