論語と算盤 / 実業と士道・果して誰の責任ぞ
然るに其の因つて来る所以を究めずして、徒らに皮相の観察を下し、一概に日本人の契約観念は不確実である、商業道徳は劣等であると非難するは、余りに無理であるといふより外は無い。斯く論ずればとて、余が日本の商業道徳の現在に満足せぬことは勿論である、兎に角近頃の商工業者の間に、或は道徳観念が薄いとか、或は自己本位に過ぎるとかいふ評を加へられることは、当業者の相互に警戒せねばならぬことではあるまいか。
書き下し
しかるにその因って来る所以を究めずして、いたずらに皮相の観察を下し、一概に日本人の契約観念は不確実である、商業道徳は劣等であると非難するは、あまりに無理であるというより外は無い。かく論ずればとて、余が日本の商業道徳の現在に満足せぬことはもちろんである。とにかく近頃の商工業者の間に、あるいは道徳観念が薄いとか、あるいは自己本位に過ぎるとかいう評を加えられることは、当業者の相互に警戒せねばならぬことではあるまいか。
現代語訳
それなのに、その由来するところを突き詰めずに、むやみに表面的な観察を下し、一概に日本人の契約観念は不確かだ、商業道徳は劣っていると非難するのは、あまりに無理だと言うほかはない。こう論じたからといって、私が日本の商業道徳の現状に満足していないことはもちろんである。とにかく近ごろの商工業者の間に、道徳観念が薄いとか、自己本位に過ぎるとかいう評が加えられていることは、業界の者が互いに戒めなければならないことではないだろうか。
解説
章の結びである。渋沢は二つのことを同時に言う。日本人の契約観念は不確実だ、商業道徳は劣等だという外からの非難は、原因を究めない皮相な見方で無理がある。しかし、だからといって現状に満足しているわけではない、と。道徳観念が薄い、自己本位に過ぎるという評があるなら、それは当業者が互いに警戒すべきことだ、と結ぶ。前の段で文化の違いを説明した直後に、その説明を言い訳にしない一文を置いている。章題の「果して誰の責任ぞ」への答えは、ここではっきりする。批判が的外れな部分はあっても、改善の責任は結局、商工業者自身にある。渋沢は東京商業会議所の初代会頭を務め、業界全体の信用を高めることに長く力を注いだ。自分たちへの批判を、外部の無理解として退けるだけでは何も変わらないと知っていた。
関連する章句
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『論語と算盤』実業と士道・果して誰の責任ぞ世人ややもすれば維新以後における商業道徳は、文化の進歩に伴わずしてかえって衰えたと言う。しかしながら余はなにゆえに道徳が退歩、もしくは頽廃したか、その理由を知るに苦しむ者である。これを昔日の商工業者に比すれば、今日の商工業者とそのいずれが道徳観念に富み、いずれが信用を重んずるであろうか。余は今日をもって遙かに昔日に優るものと断言するに憚からぬ。けれども今日他の事物の進歩した割合に道徳が進んでおらぬとは、すでに前説のごとくであるから、余は必ずしも世人の説を駁する訳ではない。ただ吾人のこの間に処するものは、かくのごとき世評の生ずる理由を詮索し、一日も早く道徳をして物質的文明と比肩せしめ得るの程度に向上させなくてはならぬ。それは前に述べたるがごとき方法の下に道徳を講ずるのが先決問題であろう。しかしそれとても特別の工夫方法を要する訳でなく、ただ日常の経営においてさよう心掛けておれば足るのであるから、さまで難しいものではない。
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『論語と算盤』実業と士道・果して誰の責任ぞ国異なれば道義の観念もまた自ずと異なるものであるから、仔細にその社会の組織風習に鑑み、祖先以来の素養慣習に考え、その国、その社会に適応する所の道徳観念の養成を努めなければならぬものである。一例を挙げれば、「父召せば諾なし、君命じて召せば駕を待たずして行く」とは、すなわち日本人が君父に対する道徳観念である。父が召せば声に応じて起ち、君が命じて召すことあれば、場合を問わずして直ちに自ら赴くとは、古来日本人士の間に自然的に養成されたる一種の習慣性である。しかるにこれを個人本位の西洋主義に比較すれば、その軒輊は非常なもので、西洋人の最も尊重する個人の約束も、君父の前には犠牲としてあえて顧みぬでもよいということになる。日本人は忠君愛国の念に富んだ国民であると称揚される傍から、個人間の約束を尊重せぬとの誹謗を受けるのも、要するにその国固有の習慣性が然らしめたので、我と彼ではその重んずる所のものに差違がある。
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『論語と算盤』実業と士道・果して誰の責任ぞ維新以来物質的文明が急激なる発達をなしたるに反し、道徳の進歩がそれに伴わなかったので、世人はこの不釣合の現象に著しく注目して、商業道徳退歩というのであるとして見れば、仁義道徳の修養に心を用い、物質的進歩と互角の地位に進ませるが目下の急務には相違ないが、一面から考察して見ると、単に外国の風習ばかりを見て、直ちにこれを我が国に応用せんとすれば、あるいは不可能を免れぬこともある。
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『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なりおもうにこの武士道は、ただに儒者とか武士とかいう側の人々においてのみ行わるるものではなく、文明国における商工業者の、拠りてもって立つべき道もここに存在することと考える。かの泰西の商工業者が、互いに個人間の約束を尊重し、たといその間に損益はあるとしても、一度約束した以上は、必ずこれを履行して前約に背反せぬということは、徳義心の鞏固なる正義廉直の観念の発動にほかならぬのである。しかるに我が日本における商工業者は、なおいまだ旧来の慣習を全く脱することが出来ず、ややもすれば道徳的観念を無視して、一時の利に趨らんとする傾向があって困る。欧米人も常に日本人がこの欠点あることを非難し、商取引において日本人に絶対の信用を置かぬのは、我が邦の商工業者に取って非常な損失である。
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべししかるに世人はこの種の人物を成功者として尊敬し羨望し、青年後進の徒もまたこれを目標として、何とかしてその塁を摩せんとするに腐心する所より、悪風滔々として底止するところを知らざる勢いとなっている。かく言えば、我が商業者のすべては皆不信背徳の醜漢のようであるが、孟子も「人の性は善なり」と言えるごとく、善悪の心は人皆これあれば、中には君子的人物であって、深く商業道徳の頽廃を慨し、これが救済に努力している者も尠くないが、何にせよ既往数百年来の弊習を遺伝し、功利の学説によりて悪しき方面の智巧を加えたる者を、一朝有道の君子たらしむるは容易に望み得らるべきでは無い。さりとてそれをこのままに放任するは、根なき枝に葉を繁らし、幹なき樹に花を開かしめんとするものにて、国本培養も商権拡張も、到底得て望むべきにあらざれば、
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべし日本魂、武士道をもって誇りとする我が国の商工業者に道義的観念の乏しいということは、実に悲しむべきことであるが、そもそもその由って来るところをたずぬれば、従来因襲する教育の弊であると思う。予は歴史家にあらずまた学者にあらざれば、遠くその根源を究むることはできないけれども、かの「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という、朱子派の儒教主義は、近く維新前まで文教の大権を掌握せる林家の学によってその色彩を濃厚にし、被治者階級に属する農工商の生産界は、道徳の天則外に放置せらるるとともに、己れまた自ずから道義に束縛せらるるの必要なしと感ずるに至った。
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